第四章  想いことのは


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「うん。大丈夫だよ。ちゃんとやってるから……」
 イライラが出来るだけ言葉に出ないように抑えながら、あたしは受話器に向かってゆっくり喋る。耳元では、母さんの心配そうな声。
『そう? 迷惑とかかけてない? あんたはしっかりしてるから信頼はしてるけど』
「してるならいちいち言わないでよ」
『はいはい、判った。何かあったら連絡してきていいのよ? 夏休み終わるまであと少しあるし、もし終わるまで持ちそうにないならこっちに帰ってきてもいいんだから』
「帰りたくない」
 するり、と。ほとんど意識せずにその言葉が唇から零れ落ちた。その言葉に、あたし自身が一瞬呆然とする。
 帰りたくない。
 心臓が、どきどきする。……あたし今、何、口走った?
『ちょっとあかね?』
「なんでもない。ごめん。今こっちそれどころじゃないんだ。切るね」
 この島に来たときと同じように、あたしは母さんの言葉を遮って受話器を置いた。窓の外から、ミンミンとセミの声が届いてくる。すう、と思いっきり息を吸った。
 そう。今はそれどころじゃない。くっと唇を噛んで、あたしはばぁばの部屋へと足を向けた。
「ばぁば!」
「ああ。電話終わったんべ? 早かったね」
「だって、それどころじゃないし」
 呟くと、ばぁばは困ったように小さく苦笑した。ばぁばも知ってる。ばぁばだけじゃなくて、この島の人たちのほとんどが知っている。昨夜から青ちゃんの行方が判らなくなってしまっていることを。
「で、何の用だい?」
「あ。じぃじたち、もう出たんだよね?」
「ああ。朝一でね。昼に一回戻ってくると思うよ。大島さんも一緒に探してくれてる」
 だから落ち着きな、とでも言うように立ち上がったばぁばがあたしの肩をぽんと叩く。そう。昨夜あたしたちが探しても結局見つからなくて、青ちゃんは家にも帰ってなくて、結局心配した島の大人たちが青ちゃんを探すことになった。
「そっか。あのね」
 ひとつ頷いて、お願いを切り出そうとしたときだった。ばぁばがあたしを見据えて唇の端にまた笑みを刻んだ。
「あんたも行きたい、って言うんだろ」
 ――図星だ。本当は昨日の夜から探し続けたかったのだけれど、夜は危ないからと断固反対されて部屋に押し込められた。結局あたしは夜中窓を開け放したまま、せめて羽衣が戻ってこないかと待ち続ける羽目になった。そして羽衣も、やっぱりまだ戻ってきていない。こうなると青ちゃんと一緒にいるというのが一番考えられることだろう。
「まァ、夜に抜け出さなかっただけ良しとすっかね」
 ばぁばは腕を組んで一度天井を仰いだ。
「船頭さんに話を聞いたところ、青太は島からは出とらんべね」
 船頭さん、って単語が慣れなくて一瞬判らなかったけど、あれだ。スクールボートの運転手さんだ。気さくなおじさんだったのは覚えてる。この島から出る唯一の手段であるスクールボートの船頭さんが知らないんなら、青ちゃんは確かにこの島を出てはいないんだろう。
「んで今、男陣は山ン中サ周ってる。でも素人に山は危ないところだから、不用意に奥まで入り込まないこと。判ったかい?」
 確かめるように視線を落とされ、あたしは大きく頷いた。
「うん。ありがとう。行ってきます!」
 ばぁばにお礼を言って、スニーカーを引っ掛けて外に飛び出す。そこで――
 あたしは、足を止めた。
 桔梗亭のすぐお隣は瀬戸家だ。今までだって何度か、偶然を経験している。夜寝る前に――昨日はしなかったけど――窓越しにおやすみと言葉を交わすのだって日課になってきている。だから、こういうことがあっても不思議じゃない。全然不思議じゃない。不思議じゃないけど――気まずいのは、確かだった。
「……もとい。若菜ちゃん」
 今まさに瀬戸家の玄関から出てきた二人を見て、あたしは小さく呟いた。向こうも向こうで、あたしを見つけて足を止めた。若菜ちゃんが不安そうな顔で交互にあたしたちを見つめてる。けどあたしたちは気まずさから視線を交わすことも出来なくて俯いてしまった。
 俯いたまま、小さく口を開く。
「青ちゃん、まだ戻ってないってね」
「え……ああ、うん。羽衣はどう、だ?」
「まだ……」
 ぎこちないにもほどがある会話。けどそれ以上うまくは取り繕えない。スニーカーを見下ろして、あたしはぎゅっと拳を握る。
「探しに、いくの?」
「基地、見に行く。その後、青太ん家に一回行ってみる」
 あの廃校だ。まだ行ってないなら行った方がいいだろう。「そっか」と呟いて、あたしは笑顔を作って顔を上げた。若菜ちゃんもいる今、バカみたいな態度ばっかりとって彼女を心配させるのもひどいだろう。
「大丈夫。すぐ、見つかるよね。あたしもどっか探してくるね」
 それだけを言って走り出す。すぐに、背中から声が掛かった。
「あかね!」
 足が止まる。でも、振り向かなかった。基がどんな顔をしてるかなんて判らなかった。ただ、自分なら判る。あたし今、絶対ひどい顔してる。
「やめろ」
「……何が」
「その顔」
「地顔だよ」
 小さく、呟く。すぐにため息が聞こえた。足音が近づいてきて、でもあたしはそこから動けなかった。後ろから、手を引かれる。
「嘘付け」
 その手を振り払う。顔なんて、見たくなかったし見られたくなかった。
「昨日、言っただろ」
「……」
「俺の前で、気張んなよ」
「張らせてンの基じゃない」
 呻くように、唇から言葉が落ちた。
 最悪だな。あたし。人のせいにするなんて、最悪だ。でも他に、どう言えばいいのかなんて判らない。どういう顔をすればいいのかなんて判らないんだ。
 ぎゅっと握ったままの手のひらに、手が触れた。基の大きな手が、あたしの手を包んでいた。
「ごめん」
 謝られたって、困るよ。あたしにどうしろって言うのさ。心の中がぐるぐる回っていて、渦巻きみたいな黒いものが形を作ってくれなくて、あたしはどうすればいいのかなんて判らない。
 顔、見たくないなんて嘘だ。自分で判ってる。見たくて仕方ないし、逢いたくて仕方なかった。昨日の晩、お布団に入ってからも何度も何度も窓を確認した。羽衣が戻ってこないかどうか。基の投げる消しゴムの音が聞こえないかどうか。ずっと確認して、満足に眠れないくらいに気になっていた。でも、今、顔は見れない。あたしが基の顔を見るってことは、基だってあたしの顔を見るってことだ。こんな情けない顔、見せたくなんてない。だから、見れない。すぐそばにあるのに、見れない。すごく、見たいのに。だから。
「ごめん。今、基の顔、見たくない」
 だから――嘘を吐いた。ぎゅうっと心臓が痛くなる。僅かな沈黙にセミの声が割り込んできて、少ししてから基の手がすっと離れた。
「判った」
 掠れた、短い声。
 同時に、基の気配が遠ざかっていくのが判った。ずきん、ずきん、と耳の傍で音がする。でも振り向けなかった。暫くして、くいっと下から手を引っ張られた。驚いて下を振り向くと、若菜ちゃんがあたしを見上げていた。
 その顔に、ちょっとだけどきりとした。困ってるような、迷ってるような、怒ってるような、少しだけ淋しそうな――そんな、曖昧な顔。その顔のままあたしを見上げて、若菜ちゃんはいつもより少し抑え気味の声で言ってくる。
「あのね、あかねちゃん」
「……」
「お兄ちゃんはね、いっつも言葉が足りないの。若菜はいつも逆。言いたいこと大体全部言っちゃってそれで怒られるけど、でもね、ちゃんと言わなきゃ伝わんないこともいっぱいあると思うんだ」
 ああ、違う。すぐに気付いた。困ってるわけでも、迷ってるわけでも、怒ってるわけでも、淋しがってるわけでもない。たぶん若菜ちゃんは、真剣なんだ。真剣に、ただ言うべき言葉を選んだから、こんな顔になってるだけで――そう、たぶん、すごく真剣だ。小さくて、可愛らしいけど、若菜ちゃんなりの真剣さで、あたしに語りかけてくれている。
「お兄ちゃんも悪いよ。でも、でもね。あかねちゃんも駄目だよ。思ってること、ちゃんと言わなきゃ伝わんないよ」
 やわらかいナイフみたいな。鋭いくせにゆるやかな言葉があたしの胸に刺さってくる。あたしは何も言えず、ただ若菜ちゃんを見下ろしていた。
「ねぇあかねちゃん。あかねちゃんは、ちゃんと全部言った?」
 少しだけ強いその言葉は、なんだかちょっと尋問のように聞こえた。それはたぶん、あたしの中でそう聞こえる要素があるからだ。判ってるからこそ、答えられなかった。
 ふっと、短く若菜ちゃんが息を吐く。
「ごめんね、あかねちゃん。若菜はね、あかねちゃんも羽衣もお兄ちゃんも青ちゃんもみんな好き。だからね、ケンカしてるのも、羽衣と青ちゃんがいないのも、こわいしすごくヤなの。だから早く、仲直りしてね。早く、青ちゃんと羽衣、見つけてあげようね」
「わかな……ちゃん」
 取り繕うだけじゃなくて、本音を見せる強さ、この子は持っているんだ。見下ろして、言葉に詰まる。若菜ちゃんはにこっと強い笑顔を返してくれた。
「若菜も、ひみつ基地探してくるね」
 あそこ広いから、と小さく笑って。若菜ちゃんの小さな背中が駆けていく。それを見送ってから、あたしは真っ青な空を仰いだ。眩しくて痛い空。こんな時くらい曇ってくれればいいのに、なんて、理不尽に思ってしまう。
 羽衣。小さく、胸中で呼びかけた。羽衣、羽衣。羽衣ならなんて言う? あんたもバカね、なんて笑って言うの? それとも、ぴしゃりと布の端で頬を打って説教とかするのかな。
 問いかけたいのに。問いかけたいのに羽衣もいない。この夏中ずっと傍にいたあのおしゃべりな布がいない。そんな事も、淋しくて仕方ない。
「あかねちゃん?」
 ふいに、頭の上から聞き覚えのある太い声が掛かった。慌てて滲んだ目元を拭って、あたしは笑顔を作って振り返る。大島さんがいた。
「あ、すみません。どうかしたのかな、って」
「え。やだな、なんでもないです。戻ってきたんですか?」
「はい、そろそろお昼なんで。一度ばらばらに探していたみんなが集まって、報告することになってるんです」
 大島さんはそこまで言って、膝をかがめてあたしを見据えてきた。
「大丈夫ですか? 心配ですよね」
「あ……」
「大丈夫。必ず見つかります。青太くんでしたよね。そしたら僕にも紹介してくださいね」
 にこり、と。不安を消すように笑いかけてくれる大島さんの顔を見ていたら、嘘っぱちの笑顔なんて崩れてしまった。左手でそっと顔を覆って、俯きながら頷く。
「はい。青ちゃんあまつ三家だし……見つかったら、紹介します。それから」
 あのおしゃべりな布も紹介しよう。声は聞こえなくても、動きなら判るんだから。青ちゃんが、羽衣が帰ってきたら、大島さんにもちゃんと話したい。ばぁばにも、じぃじにも。
 そう、考えたとき。
 ふっとあたしの中で何かが閃いた。
 廃校には基が行った。だからって、あたしは今すぐ基を追いかけて廃校に行くことが出来るほど強くない。だったら、あたしは――そう、あたしは。ほんの少しの可能性にかけてでも。
 羽衣から、探せばいいんだ。
「大島さん!」
「は、はい?」
「う……羽衣って、どこにあるんでしょうかっ」
 勢い込んで言ったあたしの言葉に、大島さんは小さな目を見開いた。
「……はい?」
 全力で唐突過ぎたのかもしれない。ぽかんとする大島さんに、あたしは慌てて手を振った。
「ああ、すいません。あのっ、ちょっと気になったって言うかっ」
「はぁ。そうですか」
 大島さんはやっぱりぽかんとしたまま間の抜けた返事をしてきたけど、それでも考え込んでくれる。めちゃめちゃいい人だ。
 今の基とのやり取りを、全く見ていなかったって保証はない。確証もない。ただ、もし見ていたとしても、あたしが気を紛らわせようとしていることに気付いても、たぶん何も言わずに付き合ってくれるような人なんだろう。
「……それはその。青太くんと関係ある、のかな?」
「あります。見つかったら、ちゃんと話します」
 見上げると、大島さんは困ったように少し笑った。確かにめちゃくちゃ言ってると思う。青ちゃん探しててどうしようもない今、いきなり羽衣どこか、なんて聞かれたら、羽衣のことを知らない大島さんにとっては混乱の種でしかないだろう。それでも大島さんはそれ以上深く問いかけてこなかった。あたしの言葉を……信じてくれたのかも、しれない。
「うーん……羽衣……は、殆どの場合天女とともに天に帰ったことになっていますからね。たしかに天女の子孫といわれる家系が羽衣を継承しているケースはあります。喜界島や沖縄に。でもこの島ではそういう言い伝えはないですね」
 ――ああ、そっか。伝承の中ではツクヨは帰ったことになっているから、当然羽衣だって帰っているはずなんだ。毎日見てるから、すっかり忘れがちだけど。
「あの。もしもでいいんです。もしあったとして……たとえば誰かに盗られるとか、隠されるとか、そういう場所とかってありますか?」
 あたしの問いかけに、大島さんはさらに太い首をぐぐっと傾げてしまう。
「う、うーん。盗る……盗られる、なら。伝承通りならそれは伊嵯孤命になりますが」
「イサゴ……」
 出てきた名前を、あたしは小さく復唱した。イサゴ。伊嵯孤命。確かに彼が、天女の――ツクヨの羽衣を盗んだことになっている。それは伝説の上で、今じゃない。でも――
「あかねちゃん?」
 考え込んだあたしを気遣うように、大島さんが覗き込んでくる。
「すみません、大丈夫です。……あの。イサゴって、羽衣をどこに隠したんですか?」
 ほんの僅かな可能性に掛けて訊いてみる。たとえ伝承でも、それが言い伝わっている場所に行ってみるべきかもしれない。
「そうっ、そこなんですよっ」
 ところが大島さんは、大きな声を上げた。


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