第二章  夕立と秘密基地


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 金目鯛の煮付けに、たことキュウリの酢の物、それからジャガイモとツナの明太サラダ。楕円型の食卓にはばぁばの腕を振るった料理が並んでいた。
 瀬戸くんと若菜ちゃんはいったん家に帰っている。そしてあの奇妙な布はあたしの部屋にいるはずだ。ちなみに、瀬戸くんたちの家は、驚いたことに桔梗亭のすぐ隣だった。まぁ、行き来しやすいのは便利だと思う。
「あ。ねぇ、ばぁば。あまつ三家って何?」
 煮付けとごはんを一緒に飲み込んでから言うと、ばぁばとじぃじは顔を見合わせた。
「なんしてぇ、あかねはそったこと興味サあるんげ?」
 じぃじが大きな声を上げた。じぃじ――高槻時雨はばぁばよりも見た目も実年齢も確かに上なのだけれど、動きに老いた素振りはない。肌もしっかり焼けてるし、実際現役の漁師らしい。桔梗亭はその傍らでやっている、ほとんど趣味のようなもんだ、とはじぃじ談。
「あるっていうか……」
 少し、言葉に詰まる。目の前のじぃじとばぁばは頭の上にそろって疑問符を浮かべたままだ。
「あかねにそったこと話したべか、きょうちゃん?」
「しぃちゃんじゃなかったのかい?」
 ……六十過ぎの老夫婦が、きょうちゃん、しぃちゃん呼び合うってのは、どうなんだろう。
「えーと。自由研究……かな。学校の宿題」
 とりあえず、羽衣拾いましたよりは現実味のある言い訳をしてみる。ばぁばとじぃじはそろって納得したように頷く。
「はぁ、まぁ、おもしゃーもん研究するねぇ」
「いや、ほら、せっかくこの島に来てるし。さっきの……瀬戸くんになんかそういう話聞いて、そういうのもいいかなぁ、とか思ったりして」
「ああ。瀬戸んとこのやろこか。あっちもあまつ三家だべなぁ、そげな話も出るちゅうもんか」
「うん。で、あまつ三家って何?」
 ツナサラダをつつきながら促すと、ばぁばはつと天井に視線を上げた。
「ばぁば?」
「んだら、ばぁばより詳しい人がいるからね。ああ、ちょうど降りてきたかな?」
 ばぁばの声と同時に、廊下から足音が聞こえてきた。リビングの入り口を振り返っていると、のそりとした動きで一人の男の人が顔を出した。
 ……でか。
 第一印象は、その一言だった。とりあえず、何か、でかい。くまっぽい。別に身長がやたらでかいと言うわけでもないのだけど、横幅もそこそこあって身体つき自体ががっしりしているせいか、なんだか妙に大きい印象のある人だった。
「あ。すいません。遅れましたか?」
「大丈夫ですよ。今用意しますからねぇ、大島さん」
 ばぁばはにっこり笑って立ち上がった。台所へと消える。
 この桔梗亭、夕食は宿泊客と一緒にとるのだとばぁばに聞いてはいたけれど、今日は誰も顔を出さなかったから忘れていた。いたんだ、宿泊客。
 くまっぽい大島さんは、すいません、と口にしながらあたしの傍の椅子を引き、それから一瞬固まった。お辞儀をすると、大島さんは慌てて頭を下げる。
「あ、すいません、何か遅れて。ええと」
「あ。高槻あかねです」
「わしん孫コじゃ。めんげーなぇ」
 じぃじがにこっと笑う。……ちなみに、めんげーは可愛い、だったと思う。
「あかねはきょうちゃんサよぐ似どっべな。今にほんにあかい姉子になるべぇ」
「もう、じぃじ。やめてよそういうの」
「事実だべぇ。知っでっか、あかね。きょうちゃんは姉子ン頃『天女の再来』言われちょったんだべぇ。今もほんにあかいけどなぁ」
「しぃちゃん、もうええべ。あかね困ってっべ」
 大島さんはそのやり取りに、楽しそうに笑っていた。身体は大きいけれど、威圧感はない。
「はじめまして。僕は大島順司。ここにお世話になってるんです」
「あかね、あんたがさっき言ってたあまつ三家の話、大島さんに聞くといいよ」
 ばぁばは大島さんの分の夕食を用意しながら笑いかけてきた。
「あまつ三家の話、ですか?」
「そう。なんかこの子がねぇ、学校の宿題にするとかで、その話聞きたいらしくて。お仕事の邪魔にならなければ、聞かせてやってくれませんかねぇ」
「ああ、はい。お安い御用です。僕としても、そういうことに興味を持つ人が増えてくれると嬉しいですから」
 麦茶を手にした大島さんの言葉に、あたしは軽く首を傾げた。
「お仕事?」
「僕、民話の研究をしてまして。この島には天人女房てんにんにょうぼうの伝説が残っていたので来てるんですよ」
 学者さん、かなぁ。外から見るとアメフトの選手とかのほうが通じそうなんだけど、人は見かけによらないらしい。
「それで、あまつ三家でしたっけ?」
「あ。そうなんですけど、ごはん終わってから聞いていいですか?」
 あたしの言葉に、大島さんは自分の額をぴしゃりと打った。
「そりゃそうだ。すいません。こういう話だと抑えがきかなくて。終わってからにしましょう」
「あ、それと。あと二人、いいですか? 一緒に話聞いても。隣の家の子なんですけど」
 正確にはあと一枚、たぶん布がくっついてくるけれど。
 あたしの胸中での補足には気付くはずもなく、大島さんは笑顔で承諾してくれた。

 ◇

 八時半過ぎに基たちを呼びにいって、あたしたちは大島さんの部屋にお邪魔していた。
 もちろん、羽衣も一緒に、だ。ただ怪しまれてもあれなので、羽衣はあたしの肩からストールのように引っ掛けておいた。ファッションにしては妙だけど、まぁ仕方ない。
「なんか……すごいですね」
 大島さんの部屋に入って一言、あたしはそれだけを呻いた。大島さんはすいませんを連呼しながら、大きな背中を小さく丸めて手当たり次第に本を壁際に寄せた。
 そう。六畳一間の客室は、見事に本で埋まっていたのだ。
 大島さんが苦心して作ってくれたスペースに三人で座る。あたしは真っ白いノートを持参だ。一応名目上、あたしの自由研究になってるんだからこういう形は大事だろう。
 大島さんはハンカチで汗を拭きながら窓を開けた。夜風がすうっと入り込んでくる。そういえばこの家、クーラーがない。あたしの部屋もだから、当然客室にもなくて、申し訳程度の扇風機がからからと音を立てて空気をかき混ぜている。窓辺の釣鐘風鈴がちりんと音を立てた。
「すいませんねぇ。何かこんな状態で」
「いえ、いきなりお話聞きたいってわがまま言ったのはこっちですから。すごい数ですね」
「商売道具みたいなものですからねぇ。ええとそれで、あまつ三家でしたね」
「そうです。で、それに関連して色々聞けたら嬉しいかなぁ、って」
 全く判らないところから始まってるんだから、ちょっとでもいいから知識は欲しい。
『直接ずばり、あの子の居場所でも知ってたらいいんだけどねぇ』
 ぼそりと羽衣が呟いてきた。びくりとして大島さんを見るが、彼は何も気付いた様子はない。
「ほんとに若菜たちだけにしか聞こえないんだ」
 若菜ちゃんの呟きに、大島さんが顔を上げた。慌てて若菜が手を振る。大島さんから見えないところで、瀬戸くんが唇に人差し指を当てていた。内緒に、って合図だ。
「うーん、不思議だなぁ」
「何がですか?」
「いえ、当の本人たちから説明しろといわれるのが、です」
 大島さんはそう言って、あたしたちの顔を面白そうに眺めた。
「瀬戸家の基くんと、若菜ちゃん。それから高槻家のあかねちゃん」
「はい」
「君たちは、天女の子孫なんですよ」
 ――あっさり、そう言われた。ただ、驚くには少しばかり足りない。散々羽衣の言葉を聞いた今、その程度のことで驚いてはいられなかった。
 しかしお父上、お母上。ご先祖様が人外なんてあたしゃ聞いてませんけど。十五にしてはじめて知る家系の秘密ってか。何かもう、どうでもよくなってきたけど。
 あたしの内心には気付かない様子で、大嶋さんは微笑んでいる。
「この島には、天女の子孫の家系が残っているんです。高槻、瀬戸、それから都築。都築家にも男の子がいるらしいですけど」
「友人です」瀬戸くんが頷く。知り合いらしい。
「そうか。じゃあ君は大体知ってるんですかね?」
「ある程度は。こっちに教える感じでお願いします」
 瀬戸くんがくいとあたしを指す。大島さんは微笑んで、手元に一冊の本を引っ張り寄せた。
「僕は最近、特に天人女房譚……羽衣伝説を調べていまして、その流れでこの島にも来る事になったんです。ここは、他の天人女房譚に比べても色々と面白いところが多いんですよ」
「他の……って三保の松原とか、でしたっけ?」
「はい。有名どころでは。全国各地……世界各国に天人女房はあるんですけど」
 大島さんの言葉に、あたしたちは目を瞬かせた。
「日本以外にもあるんですか?」
「はい。ヨーロッパにもありますし、中国や韓国、フィリピンやジャワ島なんかにもあります。まあヨーロッパのほうでは天人女房とはせずに白鳥処女説話スワンメイデンタイプと呼ぶのが一般的ですが。そのあたり詳しく僕に語らせると大変なことになると思いますが、聞きますか?」
「やめときます」
「賢明な判断です」
 大島さんはそう言って笑いながらも、少し淋しそうだ。でも、大変な目に合うのを判ってて向かっていく勇気は勇気じゃなくて単なる無謀でしかないと思うし。
「天人女房譚は、日本では北は津軽から南は沖縄まで広く分布しています。ざっと思い出せる限りで四十数か所……五十箇所近いですね」
 日本が一都一道二府四十三県だってことを考えると、相当数なんじゃなかろうか。それって。
「一県にひとつくらいの割合ですか」
「数的には。ただ、伝わっている地域は少しずつ違うものがふたつみっつあったりして、伝わっていないところは全くなかったりもしますから。福島も、この嵯孤島以外にもふたつありますね。本土の、いわき市の平近辺でふたつ」
 手元の本を繰りながら、大島さんはさらさらと口にする。が、残念なことにあたし地理は苦手なんでいまいち把握できてませんごめんなさい。
「大島さん、あの、それで、この島に伝わっている羽衣伝説って、何が面白いんですか?」
「ああ、そうですね。この島に伝わっているのは平のほうのものとは少し違って、島根県の伯耆ほうき……邑智郡おおちぐんに伝わっているものと近いんです」
 そう前置きして、大島さんは話し始めた。
 ――昔々、嵯孤島の海辺に三人の天女が降りて水浴をしていました。それを偶然目にした漁師の伊嵯孤命いさごのみことは、一番若い天女の羽衣を盗って隠してしまいました。二人の天女はするすると天に上がっていきましたが、羽衣がない天女は忽然と身の昔を忘れてしまい、ただの女房となってしまいました。天女に天月夜姫あまつくよのひめと名前を与え、伊嵯孤命は彼女を妻としました。やがて天女天月夜姫は三人の子をもうけます。
 ところがそのうち二人の娘は舞を舞うのが好きで、父の隠していた羽衣を手に、この島の蕗山ふきやまにて遊んで舞を舞いました。それを見ていた母――天月夜姫も興を催してそれを着て舞ってみたところ、昔の記憶がありありと蘇ってきて、伊嵯孤命の女房であったことを忘れ天に帰っていってしまったのです。
 ――大島さんが語ったのは、こんな話だった。
「別に羽衣が喚きたてる話じゃないんですね……」
「はい?」
『あぁかぁねぇ?』
 低く羽衣が呟いて、ストール状態で肩にのったままぎりぎりと締め上げてきた。痛い。
 皺を伸ばすふりをして一度羽衣をひっぱたいてから、あたしはなんでもないと笑顔を作る。
「それ、島根のほうの話と似てるんですか?」
「はい。向こうは打吹山うちふきやまという山になっていますけど、これも実在してます。記憶を失い、子どもの舞で天に帰るくだりも酷似してますね。ほぼ同じといっていい。どちらかの伝承が伝わったにしては多少距離が隔たりすぎているのもあって、まぁそこも面白いところなんですが」
 ふぅむ。あたしは腕を組んで考えてみた。とりあえず、他の伝承一般を知らないからあれだけども、羽衣が話に大きく関わっているのは確かなところらしい。
「すべての話で、天女って羽衣外しちゃうと記憶がなくなるんですか?」
「いや。そういう例は少ないですね。ほとんどは主人公の女房になったあとも天に帰ることを切望する天女が、あるきっかけで羽衣を見つける――という感じになっていますから」
 じゃ、この島とその島根の例だけは少し特殊ってことか。なるほど、確かにちょっと面白い。
「あまつ三家ってのは、つまり伊嵯孤命と天月夜姫の間に産まれた三人の子どもの家系ですね。天女が先祖になる家系のこと。呼び名はこの島独自のものですが、天女を先祖とする家系はここに限りません。同じようにはっきりと家名が残っているのは……たとえば鹿児島の喜界島きかいじまなんかもそうですね。蒲生がもうの集落に、ここみたいに天女……向こうではアムリガー、天降子と呼んでいますけど、その子孫とされる家系が残っています」
 ここ、と手元の本を広げて大島さんが指してくれた。喜界島とやらの写真が載っている。
 若菜ちゃんが隣から懸命に覗き込んでいたので、大島さんがそっと本をずらしてあげていた。
「ねぇねぇ、あかねちゃん。ここにも瀬戸みたいな天女の子孫がいるの?」
「らしいね。羽衣はどうか知らないけど」
「うい?」
 大島さんがきょとんとしたが、あたしはまたもにっこり笑って誤魔化した。ノートにシャーペンを走らせる。島根県の話と似ている。天女は羽衣を盗られると記憶を失った。鹿児島にも天女の子孫はいる。
 うん。判った。……いくら聞いても天女の元へ帰る方法は判らない気がするってことが。
 瀬戸くんも同じように思ったのだろう、一瞬目が合うと軽く肩を竦めてきた。
「で、僕が面白いなぁと思う理由はいくつかあるんですが、そのひとつがこの島の伝承は名前にこだわっているところでしょうか」
「名前、ですか?」
「はい。他の伝承ではね、天女に名前がある例は少ないんです。僕の知る限りでは、主人公のほうに名前がついているものはあっても、天女の名前が伝わっているのは少ないんですよ。あまつ三家、何て呼び名にしてもそうです。まぁこのあたりはこの島の言霊信仰にも通じるものがあるのかなぁと思ってるんですけれど」
 また妙な単語が出てきた。言霊信仰?
「あの、何ですかそれ?」
「ああ。すいません。この島に伝わっている羽衣伝説以外の信仰なんですが……まぁ、別にこの島に限らず日本には広くあるものですから、そんなに深く考えることでもないですかね。僕みたいな人間はそれを面白いと感じちゃうんですが」
 頭をかいて、大島さんが笑う。
「まぁ僕が知ってる限りはこんなところですね。後はこまごまとしたものもありますが」
 大島さんのその言葉に反応したのは、喜界島の写真を眺めていた若菜ちゃんだった。「あれ?」と幼い声を上げて、写真から顔を上げる。
「続きのお話は?」
「ん? 都築家のことですか?」
「ちがうよ、お話の続き。天女が帰った後のお話」
 その言葉に、大島さんの顔色が変わった。
「後日談?」
「え、うん。なんかあったよ。夕顔のお話……ねぇ、お兄ちゃん?」
 大島さんの真顔にびびったのか、若菜ちゃんが慌てたように瀬戸くんに話を振った。瀬戸くんは面倒くさそうな顔をして、ひとつ頷く。
「しかし夕顔の咲くころ、天女は母を思い舞を舞う子どもたちの元に降りてきた。だったかな」
「後日談があるんですか!?」
 くまさんが吼えた。……いや、大島さんが大きな声を上げた。そのままがしりと瀬戸くんの肩を掴んでいる。
「僕はじめて聞きましたよ!? あるんですか、後日談!」
「え。え、いや、あるん、じゃないっすか」
「普通はあるんです! いやむしろ、そこに重点を置く天人女房のほうが多いです。伯耆の話にしても、母が帰った後に打吹山で母が好きだった音楽を子どもたちが奏でて呼び戻そうとした、なんてエピソードがあります! だからあそこは打吹山って言うんですけどってそれはどうでもいいや、後はまぁ天に上がっただの草鞋を埋めただのいろいろあるんですけどねっ、この島にはないと思ってたんです。それが不思議だったんですけどっ!」
「いやちょっと落ち着いてください」
 瀬戸くんはぐいっと大島さんの肩を押して座らせた。大きく息を吐く。
「ああ、すいません。興奮しちゃって」
「しすぎです。……一般に伝わっているものには、後日談がないんですか?」
 迷惑そうに呟く瀬戸くんに、大島さんは気まずそうに笑った。
「僕が調べた限りでは、ね。桔梗さんや時雨さんも知らなかったし、ここの唯一の神社が管理していた古い本にもなかったんです。もちろん文献も漁りました。でもこの島の後日談に触れているものはなかったんです。君は……君たちはそれを、どこから聞いたんですか?」
 若菜ちゃんと瀬戸くんが顔を見合わせた。それから、瀬戸くんが呟くように答える。
「親からです。瀬戸の人間は知ってるべきだって言われて」
 ――どういう、こと?
 思わず、きょとんと羽衣を見下ろしてしまうけど、羽衣はただの布のふりをしているだけだ。大島さんは近くのノートを引き寄せて、綺麗な字で瀬戸くんから聞いた話を書き始めていた。
「それはつまり……瀬戸だけが口碑として残している伝承の一部ってこと、ですか」
「俺らはよく知りませんけど」
 瀬戸くんの冷ややかな言葉にもめげず、大島さんは近くの本を片っ端から捲り始めた。何かぶつぶつ呟いていて……。駄目だこりゃ。たぶんもう、あたしたちなんて目に入ってない。
 あたしたちは誰からともなく顔を見合わせて、そっと大島さんの部屋を出た。


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