第二章  夕立と秘密基地


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 嵯孤島は、大雑把に言えば縦に細長い楕円形の島だ。島の西側が港になっていて、東側が海水浴場側になる。島のほぼ真ん中辺りにあるのが、昨日大島さんが話していた、子どもたちが舞を舞ったと言い伝わっている蕗山というところで、蕗山の裾野、南側にはこんもりとした蕗林が広がっている。さらにその先の南東はもう一つ、川の流れるコタマ山ってのがあって、そこにも小さな森があるらしい。ちなみに桔梗亭は港にやや近い北側だ。
 手元の地図を見下ろしてあたしは大きく息を吐いた。地図には赤い印がいくつか入っていた。そのひとつが、羽衣を置いてきた天人松のある嵯孤海岸だ。他のバツ印は、蕗山、蕗林の中、島の公共施設が集まっている、蕗林に程近いやや西よりの場所。
 実はこの地図、朝大島さんがくれたものだ。印のところは天女関係のものがあるところ、らしい。別紙でそれぞれの由来とかもまとめてくれていたりして、まめというか何と言うか。
「だいぶ距離あるよねぇ、これ」
「まぁ広くはないが、全部まわるとなるとそれなりにはな」
「ゆっくり歩いてどれくらい?」
「ただ一周するだけなら三時間かからんと思うが」
「あかねちゃん見せてー」
 ぴょこぴょこ跳ねて来る若菜ちゃんに地図を渡す。
「ええと、蕗山が舞を舞ったといわれているところで、林のほうが伊嵯孤命の家があったといわれている場所だっけ。もう一個は?」
「資料館」基がつまらなそうに答える。
「あるんだ、そういうの」
「一応、微かな観光材料。正直微妙」
「……役に立たないならいいや」
 それならきっと大島さんを頼ったほうがいい気がするし。若菜ちゃんが地図を渡してきたので受け取ると、若菜ちゃんはハナと一緒に急に走り出した。
「若菜ちゃんー?」
「近道しようよ。家のあったとこいくなら、公道まわるより蕗山抜けたほうが近いよ」
 公道、と言われてもよく判らなかったので地図に目を落とす。島の周囲をぐるりと囲うように道路が走っていた。まぁ、今歩いているところも細々整備されている道ではあるのだけど。車、見てませんけど。一台も。この島についてから。
「ほぼチャリ専用。普段はハナの散歩コース」
「サイクリングロードって言わない? それだと」
 あたしの表情を読み取ったらしい基の一言に、思わず呟く。まぁ別にいいけど。
 若菜ちゃんとハナの先導で、あたしたちは嵯孤島をゆっくりと歩いていく。
 アスファルトで整備されている道路は本当に外周の一部だけで、後はせいぜい砂利が敷き詰められている程度だ。昨日の一件で海水に浸ったスニーカーは本日桔梗亭にて天日干しの最中なので、今日のあたしはヒールの低いサンダルを履いている。おかげで少し歩みは遅い。砂利道にはとことん向いていないのだ、こういう靴は。それでも、基も若菜ちゃんも気にしていないようだった。この島には娯楽はほとんどないけれど、時間だけはたっぷりあるらしい。
 昨日に引き続き、本日も快晴だ。痛いほどの陽射しが降り注いでいるけれど、海から吹く風がやむことはないので日陰に入ると涼しく感じる。少しべたつきは感じるけど、蒸し暑さもあんまりない。アスファルトの照り返しがほとんどないからだろうけど、クーラーを使っている家も少なそうだからそれもあるのかもしれない。
 公道を逸れて、山道に入る。とたんに、大音声に見舞われた。セミだ。セミの声が、山道には溢れていた。踏みしめられた土が、人の通った形で自然と階段状になっている。ゆっくり歩を進める。杉か、ヒノキか、クヌギか。樹の種類は正直よく判らないけど、青々とした葉をつけた木々が生い茂っていた。夏の太陽が作り出す木陰は色が濃い。土と影を踏みながら、セミの声の合間にあたしは息を吐いた。
「すごいなぁ」
「何が?」
 すぐ隣をのんびり歩いていた基が聞き返してくる。
「この山が。あたしこんなの、中学のときの林間合宿で行ったみたいな、少年自然の家とかでくらいしかないと思ってた」
「そっちのがよく判らん」
「都会にあるのはアスファルトのジャングルだけですよ」
 首を捻る基に笑いかける。実際、空だってこんなに青くないと思う。気のせいもあるかもしれないけど、あっちの空はどことなく白っぽい。そんなこと今まで考えたこともなかったけど、ここでこうしていると、そう感じる。今見上げる空は木々に遮られて小さいけれど、灰色のビルで小さく見える空よりはずっと広がりを感じるんだ。
 歩みながらくだらないことをたくさん話す。この島のこと。家族のこと。好きな本や音楽のこと。そして、自分たちのこと。結構距離も時間もあったけど、話題は尽きなかった。当たり前といえば当たり前だ。あたしたちは昨日逢ったばっかりなんだから。
 くだらないことを話す時間が、あたしたちには必要なのだ。
 話しながらのんびり山を歩いていく。蕗山。天女の娘たちが舞を舞ったと言われている場所。
 とはいえ別段どこがどうというわけでもなく、あたしたちは素直に山を抜けて林に出た。正直どこからが山でどこからが林なのかはあたしにはよく判らなくて、基と若菜が教えてくれたのだけど。林を少し進むと、ふいに開けた空間に出た。真ん中にぽつりと、苔むした岩がある。
「何、あの岩」
「目印。……元は塚かなんかだったのかもしれないけど」
 基が無造作に岩に近寄ってぽんと軽く叩く。あたしの太ももの高さくらいはある大きな岩だ。
「――あれ? なんか彫ってある」
 岩に何か文字が彫ってあった。字がくねくねしてる古い奴なのと、年季が入って薄れていてあんまりよく読めない。じっと見つめていると、基が小さく呟いてきた。
「天の海に 雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ。万葉集からだな」
 ……古典全然判らない。思わず黙ってしまうと、基が苦笑しながら軽く頭を叩いてきた。
「これ自体は後世に立てられてるはず。歌はたぶん、天女にかけてるんだろうな。それで引っ張ってきたんだと思う」
「天女の歌なの?」
「っていうか、天を詠ずる歌、らしい」
 らしいとか、たぶんとか。うん、きっと基もあんまよく判ってないと見た。
 若菜ちゃんが岩をぽん、と叩いた。
「あのね、ここがイサゴの家があった場所」
「イサゴ? 伊嵯孤命?」
「うん。若菜たちはそう呼んでるよ。あと、天女はえっと、ツクヨ、だったかな」
 呼び名、やっぱりちゃんとあるんだ。なんとなく感心する。
 林を抜けて公道に出る。少し開けた場所で、島の役所なんかもあった。西側の公共施設区らしい。さて、特に収穫もなかったわけだけれど、どうするべきかなぁ。
「青太」
 ふいに、基が声を上げた。ぼんやり空を仰いでいたあたしは基に視線をやった。隣を歩いていた基は足を止めて手を上げている。基の視線のほうに目をやると、あたしや基と同年齢くらいの男の子がひとり、大きく手を振っていた。
「青ちゃん!」
 若菜ちゃんがハナを連れて走り出す。そしてそのまま、男の子にぶつかった。
「おーっ、マイハニー!」
 男の子は若菜ちゃんを抱えて、ぐるりと彼女をひとまわし。若菜ちゃんのはしゃぐ声が聞こえてきた。基が隣で小さく息をつく。
「時々、あの挨拶をいつまで俺は許容していいのかと悩む」
 ……お兄ちゃんだな。
 答えられずにいるあたしの背中を軽く叩いて基が歩き出す。あたしもとことこと基の横に並んで二人とハナに近寄った。若菜ちゃんは青ちゃんとやらの腕の中にいた。なるほど、心配になるのかな、お兄ちゃん的には。
 男の子は基よりは背は少し低い。基がでかいのもあるんだろうけど。黒く日焼けした顔に、はっきりとした目鼻立ち。やや茶色い髪を立てている。トレーニングウェアを着ているところから見ると、ランニングでもしていたのかもしれない。顔も赤く汗が浮いていた。
「およ。基、女連れ?」
「あと妹と犬連れだ」
「はっは。若菜は俺が貰おうか?」
「黙れ」
 不機嫌そうな基の一言に、若菜ちゃんが男の子と顔を見合わせて軽く笑っていた。腕の中からぴょん、と飛び降りる。基がまたひとつ、ため息を吐いた。……うん。雰囲気が疲れているっていうか若干じじくさいんだよね、基。
「あかね。これ、都築青太」
 ――都築って……あ。もしかして。
 気付いてその話題を振るより先に、男の子が大げさな声を上げた。
「ひっでえ、これって言うなや。どーもっ、基の親友の青ちゃんでっす」
「誰が親友だ」
「つめたっ。ねーっ、そう思うっしょ? オレ虐げられてるカンジ」
 にっと笑いかけてくる。面白そうなひとだ。あたしもつられて笑顔になった。
「高槻あかねです。一月だけ、この島に来ることになって」
「ああ、桔梗亭のあかねちゃん! 聞いてる聞いてる、しぃちゃんがすっげ自慢してたよーっ、俺の孫は世界で二番目にめんげーべっ! って。ちなみに一番はきょうちゃんらしい」
 じぃじとばぁばをその呼び名で呼ぶのか。いやまぁ、楽しいひとだ。それだけは確かだけど。
「青ちゃんって呼べばいいの?」
「女の子にちゃん付けされるのは大歓迎だねぇ。基からは却下だけども」
「呼ばん」
「こいつ、もうちょっと若さあってもいいと思わない? ねぇ、あかねちゃん」
 にこっと満面の笑みを浮かべられる。すごい。すごいマイペースだ。基が頭抱えてる。
「あかねちゃん、青ちゃん面白いでしょ?」
「うん」
 若菜ちゃんの言葉に一も二もなく頷いていた。笑いをかみ殺して、さっき言い出せなかった話題を振ってみる。
「青ちゃんって、あまつ三家の子?」
 基が疲れた仕草で頷いた。
「そう。あまつ三家の都築」
 昨日基が友人ですと答えていたのはこの子だったのか。……正反対な友人ですね。まぁ、そのほうが友人関係って案外持つのかもしれないけど。
 青ちゃんのほうは、あまつ三家の単語に目を瞬かせた。
「何、いきなりそんな話してんの、お前?」
「ワケあり」
「ふーん?」
 基の答えに、青ちゃんは軽く首を捻っただけだった。細かいことは気にしない性格なのかな。基は軽く頭をかいて、青ちゃんに問いかける。
「ランニング中だったか?」
「おうよ。男たるもの、いかなるときも身体を鍛えて好きな女子を護り得る存在でないとな!」
「現代日本において不要な思考だな」
 軽い青ちゃんとざくざく切り捨てる基は、案外いいコンビなのかもしれない。
 二人のやり取りに、思わず小さく笑っていた。
「一ヶ月、いるから。何かとお世話になるかもだけど、よろしくね。青ちゃん」
「もっちろん。つってもオレ、夏休み前半は部活で学校行きまくってるからあんま会えんけど」
「あ、そうなの?」
「知らないか。オレら学校、御木島まで通ってっからさ、どうしても時間かかるんだ」
 基を見上げると、こくんとひとつ頷きが帰ってきた。なるほど、意外と大変なんだ。
「まァ後半入れば余裕出るし遊べるから、そん時はよろしくっ」
「うん」
 頷くと青ちゃんはにっと笑って、それからじーっと見上げていた若菜ちゃんの頭を軽く撫でた。ハナの頭も撫でる。ハナも青ちゃんには懐いているらしく、目を細めていた。
「んじゃ、オレは鍛錬を再開するかな。十年後は若菜護んないといけなくなるかもだしなー?」
「えへへ、青ちゃんやくそくー」
「やめろ」
 小指を出す若菜ちゃんを無造作に止めて、基が苦い顔をした。
 その後ランニングを再開した青ちゃんを見送って、少々不機嫌になった基をなだめながらあたしたちも散策を再開した。
「青ちゃん、おもしろいね」
「あいつといると疲れる」
「基のテンションだとそうかもね」
「お兄ちゃんがテンション低いんだよ」
 基は流れた汗を手の甲で拭ってぼそりと呻いた。
「俺は低燃費地球エコロジストなんだよ」
「何それ」
 奇怪な主張に思わず呟くと、基は不機嫌そうな顔で呟いた。
「低燃費に生きることにしてるんだよ」
「……なんでまた」
「使用酸素少なくなるし……たぶん。地球エコロジー」
「……」
 喋ろうが喋るまいが、使用酸素量は変わらないと思うけどね。あたしは。

 ◇

 途中で昼食もとって一通り島を散策し終えた午後二時。あたしたちは海岸まで戻ってきた。
 正直予定していたより遅くなりすぎたので、羽衣が何か喚くかなぁとびくびくしていたのだけど、驚いたことに羽衣は何も言わなかった。それどころか、あたしたちが最後に見たときと同じように松の枝に引っかかったままだったのだ。場所を移動してもいなかった。
「羽衣?」
 松の上の羽衣に呼びかけてみる。羽衣は反応しなかった。「羽衣?」もう一度、呼びかける。ひらりと布の端が風に舞った。――違った。羽衣が反応したんだ。こちらに一度ひらりと身体をふってから、羽のようにふんわりと降りてきた。手を差し出すと、素直にその上に乗る。
「遅くなってごめん」
『ん』
 あたしの言葉に、羽衣は短く頷いただけだった。思わず、基と若菜ちゃんと顔を見合わせる。おかしい。昨日知った限りだと、羽衣なら文句飛ばしてきそうなものだと思ったのだけれど。
「どしたの。元気ないじゃん」
『そりゃね』
 羽衣はどことなく疲れた口調でそういうと、あたしの手のひらから浮き上がり、するりと肩に覆い被さって来た。どうもこの場所が気に入ったらしい。
『あの子のこと』
「うん?」
『忘れるなんて、と思ってね』
 羽衣の言葉に、あたしは何も言えなくなった。あたしはもちろん記憶喪失になんてなったことはないし、正直なところそんなにめちゃめちゃ大切に思う人なんてのもいなかったりするから、羽衣の気持ちが判るとは思えない。ただ、感じることは出来た。羽衣の言葉に含まれる悲哀を、ほんの少しだけだろうけど、感じてしまった。だから、何も言えなくなった。
 ――ポン。
 唐突に後頭部を叩かれてあたしは目を瞬いた。羽衣、じゃない。羽衣の手触りじゃない。振り返ると、基が立っていた。立っていただけだ。別に何を言うでもなく、こちらを見るでもなく、立っていた。でもたぶん、基なんだろう。ただ、ポンと叩いただけだ。でも今はそれで、少し楽になった気がした。
 正直、面倒くさい状況だとは思う。奇妙だし厄介だと思う。それでも、少しは協力してあげたい。昨日気付いてしまった、羽衣の取り繕ったみたいな明るい声がどうしても気になってしまうから。口が悪いし態度も悪い布だけど、知り合ったのもきっと何かの縁だ。望みのひとつ、叶えられるかどうかは別として、出来る限り手伝ってあげたい。羽衣は羽衣で、たぶん、抱えているものもある。でなきゃあんな風に、取り繕って笑わない。
 ――あたしが、落ちてたら意味ないか。
 内心を羽衣にばれないようにするのは少し苦労した。何せ身体に巻きつかれているんだから、少しでも動きが違えばばれる気がするし。だから出来るだけ何気ない仕草で息を吐いて、あたしは意図的に軽い声を出した。
「ねぇ羽衣?」
『なに?』
「羽衣って記憶ないって言うけど、意外と覚えてるんじゃないかなぁってあたし思うんだけど」
 あたしの声の調子に何を感じ取ったのか、羽衣は一瞬黙り込んだ。と、思った次の瞬間、あたしの頬をぴしゃりと叩いてきた。
「いたっ!?」
『お馬鹿ね。これだからサルは頂けないわ。大体、どうしてそう思うのよ?』
 不自然なほど明るい声で羽衣はそう言って笑って、またふわりとあたしから離れて浮き上がった。午後の一番きつい陽射しに身体を透かして、ふわふわ揺れる。
「だからって殴んなくていいじゃん。――だってさ。昨日色々言ってたじゃん。羽衣は天女と共にあるから羽衣で、とか何とか。そういうのは覚えてるんでしょ?」
『ああ。まぁ、その辺りはね。あんただって記憶失くしたとしても自分が人間っていう尾のないサルだってことくらい忘れないでしょう』
 記憶を失くしたことがないので正直判んないけれど、まぁ、一理ある気もする。
 考え込んだあたしに、羽衣は小さく笑ってもう一度、と教えてくれた。
『いい? よくお聞きなさい。あの子がわたしを求めないはずはないの。それは天人にとっての本能だからね。ヒトが空気を欲するように、魚が水を欲するように、天人はわたしたちを必要とするの。わたしたちはただの着物じゃないわ。ある意味ではあの子達と同一の存在なのよ』
 羽衣の言った言葉の内容は、正直よく判らなかったけれど。ただ、判ったことがひとつある。
 あたしの意図的な軽さは、羽衣にはばればれだったらしい――ってことだ。
 不覚。そういうの、ばらさない自信はあったのに。

 ◇

 次の日から、ほとんど毎日のように若菜ちゃんがあたしと羽衣を誘いにやって来た。
 一応名目上は羽衣の、天女の元へ帰る方法を探すため――なんだけど、正直綺麗に手詰まりだったのでほとんど単に遊んでいるだけだった。
 大体、判っていることが少なすぎるのだ。疑問はいくらでもある。天女はどうして天に帰らなかったのか。地上に居るとしてどこなのか。天女はどうして羽衣を求めないのか。どうして瀬戸家だけが後日談を知っていたのか。ただ、疑問に明確な答えは見つけられないままだった。
 羽衣も羽衣で、この島の光景を見ていれば何か思い出せるものがあるかもしれないと考えたのか、あたしたちの行動に特別文句はつけなかった。
 結局、若菜ちゃんに引っ張りまわされて、あたしと羽衣、基は遊びまわる羽目になった。
 透明度の高い、きりっと冷たい海での海水浴。甘いスイカは浜辺でスイカ割りをしてから食べた。見たこともない貝殻に、はじめて触るカブトムシ。夜になれば花火や天体観測。溢れかえるほどの星空に息を呑んだ。もちろん、ばぁばやじぃじたちの手伝いもした。時々は、基に教えてもらいながら勉強も。
 正直、あたしにとっては初体験なことばっかりだった。娯楽に飢えた島だと思っていたけれど、遊ぼうと思えば案外遊べるらしい。もっとも、普段あたしが行くようなカラオケとかじゃなくて、小学生の頃でさえ体験しなかったような原始的な遊び、だ。それでも若菜ちゃんは楽しんでいたし、あたしにとっても新鮮で楽しいことばっかりだった。
 一度だけ羽衣連れで資料館にも行ってみたけれど、やっぱり別に収穫はなかった。最初に歩いた蕗山やらも羽衣をつれて歩いてみたけれど、これもやっぱり収穫はなかった。
 気温は毎日四十度近くまで上がり、いくら日焼け止めを塗ったところで黒くなっていく肌を誤魔化しようはなかったけれど、それでも楽しかった。
 一日が驚くほど早く過ぎていく。毎日が新鮮で楽しかった。

 そんな日々に、神奈川での生活が薄れていった。基とも若菜ちゃんとも一緒にいるのが当たり前みたいになってきた。羽衣とは毎日みたいに口喧嘩して、それがなんだかお約束みたいに楽しくなってきて――その度に、心の中の黒いもやもやが見えなくなった気がしていた。
 ヴェールに隠されて、見えなくなっていた。


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