第五章  古からの恋文


戻る 目次 進む


 頭ががんがん鳴っていた。どういうこと。そんなバカなことあるの? だってイサゴの話なんて何百年も前の話じゃない。どうしてそんな、大体目の前にいるのは、青ちゃんなのに。
 頭の中は混乱してて、それでも、後ろ手にした指先には羽衣のつるつるした感触があって、あたしは自分を見失わないですんだ。喚かないですんだ。だって羽衣を守れるのは、あたしだけだから。
 青ちゃんを正面から見つめた。
「だっ……だったら、なおさらやれない。羽衣はツクヨのところに帰りたがってるのに。だいたい、羽衣を盗んだのはそっちじゃない!」
「いいから返せ。それがあると、あいつは天に帰る」
「バカなこと言わないでよ! ツクヨはどこなのよ、羽衣、ずっと探してるんだからっ!」
「あれは私の家にいる」
 するりと滑り込むような言葉に、あたしは思わず息を呑んでいた。
 家? 私……って青ちゃんじゃなくて、イサゴの家ってこと? でも待って。あそこはだってもう、林の中で、あるのはあの寂れた岩だけで――羽衣もツクヨも、居なかった。居なかったはずだ。羽衣を連れて行っても、反応しなかった。
「……あの岩の場所には、いないよ」
「何を言っている?」
 青ちゃんが眉を顰める。何を言っているって、眉を顰めたいのはあたしのほうだ。だってあそこにはもうあの岩しかない。天を詠む歌――だっけか、あれが書かれた岩しかない。それなのに、イサゴはあそこを家だという。なんでそんな……。
「あんたの家跡には岩しかないの! 何言ってるのか判んないのはこっちだよっ」
「家跡……? 何の話だ」
 ――話が、通じない。どうして。震える手で羽衣を握りながらうめく。通じない。どういう訳か判んないけど、イサゴは家があるままだって思ってるし……ツクヨがそこに居るって思ってる。もしかして……イサゴの中では、今は現代じゃないのかもしれない。ツクヨといた、何百年だか何千年だか前のままなのかもしれない。イサゴの中の時間は、止まっている気がする。
 もうホントに何がなんだか判らない。頭がパンクして今にもどっかんと行きそうだ。
 目の前にいるのは青ちゃんじゃないらしい。どう見ても青ちゃんだけど、どう考えても青ちゃんじゃない。ここに居るのがイサゴだとして、何で青ちゃんの身体なの。どうして羽衣を追いかけてるの。どうしてツクヨが居ると思い込んでいるの。どうして――
 考えることがいっぱいで判んないことが全部で、なんだかもうただただ泣きたくなってきた。そのとき、だった。
「あかねっ!」
 ――わんわんっ!
 聞きなれた声と犬の声。両方が一緒に飛び込んできた。
「も……とい」
 呟きが漏れた。青ちゃんの後ろ、真っ青な顔をした基が汗だくで立っていた。基だけじゃない。ハナを連れた若菜ちゃんも大島さんもじぃじもばぁばもいた。何で、と思って思い出した。そうだここは、唯一整備されている公道はハナの散歩コースだっていつか教えてくれた。きっとその途中でハナが気付いてくれたんだ。あたしの匂いか、青ちゃんの匂いかで気付いて、だから基もきっと気付いてくれたんだ。安心して、でもその安堵に縋りつくのは少しだけ我慢した。まだ全然状況は変わってない。後ろ手に握った羽衣を強く意識してあたしはゆっくり息を吸った。久しぶりにちゃんと呼吸をした気になった。
「イサゴ、なんだよね」
 青ちゃん――ううん、イサゴが静かに頷いた。
「あんたは羽衣を盗んで隠して、ツクヨは子どもを生んだ。でもそのあとツクヨは天に帰ったんじゃないの? 子どもたちの舞で羽衣を見つけて着て、天女のことを思い出して天に帰った――のに、どうしてここに羽衣があるの!? ツクヨはどうして帰らなかったの!? どうして今更になって羽衣にあんたが関わってくるの!?」
「封印が解けた」
 するりと。叫びと叫びの間の息を吸う一瞬に、言葉は割り込んできた。あたしは言うべき言葉を霧散させてしまって、ただ呆然と彼を見た。
「ふう、いん?」
「二の子にのみ伝えた羽衣の封印がな。それが解けるなら、私は今一度帰る。あれをここに留めるために」
 言ってる意味のほとんどはちんぷんかんぷんで、ただ、判ったことがひとつだけある。
 やっぱり、羽衣を渡しちゃいけないってことだ。
 改めて考えに至った瞬間、あたしは自分でも意識しないまま走り出していた。後ろで罵声が上がる。じぃじの声や大島さんの声。ハナの吼える声。全部を振り切って走り出す。いつの間にか、あたしは森の中にいたみたいだ。森。山? 林? 判んないけど、樹がいっぱいで、地面はぼこぼこした土で、枝がいくつも落ちていて、草があって、滑って、刺さって、痛かった。でも、走るしかなかった。肩を掴まれた。また、悲鳴が漏れた。でも本格的な金切り声になる前に、耳に慣れた声がした。
「あかね、俺だ!」
 ――基!
 掴んだのが基だって判った途端、あたしは振り向いて抱きついていた。基が、びっくりしたみたいに息をとめるのが判った。ぎゅっと基のシャツを握り締める。怖かった。ずっとすっごく怖くて、基の声が聞こえたら、なんだかめちゃめちゃ抱きつきたくなって、我慢できなかった。羽衣を握ったまま、基の背中を強く抱いた。
 基はちょっとだけ息を吐いて、あたしの髪の毛をそっと梳いた。それだけだった。でもそれであたしの気持ちはすうっとして、基から手を離して見上げることが出来た。
 その時、もうひとつの聞きなれた声が耳たぶに触れた。少し甲高い、女の子の――かすれ声。
『……ひ、が……し』
 羽衣の声、だ。
「羽衣!」
 あたしと基は同時に叫んで、持っていた羽衣を慌てて広げてみた。羽衣は変わらず動かない。でも、聞き間違いなんかじゃない。かすれててちゃんとは聞こえなかったけど、でも確かに羽衣は今、喋った――!
「羽衣、羽衣!」
 呼んでも呼んでも、もう声は返ってこなかった。でも。でも空耳なんかじゃない。だって基だって聞こえてる。空耳なんかじゃない。
「羽衣!」
 呼びかけていたあたしの肩を基がぐっと掴んだ。見上げると、強い眼差しがそこに合った。
「東って、言ったよな」
「た……ぶん」
「行こう」
 基がすっとあたしの手を握った。それから反対の手であたしの肩に羽衣をかけた。あたしは空いた手で羽衣を強く握った。
 走り出した。東がどっちかなんて、あたしはよく判らなかった。ただ基は一度空を見上げて、それから走り出した。いつのまにか、外はすっかり空気までも藍色に染まっていて、森の中はなんだか少し怖かった。それでも、無我夢中で走る。上り坂だ。何度も躓いて、何度も転びそうになって、何度も基に助けられながら走る。息が上がってきて、少し。
 視界が、唐突に開けた。
 樹がいきなりなくなって、藍色の夜空が視界いっぱいに飛び込んできた。息が詰まるほどの潮の匂いがあたしたちを殴りつける。そして、見つけた。
 夜空を背景に、それはそこに佇んでいた。一番最初に思い出したのは、蕗林の中の苔むした岩だった。イサゴの家跡にあったそれとそっくりな岩が、そこにあった。
「これ……?」
 岩は本当に、イサゴの家跡のあれとそっくりだ。表面にやっぱり何かの文字がある。随分掠れていて全く読めはしなかったけど。近づいて指先で触れる。ざらりとした石の感触を確かめた直後――視界が、白に染まった。
 悲鳴を上げる間もないほんの一瞬。雷みたいな、フラッシュみたいな光に目が眩む。くらくらしながらまぶたを上げると――天女がそこにいた。
「え……?」
 それはほんの一瞬頭に浮かんだ言葉で、自分でもどうしてそんな風に思ったのか判らない。実際まばたきをしてもう一度見た時、そこに浮いていたのは天女なんかじゃなくて、見慣れたいつもの七色に光る布――
『心配かけたわね』
「……羽衣っ!」
 聞きなれた声が今度は本当に確かに聞こえて、あたしは浮いていた羽衣を両手で抱き寄せた。強く強く抱きしめる。
「羽衣、羽衣、平気!? 大丈夫!? 何で喋んなかったの!? すっごいすっごい心配したんだから、心配したんだからねっ!」
『ちょっ……わかっ、わかったからっ……ちょっ、しめすぎ……っ』
「あかね」
 隣から基が囁いて、ぽんっとあたしの頭に手を置いた。あたしはようやく息をついて、羽衣を抱きしめる腕の力を少し緩めた。でも放さないまま、小さく呟いた。
「ごめん……だって」
『ふふっ、判ってるわ。ありがとね、心配してくれて。それに――ここに、連れて来てくれた事も感謝するわ』
「ここ……?」
 呟いて、あたしはぼんやりあたりを見渡した。崖のような場所で、ただひとつさっきの岩がある。羽衣はふわりとあたしの手の中から浮き上がると、その岩の上に漂った。くるんっ、といつもみたいに一回転して、ふわりとその岩の上に降りる。
「羽衣?」
『東って言ったでしょ』
 呼びかけに答えず、どこか懐かしそうに羽衣は言葉を漏らした。
『あのときねぇ、ほんの少しだったけど東のほうから暖かい……なんて言えば判るかしら、力のようなものが流れてきてね。それがわたしを縛っていたものを少しだけだけど緩めてくれたの。東のほうからってことしか判らなかったし、どうしてなのかまではそのときは考えられなかったんだけど……今、判った』
 やさしいような――それなのに物悲しいような声で呟いて、羽衣はふふっと小さく笑った。
『ここにあの子、眠ってるわね』
 羽衣の言う『あの子』が誰かなんて、もうあたしと基は判りきっていて「ツクヨが!?」――って、同時にあたしたちは叫んでいた。
 羽衣がまたふわりと浮いて、岩を見下ろすようにしながらぴょこんっと布の端を縦に振る。いつもの、肯定の仕草。
「じゃあここは……ツクヨの墓、か? 塚……天女塚、なのか」
 基が低く呟く。そう、そうだ。ツクヨの眠っている場所。ツクヨの居場所。羽衣がずっとずっと探していた場所。――だったら!
 あたしはそのことにようやく気付いて、慌てて羽衣に駆け寄った。
「羽衣、羽衣じゃあ記憶……!」
『戻らない』
「え……?」
 予想に反した言葉に、あたしは間の抜けた声を漏らしてしまう。
 記憶が――戻らない? どうして? ツクヨと共にあれば羽衣は記憶が戻るっていっていたじゃない。羽衣もツクヨもここにいて――それなのにどうして、記憶が戻らない……?
 呆然と、羽衣を見上げる。宵闇の空の中でも艶やかに光る天女の羽衣はゆるゆるおりてきて、するりとあたしの身体に巻きついた。
『どうしてかしら。どうしてかしらね』
 ぽつりと呟かれた羽衣の言葉には抑揚がなくて、感情すら押し殺したみたいに伴ってなくて、無表情なその言葉の響きがなんだか無性に悲しくて、あたしはその場で座り込んでしまった。
「うい……」
『ここにあの子がいるのは判る。わたしの主が……天女がいるのは判るの。でも、それだけ。それだけなのよ。それ以外何も判らないの。何も思い出せないの。あの子の顔も、あの子の声も、あの子の手の感触も、何も思い出せないの』
 ぽつり、ぽつりと。降り始めたばかりの雨みたいに言葉だけが羽衣から流れていく。
『その子がわたしにとって、とても大切な存在だったってことは判るのよ。判るのに、肝心なことが何一つ思い出せない。曖昧な感情と記憶が、それでも大切だってことだけ伝えてくるの。ねぇ、判る? その気持ち。大切だって判るのに、その大切なことは全然判らない。変な感じ。ずっとずっと変だったけど、あの子の元へ行けば判ることだって思ってたのに、やっぱり判らないの。変なままなのよ。こんな気持ち、あかね、判る?』
 泣いている……気がした。声は震えていない。涙なんて流れてない。でも。
 泣いている、気がした。
「羽衣」
 あたしは羽衣に何も出来ない。羽衣の言うその変な気持ちだって、ちゃんと理解できるわけじゃない。あたしは何も出来なくて、ただ羽衣って呼びかけるしか出来やしない。
 ふるっと、羽衣が震えた。まるで笑うみたいに、肩の上で震えた。
『わたし、やっぱりあの子に捨てられたのかしらね』
「――羽衣!」
 咎めるように叫んだのは基だった。あたしは何も言えなくて、羽衣を見下ろすしか出来なかった。羽衣はあたしの肩からまた浮き上がって、立ったままだった基の前へとあがっていく。
『だってそうでしょう!? ここにあの子が居るのに、わたしはあの子を思い出せない! それってあの子がわたしを求めてないからでしょう!? あんたたちだって気付いてるんじゃないの!? あのくまの言う伝承どおりだったら、わたしの曖昧でしかない記憶の欠片どおりなら、あの子はわたしを一度見て記憶を取り戻しているはずよ! それなのにわたしはあの子から離れてたわ! それってあの子がわたしを捨てたってことじゃない!』
 違うって、そんなんじゃないよって叫ぶのは簡単だった。でも、言えない。だってあたしはツクヨじゃない。真実が判らない状態の嘘っぱちの慰めの言葉なんて、今の羽衣に届くはずがない。何も、言えなくなって。二人を見上げていることも辛くなって、俯いたときだった。
「羽衣」
 基が小さく囁いた。


戻る 目次 進む