第一章  夏のはじまり


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 とりあえず布を引っ掴んだまま駆け込んだのは桔梗亭。犬だけ外に繋いでから、今日から自室になった二階の和室に飛び込んで鍵を閉めて、あたしは超スピードで着替えを終えた。それから廊下で待ってて貰っていた若菜ちゃんと男の子と――その手の中の布を部屋に入れた。
 男の子は無造作に布を掴んだまま、びしょぬれの頭をかいて入ってきた。
 あ……そうだ。海に飛び込んでくれたんだ。
 慌ててバスタオルを一枚引っ張り出して男の子に手渡す。男の子は無造作に頷いてから嫌そうな顔で布を見下ろした。
『ちょっと。何よその目は』
 男の子はまたもぐぐぅと眉間に皺を寄せてからタオルを頭に被せ、それから布を若菜ちゃんに放り投げた。
「若菜、ちょっと持ってろ。頭拭くのに邪魔だ」
「えっ、えっ!?」
「噛まれはしないっぽい」
『噛むかっ!』
 受け取りながら若菜ちゃんは混乱したように声を上げる。そりゃそうだ。今だってなんか声っぽいのやっぱ聞こえるし一体何がなにやらワケ判んないし、あたしだってどうしたらいいのか全然理解出来ないし。
「おい」
 大体静かな島へ行けってようは休養って意味で母さん言ったはずなのに、その島で最初っから溺れかけるわ変な布と遭遇するわって、何の為にここに来たのか判らないじゃない――
「おいっ」
 パンッ、と軽く肩を叩かれてあたしはそこでようやく我に返った。知らずに落ちていた視線を持ち上げると、男の子があたしの肩を掴んで覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「え……あ、うっ、うん! 平気平気、全然! どしたのっ?」
 ぎくりと背中が軋んだ。ほとんど意識しないまま、あたしは慌てて笑顔を作って頷いていた。
 心配かけるな。迷惑かけるな。心の中で声がする。
 ぎゅうっと心臓が縮まるような一瞬の沈黙。男の子は難しそうな顔で一瞬天井を仰いでから、ふっと短く息を吐いた。
「俺は瀬戸基。高二。あっちが妹の若菜で小四」
「え?」
 唐突な言葉にあたしは間抜けな声を上げていた。男の子はあたしの顔を覗きこみながら少しだけ表情を緩めた。
「名前。言ってなかったろ」
「あ……うん。そう、だね。名前。あははは、うん、ありがと」
 こんな状況で妙な切り出しだ、とは思った。でも不思議なことに、名前、っていうリアリティのあるものを出されたせいか、あたしは少し落ち着くことが出来た。ばれないようにゆっくり息を吐く。とは言え、パニクってんの見かねて、落ち着かせようとしてくれたんだろうな。
 瀬戸くんは特に気にする風もなく、若菜ちゃんに預けていた布を受け取って珍妙な問題を出されたときみたいな顔で呟く。
「これ、何だろうな」
『これとか言わないでよ、尾のないサルが』
 布はそう言って鼻を鳴らした。……いや、鼻を鳴らすような音を立てた。鼻はなさそうだ。
 にしても、口の悪い布だ。喋るだけで冗談じゃないんだから、もうちょっとまともな口調であって欲しい気もする……。
 しかしいいかげんパニクってるだけじゃどうしようもないらしい。人生十五年。いろいろ知って来たつもりにはなってたけど十五年じゃ判らないこといっぱいあるらしい。地球すごい。
 あたしは軽く頭を振って瀬戸くんを見上げた。
「瀬戸くん」
「ん?」
「一応、確認しとくけど。あたしだけが幻聴聞いてるとかじゃない、よね」
「さあ。一応俺にも何かけったいな声は聞こえるが」
「若菜もー」
 はーい、と若菜ちゃんが手を上げる。……うん。幻聴ではないらしい。
『いいかげん落ち着きなさいよ。いくら喚いたところで現実は変わりゃしないのよ』
 冷ややかな声はそう吐き捨て、同時に瀬戸くんの手からするりと布が浮き上がった。そのまま空中で、ふわふわと浮いている。支えも風もない状態で、ふわふわと空を漂っている。布が。
 形状はストールに良く似ている。ただ、それより大分長い。色は……なん、だろうなぁこれ。一番近いのは、しゃぼん玉かな。透けて見えるのだけれど、光の角度によっては七色に変わる。ふわふわ揺れている今は色も一緒に揺らいでいる。で、やっぱりどこからどう見ても布は布で、口も鼻も目もありはしない。あっても嫌だけど。あったらたぶん夢でうなされるけど。
 ……どうでもいいけど、布に現実を諭されたくなんてない。
「……布、何で喋るの。布の癖に、何で浮いてるの」
『布布呼ぶんじゃないわよ、尾のないサルが』
 うわぁ。尾のないサルとか言われた。布にサルってバカにされるってどんな人生だろうそれ。
 釈然としないあたしを無視して、布はふわふわ漂ったまま、一体どこから声らしきものを出しているのか不明な状態で言ってくる。
『このわたしをあんたたちの言う布と一緒にしないでくれる? いい? よくお聞きなさい』
 布は空中でくるりっと一度一回転した。それからぴんっと張る。……胸を張る、みたいに。
 天井の低い和室の中、傾きかけた西日を背景に七色の布はきらりと光り、そして――
 こう言い放った。
『わたしはこの島に伝わる、由緒正しき天女の羽衣よ』
 とりあえず、どこから突っ込むべきか迷ったのは言うまでもない。
 唐突過ぎる謎の単語にあたしと瀬戸くんが呆然としているうちに、若菜ちゃんが大きな目をきらきらさせて、叫んだ。
「すごーい!」
「って、信じるのっ!?」
 ぎょっとするあたしを差し置いて、若菜ちゃんは布に触れようと手を伸ばしている。布は若菜ちゃんの小さな指先でふわふわ漂いながら、得意げに声を上げた。
『ふふ。まあ素直なヒトなら可愛げもあるじゃない』
「本物!? 本物!?」
『もちろんよ』
「うわあ、うわあ! ねえあかねちゃん、調べてみようよ、ハサミあるっ!?」
『やめてっ!?』
「やめよっ!?」
「やめろっ!?」
 布とあたしと瀬戸くんの声が重なった。慌てて布を引っ掴むと、布も布で怖かったらしくあたしにしがみつく。
「ダメ?」
「や、やめてあげて。気になるのは、判るけど」
 布、明らかに怖がってるし。
 若干ふるふるしてる布を抑えて、あたしと瀬戸くんで息を吐く。あー、うん。なんかもう、諦めが沸いてきちゃった。手の中の布のすべすべした感触もそれが震えているのも現実だし、声が聞こえるのも現実だし、信じるしかなさそうだ。ああ、現実って残酷。
 布を両手で持って、若菜ちゃんと瀬戸くんと顔を見合わせる。誰からともなく一度頷いて、あたしたちはその場に座った。三人で向き合って、中央にそっと布を置く。
「……で、あなた、何?」
『だから。わたしは天女の羽衣なんだってば』
 どことなく疲れた調子で布が言う。あたしは眉間に皺を寄せて、低く唸った。
「はごろも、って言われても」
 全く訳が判らない。いや、一応知識としてないわけじゃない。絵本で読んだこともある。天女伝説ってやつだっけか。絵本程度の知識ならあるにはあるけれど。
「何でそんなのがここにあるわけ?」
『ここだから、よ。当然でしょ』
 布のよく判らない主張に、さらに眉間に皺がよる。意味判りません……!
「あ。あかねちゃん、知らない? この島の、天女伝説」
 若菜ちゃんの言葉にあたしは目を瞬いた。天女伝説って――
「この、島に?」
「うん。高槻だし知ってると思ってた」
『あら知らないの? わたしの声が聞こえているようだし、あんたたちあの子の子孫でしょ?』
 若菜ちゃんにも布にも当然のような顔をされて、あたしはますます混乱する。何のこと!?
「大丈夫か?」
「いやごめんさっぱ判んない」
「だろうな」
 どきっぱりと言い切ると、瀬戸くんは軽く肩を竦めた。まだ何か言いかける布と若菜ちゃんを一度制止して、また天井を睨んで難しい顔をした。ややあってから、低い声で呟く。
「三保の松原」
「え?」
「知ってるか?」
 なんとなく……テレビかなんかで聞いたことはある。確か静岡の天女伝説の残るところ、だったような。曖昧にそう答えると、瀬戸くんは軽く頷いた。
「同じ。ここにもあるんだ。天女が降りてきて、漁師が羽衣とって、天女は漁師と結婚する」
 絵本そのままの内容を、瀬戸くんが説明してくれる。――よくある、村おこしの類の伝承ってやつだろうか。それにしては目の前の奇怪な布が奇妙な主張をしているわけだけれど。
「声が聞こえるのって、子どもだからって理屈か?」
 瀬戸くんが布に訊ねている。布は一部だけをひょいと持ち上げた。頷いている、んだろうか。
『たぶんね。大体理論的には声じゃないもの。基本的にこれは思考が一番近いかしらね。だからあの子……天女の血が入ってないと聞こえないはずよ』
「あまつ三家か」と瀬戸くんが納得したように頷いた。待て待て。あたしは判りません!
「どういう意味?」
「天女の家系の話。あまつ三家。瀬戸も高槻も一応、三家だし」
『ああ、じゃあ一応あの子の血が入ってるのね?』
「そう言われてはいる。事実かは知らんが」
『事実よ。わたしの声が聞こえてるならね』
「あの。瀬戸くん……」
 出来れば布よりこっちと話して欲しいかな、とか思うんですけどどうでしょうか……。
 あたしの視線を感じたのだろう、瀬戸くんはこっちを向いて、また軽く眉間に皺を寄せた。どうもこの仕草を見るに、あんまり話すことが得意、って性格でもないんだろう。
「あまつ三家ってのがあって、瀬戸と高槻ともうひとつ都築って家系のことなんだけど。先祖が天女に当たるらしい」
「……うちも?」
「そう。だから、あんたも俺も一応その血筋」
 ……天女の子孫って、ンないきなり言われても……。
「……本気?」
『事実、よ。そうでもなきゃ、わたしの声が聞こえるなんてないでしょうしね』
 そんな当たり前に言われても困るけども、布の主張を受け入れるしかなさそうなのは確かだ。
 あたしはふうっと息を吐いて天井を仰いだ。
「あんたが羽衣だとしてさ……何であたしを溺れさせようとしたの?」
「あんた、落ちたんじゃないのか?」
 瀬戸くんの言葉にあたしは少しだけ苦笑した。
「落ちたよ。いきなり顔に布が飛んできてびっくりして落ちて、さらに絡みつかれて上手く泳げなかったの」
「泳げはするのか」
「一応ね。で、何で?」
 布に訊ねると、布は少し沈黙した後ふるりっと震えて呟いた。
『結果論よ、それじゃ。別にそんな意思があったわけじゃないもの。ただ』
「ただ?」
 促すと、布は一瞬言葉を紡ぐのをやめた。天井近くまで舞い上がり、そのまま動かなくなる。
「どしたの?」
 暫く宙で停止していた布は、ふわりとあたしの傍に降りてきた。
『あの子に逢いたかったのよ』
 小さく、呟いた。少し淋しげに、哀しそうに呟いた。聞いているほうが哀しくなるような声に、居心地悪くなってあたしは小さく身じろぎした。あの子……って。
「天女?」
『そうよ。あの子に逢わなきゃいけないの。わたしはあの子の羽衣だからね』
 あたしと基と若菜ちゃんは、三人で思わず顔を見合わせた。誰からともなく、なんとなく天井を見上げる。天井の向こうの、空を意識して。
「逢いに行けばいいじゃない」
『行けたら行ってるわよ。あの子の居場所が判らないの』
「布さん、迷子なの?」
 若菜の問いかけに、布はふるふると体を左右に振った。
『そんな馬鹿げた理由じゃなくて、記憶が確かじゃないの』
「……布の記憶ってどこに記録されるの」
 記憶中枢はないだろう、布に脳はないんだから。あたしの呟きに布は冷たい声で吐き捨てた。
『細かいこと気にしてたら人生どんづまるわよ、サル』
 ……うわぁ、ムカつく。
 あたしは引きつるこめかみを意識しつつ軽く笑ってみせる。
「疑問と好奇心がサルをヒトに進化させたのよ、布さん」
「あかね」
 ふいに、低い声が割り込んでくる。瀬戸くんだ。口論するな、ということだろうけれど。
 ……いきなり呼び捨てされると、ちょっと困る。まぁ、別に……いいけどさ。
「……まぁいいや。で、何それ、記憶喪失ってこと?」
『正確ではないけど、まぁそんなところね』
 記憶喪失の喋る天女の羽衣。……もう何をどこから突っ込んでいいのか。
 布は軽くふわりと揺れて、それから言葉を探すようにゆっくりと告げてくる。
『わたしたち羽衣は、天女の……天人の傍にあってこその存在なのよ。逆に言えば、天人と離れると羽衣は羽衣であるところの大部分の意味を失う。それはあの子達においても同じであると言えるのだけど。つまり、わたしはあの子の居場所を感じられないのよ』
「天じゃないの?」
『……だったら、わたしはここにいないわよ。きっと地上のどこかでわたしを待ってるの』
 布はそう呻いて、それからゆっくりと舞い上がった。空中でふわふわ揺れて、呟く。
『きっと待ってるから、逢いに行かなきゃいけない』
 また、哀しそうな声でそう言って――そしてふっと軽く一回転して見せた。
『まっ、いいわ』
 不自然に明るい声で、笑う。
『迷惑かけたわね、落としたことは謝るわ』
「え、あ、うん。……どしたの?」
『探しに行ってくる』
 布の発言に、あたしたちは目を丸くして布を見上げた。
『あの子を、探すの。自分のことだもの。自分で何とかするわ』
 あ……。一瞬、胸がずきっと音を立てた。布はわざとらしい明るい声で笑って言うけれど。
 判る……気がしてしまった。この気持ち。相手布だけど、人として布の気持ちが判るって微妙だけど、でも、判る気がしてしまう。自分のことを自分だけで何とかしようとするときに圧し掛かってくる重み。それに耐えるときに浮かんでしまう、不自然な笑顔。それは。
「あかね?」
 瀬戸くんの呼び声に、また慌てて笑顔を作ってた。ああ、そうだ。同じ種類の、笑顔。
 判ってても、今更どうにか出来るものでもない。覗き込んでくる瀬戸くんの目の中に映る笑顔のあたし。しっかりしろ。自分で言い聞かせる。
 初対面の男の子に見抜かれるほど、あたしの十五年は安くないはずだ。
「良いこと、考えちゃった」
 笑って布に向き直る。空中で浮いて、今にでも開け放した窓から飛んで行ってしまいそうな布に声を上げる。
「ねぇ。一緒に探してあげよっか」
『え?』
「いいよ。どうせこの島でやることなんてないし。それに自分のご先祖様のことなら、やっぱちょっとは気になるもん。まぁ、そっちが迷惑じゃなきゃ……なんだけどさ」
 卑怯かなとは少し思った。こんな風に……そっちが迷惑じゃなきゃ、なんて風に言われたら、相手が拒否しにくいの判ってて言ってるんだから。自分の言葉で相手がどう出るか。あたしはそれをいつも意識してきたから、どういえばいいのかなんてことも少しなら判ってる。案の定布は少し困ったように身体全体を一度波立たせて、すうっとあたしの目の前まで降りてきた。
『まぁ……そりゃこっちは迷惑じゃないけど、ね。いいわけ?』
「あたしはね」
 言って、そっと瀬戸くんを見上げてみた。目が合うと、瀬戸くんはやや気難しそうに顔を顰める。面倒くさそうな……とも表現できそうな顔だ。
「若菜はやるよ。お手伝いする。お兄ちゃんは?」
 若菜ちゃんにも振り向かれ、瀬戸くんの渋面がさらに深くなった。
「あの、いいよ。無理に付き合わなくて」
 声を掛けると、若菜ちゃんに向けられていた視線がこっちにきた。じっと見つめてくる。
「瀬戸……くん?」
 数秒。まるで何かを見つけようとするように凝視された。ややあって、軽く頷く。
「判った。手伝う」
 ぱっと若菜ちゃんが笑顔になった。浮いていた布を抱える。
『ちょっ……こらっ、勝手に掴まない!』
「良かったねぇ、布さん!」
『布にさんつけたって敬称にはならないと思うわよちびっ子』
 騒ぐ二人……一人と一枚を横目に、あたしは瀬戸くんに囁いた。
「瀬戸くん。その……ホントに良かったの? なんか……面倒くさそうな顔、かなって」
 あたしの問いかけに瀬戸くんは一、二度瞬きをして、少しだけ口の端を歪めた。
「地顔」
「いや……そじゃなくて」
「まぁ正直、面倒ではあるが」
「……だよね」と、小さく頷く。やっぱ、無理やり巻き込んじゃった形になるのかな。
「いいんだよ。気になるのは事実だしな。それに」
「それに?」
 瀬戸くんはまたじっとこっちを見つめた。真っ直ぐな眼差しに思わずたじろいでしまう。
 思わず視線をうろちょろさせてしまうあたしの様子を見てか、瀬戸くんの口元に、今度ははっきりと小さな、悪戯めいた笑みがのぼった。
「あんた、ほっとくとまたどっかから落ちそうだし」
「――って、え……? そっ……そこまでドジじゃないんだけどっ!」。
「どうだか」
「ちょっとおっ、あ、あれは全力で不可抗力なんだよっ!」
「まぁ」騒ぐあたしをさらりと交わして、瀬戸くんはぽんっとあたしの頭を軽く叩いた。
「よろしくな、あかね」
「……うん」
 小さく、頷く。と、そこに若菜ちゃんの声が割り込んできた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん、あかねちゃん」
 向くと、若菜ちゃんは布を抱えたままにこりと笑った。
「若菜思いついたよ、名前」
「名前?」
「そっ、布さんのお名前! 布さんじゃ嫌って言うんだもん」
 張り切った声に、けれど布本人もあたしと瀬戸くんもきょとんとしてしまう。それを判ってか否か、若菜ちゃんはにっこり笑ってこういった。
「羽衣だから、うい!」
 うい……って。一瞬、ワケが判らず目を瞬いて、それから小さく笑ってしまった。
 なるほどね。羽衣、の読み方を変えたってワケか。
瀬戸くんを見上げると、彼は軽く肩を竦めた。いいんじゃないか、ってこと、だろう。布本人はまだよく判ってないらしく若菜ちゃんの手の中でじっとしている。
 その布の端に手を添えて、あたしは小さく笑いかけた。
「よろしくね、羽衣」
 布は――羽衣は少し浮き上がって、身体をふるっと揺らした。それから一度回転して、苦笑したような声で頷いた。
「ええ。よろしくね、あかね」

 静かな田舎に行ってみるのもいいかもね、なんて母さんの勧めもあったから来たこの島で、あたしはどうも静かな一月を過ごすことは出来なそうだと確信した。
 記憶喪失の喋る天女の羽衣と、天女の子孫の瀬戸くんと若菜ちゃん。
 何にも娯楽なんてないと思っていた静かな島だけど、でも都会以上に騒がしい毎日が始まりそうな予感がする。
 少しの不安と、期待と、疑問に溢れて――こうしてあたしの奇妙な八月が始まった。


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