第一章  夏のはじまり


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「判ってるよ。もう、大丈夫だってば」
『そうは言ってもあんた、心配にはなるでしょうが。大体そっちに行ったのだって』
「判ってるってばっ! もう、いいかげん切るよ? 心配しないでよ。また電話するから」
『あ、ちょっとあかね』
 受話器からの母さんの声を締め出して、あたしは電話を終えた。古めかしいタイプの電話機はがちゃんと派手な音を立てる。それに紛れさせるように、細く長く息を吐く。
 心配してくれるのは判るけどさ。正直、結構きつい。ありがたいのだろうけど、重すぎる。
「あかね、電話終わったのかい?」
 背後から声を掛けられて、あたしは慌てて笑顔を作って振り返る。
「うん。電話ありがと、ばぁば。携帯通じないとは思わなかったからびっくりした」
「はっはっ、そーりゃあんた。こんなド田舎に期待しすぎだよ」
 そう言って、ばぁばは豪快に笑った。ばぁば――あたしの祖母、高槻桔梗。今年何歳だっけ? 六十いくつかだったと思うけど、お世辞じゃなくて全然そうは見えない。綺麗な髪をお団子にしていて、エプロンをつけている。
「美紗子さん、なんて言ってたんだい?」
「ばぁばたちに迷惑かけないようにって」
「そりゃ杞憂だね。孫と過ごせて迷惑に思うばぁばなんていやしないよ」
 ばぁばは笑ってあたしの頭を軽く叩いた。父さんと、こういうところは似てると思う。逆か。父さんがばぁばに似てるんだな、きっと。
「あかね、荷物は整理終わったんかい?」
「うん。あんま持ってきてないし。ばぁば、部屋ありがとう。広くてびっくりした」
「部屋だけはいくらでもあるからねぇ」
 ばぁばは笑ってそれを示すように視線をずらす。
 民宿桔梗亭。
 じぃじが名づけたこの民宿がばぁばたちの家で、そしてこの一ヶ月だけあたしの家にもなる。
「さって、晩御飯作りにかかるかねぇ。さっきしぃちゃん……じぃじがでかい魚持って帰ってきたからね。今日はばぁば腕振るうよ」
「手伝おうか?」
「いい、いい。あんたまだ外見てないんだから、散歩でもしといで。ド田舎だけど、いいとこだよ。あんたにも見て欲しい」
 そう言って、ばぁばはにっこりと笑った。笑い皺が深く刻まれる顔は、ひどく優しく見える。
 迷惑かけないように、ちゃんとお手伝いもして、と散々電話口で言われたばっかりだったのでちょっとばかり気まずくはあったけれど、結局あたしはばぁばの好意に甘えることにした。

 ◇

 夏休みの一ヶ月だけ、ばぁばとじぃじのところに行ってみたらどうだ?
 最初にそう提案したのは父さんだった。母方の祖父母は家がそう離れていないから結構行き来はあったけど、父方の祖父母――つまり今話していたばぁばたちとは実はあんまり交流がなかった。それなのに突然父さんがそう言い出したのは少し驚いた。母さんはちょっと静かな田舎に行ってみるのもいいものかもね、なんて言い出して、結局なんだか丸め込まれる形でここに来ることを承諾したのが七月の半ば過ぎ。あれよあれよという間に準備が整って、この島に来ることになったのが今日――八月一日だった。
 朝早くに神奈川の自宅を出て、福島の相馬港に辿り着いたのがお昼ごろ。ぱっと見漁船しかなさそうな港で、一日に五本しか出ていないという高速客船に乗り込んだのが一時過ぎ。そこから一時間近くで着いたのが御木島みきじまというところで、さらにそこからスクールバスならぬスクールボートで十分。ようやく辿り着いたのが、ここ、嵯孤島さこじまだった。
 なんとなく、父さんがあたしたち家族をこの島に連れてきたことがないのが理解できた。遠すぎる。ひたすら、遠すぎる。民宿がばぁばの家いっこしかないのも理解できる。途中経由してきた御木島は、そこそこ賑わっていた。そこからさらにスクールボートでしかこれない島に行くより、御木島でだって田舎気分は存分に味わえるだろう。あたしだって普通に遊びに来るなら御木島でいいと思う。
 そんなわけで、散歩に――と言われたところで正直どうしようもなかった。
「すごいな……」
 足の向くまま歩きながら、ぽつりと言葉を漏らす。
 港からはそこそこ離れていて、でも遠すぎもしない場所に桔梗亭は建っている。あたしは港の傍を歩いていた。停泊している漁船もいくつかあるけれど、人の姿は殆どない。
 防波堤に上ってみた。少し、視界が高くなる。
 それでも人影は見えなかった。防波堤のすぐ下は海だ。視線を海の遠くにやれば、くっきりと見える御木島と、大分霞んでいる鵜の尾岬。本土がやけに遠い。
「やっぱ、すごいな」
 もう一度、呟く。何がすごいって、娯楽施設らしきものが全くないところだ。
 映画館もカラオケも何もない。それどころか、本屋やCDショップもないらしい。ばぁばにそれを聞いて、軽く絶望した。荷物をあんまり持ちたくなかったので、本もCDも少ししか持ってこなかったのだ。この絶望的に娯楽に飢えた場所で一ヶ月過ごせる自信が、あたしにはない。住民の人たちには悪いけど、普段どうやって生活しているんだろう。そんなことを思う。
 ざっと頭の中でばぁばに聞いた情報を思い出してみた。周囲は十キロもないらしい本当に小さな島で、人口も百二十人程度だって言っていた。うっかり、あたしの学校の一学年の半分くらいしかいない。小さすぎるけど、一応山なんかもあって起伏はそこそこある。ここがあたしが十五の夏を過ごす場所――かぁ。
 すでに六時近いというのに夏の陽射しは容赦ない。白のチュニックから出た腕を、ショートパンツから出た足を、問答無用で焼いていく。それでも心地よい暑さだった。不思議と不快感はない。汗はかくし吸い込む空気ももちろん熱いけど、気持ちよかった。風かな。海から吹いてくる涼風が、絶えず火照った身体を冷やしてくれるので気持ちよく感じるのかもしれない。
 娯楽に決定的に飢えた島。
 ただ、空気というか風というか、島の雰囲気は悪くない。そこだけは救いなのかも。
 防波堤の上に立って、大きく息を吸う。潮の匂い――磯の香りがする。横浜育ちなので海そのものは別段珍しくもないのだけれど、不思議と匂いは違った。横浜の海に匂いを強く意識したことはなかったけど、この島では匂いが強く海を主張している。
 暫く、その匂いに身を任せていた。
 防波堤の上に立って、うっすら傾き始めた陽射しを浴びながら、風に吹かれて潮の匂いに包まれる。カナカナカナとヒグラシの声。ざん、と潮騒の音が広がる。なんでもない時間がゆっくり過ぎていく。その感覚は、心の奥のほうにある黒いもやもやを薄れさせてくれる。
 ――こういうのも、悪くないのかも。
 目を閉じて、心穏やかにそんなことを思う。その瞬間、だった。
 ぶぁさっ!
 ……としか形容のしようのない音が聞こえた。同時に、息が詰まる。
 何!?
 混乱して慌てて目を開ける。視界がぼやけていた。比喩でもなんでもなくて――顔に何か、被さっている? 薄く霞んだ夕焼けが滲んでいるだけでいまいち視野がはっきりしない。それだけじゃなかった。息が出来ない。何? 判らないまま手を顔にやる。指先がつるりと滑った。
 ――布?
 息苦しさの中で顔に張り付いてきた布らしきものを取ろうとする。する――の、だけれど。
 とっ……取れない?
 布は巻きついているというか張り付いているというか、異様な密着度であたしの顔を覆っていて、そのせいでなんだか息が出来なくなっている。
 どっ、どういうこと!? 何で剥がれないの!? 息できないよ!?
 心の中で悲鳴を上げて、必死で顔に張り付いたそれを取ろうともがく。その時、だった。
『ちょっと爪たてんじゃないわよ、痛いじゃない!』
 硬直した。布らしきものを取ろうともがいていた手が止まる。今何か聞こえた、ような気が。
 硬直したあたしの耳のすぐ脇で、甲高い女の子の声が響いた。
『あら、おとなしく出来るんじゃない』
 ――っ!?
 その瞬間、あたしは盛大に悲鳴を上げて――残っていた息もすべて吐き出してしまって――ふらり、とバランスを崩した。反射的に踏み出した右足がかくんと折れる。体が、一瞬浮いた。その時になってようやく思い出した。ここは防波堤の上だった。そんな不安定な場所でもがいてバランス崩せばどうなるかなんて、子どもでも判ることだ。
 落ちる。
 その三文字が頭を駆け抜ける。
 真っ暗な視界の中、突きだした手は何も掴むこともなくむなしく熱い空気をかいて、あたしは全身で重力を感じた。同時に――強く叩きつけられた。ごぼんっ、という水音が鼓膜を揺さぶる。冷たい。痛い。苦しい! がぼっ、と息が搾り出される。吐き出せるほどは息が残っていた、らしい。けれど限界だった。スニーカーが重くて、水を蹴ることもままならない。それでも何とか顔に張り付いた布を取ろうともがく。爪が頬に当たった。それで、気付く。布はいつの間にか取れていた。目をこじ開ける。海水は、目が痛い。それでも何とか確保した視界のすぐ傍で布が漂っている。妙な恐怖感でそれを払おうとした時、布はするりと、まるで生きているみたいに腕に巻きついてきた。
 息が、足りない。巻きつかれた得体の知れない布に対する恐怖と、息が出来ない苦しさで意識のどこかがすうと霞んでいく。
 死ぬかも。
 今度は四文字のその言葉が浮かんだ瞬間――
 強い力で腕を引っ張られて、肺に空気が雪崩れ込んできた。

 ◇

 アスファルトに手をついて、盛大に咳き込んだ。咳と一緒に海水も吐き出して、ようやく素直に息が出来る。ゆっくり息を吸うと、ひゅうと音が鳴った。喉が痛い。
「びっくりした……」
 けほん、とひとつ咳をしてから呻く。と、低い声が割り込んできた。
「それはこっちの台詞だ」
 ――さっきの、耳元で聞こえた声じゃない。男の子の声だ。
 海水でべたべたに張り付いた前髪をかきあげながら顔を上げる。男の子がひとり、やはり同じように濡れ鼠の格好で座り込んでいた。
 同い年……くらいだろうか。十五か十六か、その辺に見える。座った状態でも判るほど、背が高い。くしゃりと歪んだ顔立ちは、少し野暮ったくはあるけれど整っている部類だと思う。鼻筋がすうっと通っていて、切れ長の目が大人っぽい。……誰?
「おい。大丈夫か?」
「へ? あ、うん……」
呆然と答える――と。
 わんっ!
「うわっ!?」
 唐突な犬の声に、思わず身体を震わせる。慌てて視線を向けると、男の子の右側にでっかい犬と小さな女の子が立っていた。
 犬は茶色の毛並みのラブラドールレトリバー、だと思う。その犬の隣にいたワンピース姿の女の子が、軽く首を傾げた。ポニー・テイルがふわりと揺れる。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 十歳くらいのその子にも同じ事を訊かれて、あたしはもう一度目を瞬いた。頭が混乱している。落ち着けあたし。ここはばぁばとじぃじの住んでる嵯孤島で、あたしは散歩に出てて、防波堤に上っててええと、で、布だ。顔に布が張り付いて、何か妙な声が聞こえて、それで……
「あたし溺れた!?」
「鈍い」
叫ぶと間髪いれずに男の子が呻いた。しかめっ面が、さらに深くなっている。
「……もしかして、助けてくれたの?」
「一応、そんな感じ」
 恐る恐る訊ねると、彼は小さく頷いた。命の恩人、ってこと? 慌てて頭を下げる。
「あっ……ありがとうございました!」
「いや、別にいいけど……見たことないな」
「へ、何、溺れた人を?」
「違う。あんた」
 男の子にぶっきらぼうに呟かれ、あたしは小さく笑って見せた。
「そりゃ、始めて来たもん。この島。今日ついたばっかりだし」
「あかねちゃんだ!」
 今度は、幼い声が上がった。彼の隣にいた女の子が、にこおと無邪気な笑みを浮かべている。
「時雨さんとこのあかねちゃんだ。そうでしょ?」
「知ってるの?」
 きょとんと、訊ねる。時雨――はじぃじの名前だ。じぃじから訊いたんだろうか。男の子に目をやると彼は軽く肩を竦めて、
「こんな島だから情報回るのも……」
 言いかけて――ふっと口を噤んでしまった。難しそうな顔をして、ぷいっといきなりそっぽを向いてしまう。
「え……何?」
「別に」と低く呟いて、状況が判んないあたしを置いて男の子は立ち上がった。そしてそのまま、背を向けて歩き出してしまう。
「えっ、待って!? ちょっと何、どうしたの?」
「いや……だから……」
 はっきりしない様子でもごもごと背中で答える男の子の声に、甲高い笑い声が被さった。女の子だ。両手で口を押さえて笑っている。
「お兄ちゃんのエッチー」
「若菜っ!」
 からかうような女の子に、男の子が怒鳴る。
「え、何? どうしたの?」
 問いかけると、若菜ちゃんはちょっと困ったような笑い顔でこっちを向いた。
「えーと、あかねちゃん」
「うん」
「服、透けちゃってるよ?」
 ――はいっ!?
 あんまりといえばあんまりな言葉に、あたしは自分の身体を抱えてしゃがみこんでいた。
 そっ……そうだよ、服! 白っ! 水に濡れたらそりゃ透けるよ当然じゃん。やだ、何でこんなに日に限ってキャミまで色薄いの着てたかなもうやだあたしのバカーッ!
 火照った顔のまま視線だけそうっと上げると、男の子はこっちに背を向けたまま頭を抱えていた。……心なしか、耳が赤いよう、な。
「あの……み」
「見てない」
「うそーっ、だってーっ!」
「見てない。見る前に目逸らした!」
 そんな器用な。
 釈然としないながらも、あたしはそれ以上何も言えなかった。だって助けてもらったのは事実だし、男の子にしてみてもこの事態ってそりゃばっちり不可抗力だろうし、でもでもなんかやっぱり複雑なわけで、ああもう、どうしたらいいんだろう。大体ずっとこの体勢のままいられるわけじゃないし――
 完全に頭の中が軽くパニクってるあたしの耳に、若菜ちゃんの声が飛び込んできた。
「あ、あかねちゃん。ここに布落ちてるよ、使う? あ、透けちゃってるかなぁこれも」
 布? 布って……それって――
「若菜ちゃん待った!」
「えっ?」
 遅かった。慌てて顔を上げると若菜ちゃんは薄い、不思議な色をした布を手に持っていて、犬がそれに向かって盛大に吼えていた。
「こら、ハナどうしたの?」
 若菜ちゃんが首を傾げる。が、犬は忙しく吠え立てている。そして――
『ちょっと、無遠慮に何見てるのよ』
 声が、聞こえた。
 くらり、と日射病か貧血かみたいに視界がまわる。倒れかける身体を止めようとしてか、心臓がどっどっと早鐘を打ち始める。男の子が一瞬硬直したあと、無言のまま手を伸ばした。若菜ちゃんの手から布をわしっと引っ掴む。犬が――ハナがまた盛大に、吠え立てる。その中で。
『ああもう、いいかげん黙らせなさいよ、そのうるさい獣』
 また声が聞こえて。それはやっぱり海に落ちる直前耳に届いた、甲高い女の子の声で。
『大体ねぇ、ヒトを勝手に使おう何てどういう了見? そもそもこのわたしを無視するなんておバカにもほどがあるわよ』
 男の子が布を持ったまま無言のままこっちを向いてくる。若菜ちゃんは固まっちゃって動かない。あたしは泣き笑いみたいな表情のまま男の子を見返すしか出来なかった。
 あたしの聴覚が正常なら、その声は布を引っ掴んだまま硬直している男の子の手元辺りから聞こえてきていて。もっと正確に言うなら、若菜ちゃんが口をぽかんと開けて凝視している布そのものから聞こえているようにしか、思えなかった。
 ……布、そのものから。


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