第五章  古からの恋文


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 何かが違う。そう感じた何かはすぐには判らなかった。ただ、勘だったから。ううん、勘ですらないのかもしれない。もっと正確に言うなら――匂い。曖昧で、不確定で、適当すぎる理由。ただそれでも、その『匂い』は、あたしにこう告げていた。
 気をつけて、って。
「青ちゃん……なんで」
 声が震えていた。心臓がどきどきしてるけど、基と手を握ったときに感じたものとは全く異質のどきどきだ。怖い。なんだか判らないけど、ただ、怖い。
 じりっ、と青ちゃんが玄関に上がってきた。濡れてる。その時になって、気付いた。びしょぬれだ。海から上がってきてすぐみたいに。そしてその目が、異質だった。怒り――だろうか。異様なまでのぎらつきが、瞳にあった。それがたぶん、一番『違う』と感じたものだ。でも、おかしい。それ以上に、違う気がする。
「羽衣を盗ったのはお前か」
 低い声が、言った。あのおちゃらけた青ちゃんの言葉とは思えない、低い声だった。
「え……?」
 上ずった声が漏れる。その瞬間、青ちゃんの手があたしの肩にかかっていた。
「お前か!」
 ――怖いっ!
 たまらず、青ちゃんを突き飛ばしていた。同時に、走り出す。階段を駆け上がった。自室に飛び込んで、鍵を閉める。机の上に置いていた羽衣に駆け寄り、抱き上げた。
 今のは、何。
 青ちゃんだ。確かに、青ちゃんだった。昨日見た格好のままだ。でも、違った。目の光が、声の調子が、態度が、気配が、全部、青ちゃんじゃない。大体青ちゃんにはまだ、羽衣のことは話していない。なのに。
 ――どんっ!
 思考が途切れた。自室の扉が震えていた。ここまで、追って来たんだ。どっどっと鼓動が速くなる。羽衣を抱く手に力が篭った。
 駄目だ。守らなきゃ。青ちゃんに――少なくとも今の青ちゃんに、羽衣は絶対、渡しちゃ駄目だ。喋れない、動けない今の羽衣は、あたしが守らなきゃ。今この場には基も、若菜ちゃんも、ハナもいないんだ。あたしが、守らなきゃ。
「そこかっ! そこにあるのか!」
 扉の外から青ちゃんの怒鳴り声が響いてくる。別の音がした。同時に、野太い大人の声――大島さんだ。
「なっ……何をしてるんだい?」
「大島さん、気をつけて!」
 慌てて叫んでいた。今の青ちゃんは絶対、どう考えても普通じゃない。大島さんだって巻き込まれる可能性がある。
「羽衣はそこか。貴様、それを渡せ!」
「は、はごろも?」
「ないよそんなのどっかいけバカ!」
 きょとんとする大島さんの声に被せるように、あたしは怒鳴り返していた。指先が震えてきた。膝も笑ってる。情けないけどどうしようもない。今だって扉はどんどん叩かれていて震えている。壊されて入られたら一環の終わりだ。
「何の騒ぎだい!?」
「あかね、どないした! ――青太!?」
 ばぁばの声が聞こえた。庭のほうから足音と同時にじぃじの声もした。皆が集まってきてる。ただ、誰も青ちゃんを止められないみたいだった。戸を叩く音はやまない。
「やめなさい!」
 ふいに大きな大島さんの声が聞こえた。同時に、何か鈍い音がした。大島さんのくぐもった声が後に続いてきて、あたしは悲鳴を上げていた。
「大島さんっ!?」
 扉の外のことは何も見えない。見えないからこそ、怖かった。青ちゃんが何かをしたらしいということくらい、判る。
「だ、大丈夫。だてにでかい身体はしてないから……」
 全然大丈夫じゃなさそうな声だった。頭が真っ白だ。何がどうしてこうなったのか判んない。
 また、扉が叩かれる。ぎしっ、と音が鳴った。駄目だ。壊れるの、時間の問題だ。
 どう、したら。
 ふらふらと後退さりながら部屋を見渡して、あたしははっと思い出した。窓辺に走りよって、勢いよく顔を出す。夕陽が、目に刺さった。少し目を細めて、息を吸った。潮の匂い。ここに来た時に強く感じて、今はもう慣れ親しんだ風の匂い。
「――基!」
 大声で叫んだ。いつも、消しゴムで気付くんだから。こんだけ叫べば気付かないはずない。
「基、基……っ!」
 気付かないはず、ない――のに。何度叫んでも基の部屋の窓は開かなかった。さあっと血の気が引いていく。なんで、どうして? 窓枠にしがみつきながらしゃがみ込みそうになる身体を支える。下を見て、ようやくあたしは気付いた。
 瀬戸家の庭。いつもならハナがいるところに、ハナがいない。――そう、だ。いつもは遊ぶのと一緒に散歩もかねて島中歩いているけど、今日は事情が事情だから、若菜ちゃんも基もハナを連れて歩いてない。ってことは……、まさか。
「散……歩?」
 呆然と呟く。反応のない窓と、空っぽの犬小屋がそれを肯定しているようで、あたしはなんだか泣きたくなった。
 バカ、バカ、バカ! 何ってタイミング悪いのバカー!
 悲鳴を上げても、扉を叩く音はやまない。ぎしっ、ぎしっと扉は悲鳴を上げている。
「羽衣はここにあってはならぬ! それがあると――」
 青ちゃんの声は、途中で意識から締め出した。
 駄目だ。いない基を当てにして待っていられる状況じゃない。逃げなきゃ。どこから? 扉が開けられないなら決まってる。この窓からしかない。あたしなら通れなくはない。下はすぐ一階の屋根が出っ張ってるし、庭にある木を伝えば外に出られるはずだ。木登りなんてしたことないけど、人間にはきっと火事場のバカ力とか言う便利能力がある。あると信じよう。それから、自分の身体を見下ろす。キャミにショーパン。限りなく逃げやすい格好だ。ただ、問題は靴。靴は玄関だから、ここにはない。一応靴下だけ急いで履いた。はだしより少しはマシなはず。それから畳んでいた羽衣を広げた。身体に巻きつけて、外れないように結ぶ。
 あと必要なのは、度胸だけだ。そして女は、度胸の生き物だ。何とかなる。
 意を決して、窓枠に足をかけた。羽衣が今喋れたら、絶対『ホントにサルの真似するなんて』とでも呆れるだろう。でもその軽口を聞くまで、あたしは羽衣を離さない。
 外に出る。伸ばした足の先に屋根が触れた。靴下は、もしかしたらちょっと失敗だったのかもしれない。滑りやすい。でももう今更考えてられない。ふるふる震える足を誤魔化して、何とか屋根の端まで行く。手を伸ばす。木の枝に触れた。細いから、これに全体重をかけるのはまずそうだけど――他に届きそうな枝もない。ええい。一瞬だけなら耐えてくれるっしょ。大丈夫。落ちてもたぶん死なない。きっと。両手を伸ばして枝に触れる。振り子みたいに身体をふって、すぐに足を太い幹にかけた。同時に、枝が折れた。慌てて別の枝に縋りつく。やっぱ落ちたくはない。太ももとふくらはぎがすれて痛かった。落ちるよりはマシ。口の中で呟いて、そのままずるずる降りていく。青ちゃんが気付いたら、すぐに追いかけてくるに決まってる。それまでに、出来るだけ逃げたい。地面に降りた。小さく息を吐く。
 置いてあった自転車に走った。家に鍵をかける習慣もない嵯孤島だ。自転車に鍵がかかってるはずもない。ストッパーを蹴って跨った。ペダルを強く踏む。大丈夫、羽衣も外れてない。あたしにも羽衣にも怪我はない。靴下越しの足の裏に、ペダルは少し痛かった。それでも踏むことはやめない。やめないから、自転車はどんどん進んでいく。
 どこへ行くかなんて決まってなかったし、当てもなかったし、考えてもいなかった。ただ、あたしは羽衣を出来るだけ青ちゃんから遠ざけることしか考えられなかった。とにかく急いだ。めちゃくちゃに急いだ。立ち漕ぎしながら、今までにないスピードでペダルを踏み続けて自転車を操って、公道を驀進した。息はすぐに上がったし、夕方とはいえまだまだ外は暑いしで、汗が顎から滴り落ちた。
 きっと無茶しすぎたんだと思う。視界を斜めに走る島の景色がそんなに変わらないうちに、ペダルを踏む足がスカッと急に軽くなった。今までの重さと全く違うあまりの軽さに、素っ頓狂な声が漏れた。その瞬間自転車はつんのめったように勢いを緩めて、前に出ていたあたしの身体はそれは見事に吹っ飛んだ。吹っ飛んだと思ったのは一瞬にも満たない時間で、そう考えたときにはあたしと地面は一体化していた。風が汗で張り付いた前髪をぐいっと押しのけて通り過ぎてから、膝がじんじん痛み始めた。
 くらくらする頭を振りながら立ち上がる。ショーパンから出た足は擦り傷と切り傷でぼろぼろだった。傍に自転車が転がっていた。近寄って、自転車を持ち上げる。それから気付いた。
「チェーン……」
 自転車のチェーンが外れていた。思わず顔が歪んだ。おでこに滲んだ汗を手の甲で拭ってからしゃがみこむ。外れたチェーンを引っ張ったりいじったりしてみたけれど、どうすれば元に戻るかなんて判らなかった。大体あたしは、中学のときの技術の時間でさえまともに作品を仕上げたことがないのだ。基本、不器用だ。何とか出来るはずがない。
 諦めてため息を一つ。それからずり落ちていた羽衣を肩にかけなおした。羽衣がいるなら、何とかなる。何がどうなるか判らないけど、とにかく逃げることは出来る。幸いあたしには二本の足があるんだから。
 走り始めた。公道のアスファルトは昼間の熱を吸って存分に暖められていて、靴下越しにでもちくちくと熱を伝えてきていたけれど、今のあたしにはそんなもの効かなかった。
「羽衣、羽衣」
 何度も呼びかけながら、何度も返事がないのを嫌々感じながら、それでも走り続ける。よく判らなくなっていた。今どこなのかも、曖昧だ。途中で曲がってしまったらしくて、いつの間にか公道からは外れていた。周りには樹が多く見えてきた。膝が笑うのを誤魔化し誤魔化し走り続けて、でもとうとう誤魔化しきれなくなって、あたしはふらふら歩き始めた。
 肩を、掴まれた。
 強く引かれる。振り返る。視界いっぱいに、顔が見えた。
 青ちゃん。
 咄嗟に両腕を突き出して青ちゃんを弾き飛ばしていた。慌てて距離をとる。足が、疲れとは別の意味で震えていた。もう、追いついてきたんだ。
 身体に巻きつけていた羽衣を外して、後ろ手に抱えた。そのままゆっくり後退する。背中が樹に触れた。間に挟まれた羽衣は、後で文句を言うかもしれないけど、でも今は耐えて欲しい。
「羽衣を返せ」
 青ちゃんが言った。青ちゃんが、青ちゃんじゃない雰囲気のままそう言った。あたしはぐっと唇を噛んでから、震える唇を無理やり剥がして言葉をぶつけた。
「いや」
 単純で、明確な否定の言葉。けれど青ちゃんは微動だにしない。
「羽衣は渡さない。大体、何で返せって……これはツクヨのものだよ」
「それは私が隠したものだ」
 ――え? 隠した……もの?
 その言葉に、あたしは何も言えなくなった。どういうこと? 隠したって、羽衣を? 青ちゃんが? どうして?
「なん……で。何で青ちゃんが……羽衣を隠すの……?」
「あれを天に帰さないために」
 頭が上手く働かない。あれって、何。何のこと。誰の――こと。
 呆然とするあたしの頭に、大島さんがお昼間言った言葉が蘇ってきた。
 ――盗る……盗られる、なら。伝承通りならそれは伊嵯孤命になりますが。
 まさか。頭のどこかがぼんやり呟く。
「あ……あれって、ツクヨ……のこと?」
 訊ねる声が震える。青ちゃんは無表情のままひとつ頷き――こう、言った。
「私の女房だ」
 頭を殴られたかと思った。
 まさか。そんなバカな。思いながら、けれど言葉は震えたまま唇から漏れていた。
「イサゴ……なの?」
 震えたあたしの問いかけに、青ちゃんは何も言わなかった。ただ唇の端を、ぐにゃりと笑みの形に歪めた。
 肯定だと思った。


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