第五章  古からの恋文


戻る 目次 進む


「俺は昔、青太と盛大な喧嘩をやらかしたことがあってな」
 ――?
 あんまりに唐突な話に、あたしはぽかんと基を見上げていた。羽衣も虚をつかれたように、何も言わずに漂っている。あたしたちを見下ろして、基は苦い顔で腕を組んだまま続けた。
「小学校の……それもまだあの廃校に通ってたころだ。喧嘩の原因は……将来、島を出るか出ないかって話だったんだけど」
 訳が判らないあたしに軽く笑いかけて、基は普段からじゃ考えられないくらい長く喋る。
「俺は一時出るが、絶対戻ってくるって言って、あいつは出たいって言った。今ならああそうかですむんだけど、ガキだったんだよな。お互いに。ずっと一緒に悪さしたりでつるんでいくつもりだったから、なんだよ一緒に大人になるって言ったじゃんかって衝突した。……バカだったんだよ。互いのこと信じられずに、勝手に裏切った、裏切られたって気になってた。――理由も聞かずに、言わずにな」
 恥ずかしいのか何なのか、がしがしっと頭をかいて基は苦笑を浮かべる。
『……あんたの昔話なんて』
「いいから聞けよ。で、暫く互いに口きかなくなって、周りの大人もいいかげん心配し始めたころ、あっさり仲直りした」
「……どうやって?」
 思わず問いかけると、基は軽く肩を竦めた。
「理由、聞いて、言った。それだけだった」
「理由……?」
「青太、そのころサッカー選手になりたがってたからな。それで、島を出るって言った。俺は」
言いかけて、基は一瞬口をつぐんだ。「笑うなよ」と低く呟いてから、短く息を吐いた。
「医者になりたかったんだよ。この島、病院なくて。今はああだけど、若菜ちっせぇ頃はしょっちゅう病気しててすげぇ大変だったから。外の学校で勉強するけど、絶対戻ってきてここに病院作ってやるって」
 ……びっくり、した。基の将来の夢なんて、あたしそう言えば聞いたことなかった。
「いや……理由は別に何でもいいんだよ。ようは、二人してちゃんと話もせずに勝手に誤解だけしてたってこと。理由聞いて、お互い納得して、何だそっかでおしまいだった。すっげぇ単純な恥ずかしい過去暴露終わり。……つまり何が言いたいかって」
 ぺし、っと基はいきなり羽衣を軽く叩いた。
『なっ……?』
「お前、今、俺の小学校時代レベル。本人から直接理由も心情も聞き出さないで勝手に誤解して喚いてる、そういう状態」
『何言って――』
「それに」喚く羽衣をもう一度叩いて遮って、基は岩を軽く振り返ってそっと微笑んだ。
「お前さっき、喋れるようになったのは『力』とかが流れてきてお前を縛ってた何かを緩めたから、って言ったよな?」
『……ええ』
「それって、天女がお前を呼んだってことじゃないのか?」
 ――あ。
 そう……だ。そういう風にも考えられる。だって力はここから、羽衣を呼ぶみたいに流れてきたんでしょ? それはあたしたちには見えないし感じなかったものだけど、何より羽衣自身が感じ取ったはずのものだ。捨てたんなら……もういらないって投げ出したんなら、そんなことしないはず――
「まだお前の記憶は戻ってないんだろ。そんな状態で勝手に決め付けてやんなよ。まだ本当のところは判らないんだから。天女から直接聞いたわけでもないんだから」
 基はそう言って、今度は優しくぽんっと羽衣を撫でた。
「信じてやれよ」
 その言葉に羽衣は暫く何も言わなくて、ただじっと佇んでいただけだったけど、少ししてからふわりとあたしの元へ降りてきた。
『……サルに説教されたらおしまいよね』
 ちょっとだけ拗ねたような、照れたような声が聞こえた。ほっとして、あたしは基を見上げて笑った。基も軽く笑う。
 今、何となく判った気がする。基がいつもあたしのことを見抜いちゃうわけ。あたしだけじゃなくて他の誰にでもきっとそうなんだろうけど、小さな仕草や言動の裏っかわまで読んじゃうわけ。きっと基はそういうことを経験してきて、だから人をよく見るようになったんだろう。
「それで」
 羽衣を抱いて立ち上がると、基はいつもの何となく面倒くさそうな顔に戻って頭をかいた。
「結局何がどうなってるんだ? さっぱり判らんままなんだが」
『ああ、そうね。……わたしも推測しか出来ないけど、ええと、青太? あれ、イサゴね』
 羽衣の言葉には、驚くよりもやっぱりって気持ちのが大きかった。基もそうだったみたいで軽く頷いている。
『わたしを見た途端、青太にイサゴが蘇ったのね。ってことはたぶん血筋なんでしょうけど、あんたたちにはそれはなかったでしょ。会話は出来るけれど』
「うん。声は聞こえるけど……」
『ってことは、あの子の血筋全部じゃなくて直接都築の先祖に由来しているものみたいね。きっとイサゴが都築の先祖の子にタマ宿しの術かなんかをかけてたってことね』
 ……ええと。何言ってんだかちんぷんかんぷんなんですけど。
 思ったまま顔に出ちゃってたらしく、羽衣が『あー』と意味のないうめき声を上げる。
『古い呪術よ。言霊によるもので、自分の命の一部を他者の中に宿すの。で、きっかけがあればその段階でのタマシイの一部が蘇る。普通は成功してもせいぜいその他者のみだけど、天女との子だからね。どうも人間とは違うふうに作用したらしいわね。子孫にまで根付くなんて、けったいなことよ』
 ……理解が追いつきません。基に助けようと見上げてみるけど、基も基で苦い顔をしている。
「あー、つまり、なんだ。お前を見ることでイサゴが蘇るとか、そういうことをしてた? って出来るのかンなこと」
『出来るでしょうよ。まぁそんな真似したんだったら、イサゴだって長くは生きてなかったでしょうけど。どっちにしろそれが受け継がれて、結局都築の子が被害こうむったってことね、きっと。迷惑極まりないわ』
「ねぇ羽衣。よくそんなこと覚えてるね……?」
 記憶喪失のはずがさっぱそう思えない。あたしとか基とか大島さんだって知らなさそうな知識をがんがん持ってるし。
『覚えてるんじゃなくて、知識だってば。前に言ったでしょうが、知識と記憶は別もんだって。あんただって記憶なくしてみりゃ判るわよ。自分のことが判んなくたって米の研ぎ方は忘れないでしょうよ』
 お米の研ぎ方と呪術うんたらが同列に扱えるって、実は天女の羽衣ってすごいのかもしれない。……理解しがたいすごさだけど。
「てかさ、大体なんで青ちゃんと別々にいたの? 隠したとか何とか言ってたけど」
『封印、ね。あの祠あったでしょ? あそこで封印されてたのよ。これも言霊の力で』
「封印って、さっきイサゴも言ってたけど」
『七縛みたいなもんよ。もっと強力だし異質だけどね。判りやすく言えば、見えないけど強力な縄かなんかでぐるぐるに縛られててどうしようもなかったってカンジよ。まぁ人の施したもんだから、天女の傍に来てわたしが力を蓄えれば解ける程度のものだけど』
「封印とか、そんなこと出来るの?」
 あたしの問いに、羽衣はひらりと頷いた。
『今の子らには、ちょっと理解しがたいかもしれないけどね。昔は呪術も祟りも身近なもので……もっと言えば、言葉に力があったから』
「ちから?」
『言霊って言ってね。ほら、あんたあのくまに聞いてなかった?』
 大島さんだ。大丈夫かな、と思いながらも大島さんの言葉を頭の中で思い出す。あの人が教えてくれたことはいくつもある。その中で、確かに言霊という単語もあった。コタマ山だ。
「基、ここって」
「うん。コタマ山」
 基が頷く。言霊山――言葉に力が宿る山。大島さんは、そういう信仰がこの島にはあるって言っていた。羽衣もひらりとまた頷いて、続ける。
『言葉には力が宿るから安易に使えないものだったの。本名を知られると駄目だとか、色々ね。イサゴがかけたのもその系統よ。それに祠を作って外からも力を加えた感じだけど。つまり、言葉には力があった。その言葉を、イサゴは使ったのよ』
 言葉には力がある――その言葉を羽衣が呟いたとき、何故だかあたしの頭の中に、昼間の若菜ちゃんの声が蘇ってきた。
 ――ちゃんと言わなきゃ伝わんないこともいっぱいあると思うんだ。
 言葉に、魔法みたいな力があるってことを、あたしはさすがにすぐには納得出来ない。でも、若菜の言葉なら納得が出来て、それはたぶん羽衣の言っていることと、実はあんまり大差ないことだったりするんじゃないかな。そんなことを、少し考える。
 つまりあの場所に羽衣を隠して、言霊の力とか使って封印してたってことか。
 ――って、あれ?
「羽衣あの場所覚えてるの?」
 あたしたちがあの場所で羽衣を見つけたとき、羽衣は何の反応もなかった。あのときのことは覚えているんだ。ってことは?
 首を傾げたあたしに羽衣が軽くくるんと頷くみたいに回転した。
『あんたたちが迎えに来てくれたときなら意識はあったわよ。喋れないし動けないしっていう全部の動きを止められた状態だったけど。あんたがわたしを抱いて「羽衣、羽衣」言ってるのもばっちり』
「わーっ! 羽衣っ!」
 やめてやめて、直接言われるとめっちゃめちゃ照れるっ!
 羽衣は軽く笑ってからふわりと身体を揺らした。
『たぶん、あんたと逢う前もあそこで封印されてたのね、わたし。その辺りは覚えてないんだけれど、でっかい音がしたのだけは覚えてるわ。それで気がついたら海の上で、で、あんたと逢ったわけだから』
「なんで、その封印が解けたんだ?」
 基のもっともな問いかけに、羽衣は少し不服そうに鼻を鳴らす音を立てた。
『あんたも覚えてるでしょ。七月最後の日の夕立』
「あかねが来る前の日のか?」
『そう。あれで、落雷があったんでしょうね』
 あの祠だ。そう言えばちょっと黒くなっていたのを思い出す。落雷の跡、だったんだ。
『そのせいで祠の力が解けたんでしょうね。言霊の力はもともと随分弱まっていたから、結果封印が全て解けた。そしてあかね、あんたに逢ったのよ』
 あの日、あたしの顔に覆い被さって来た羽衣は、それまでずっと彷徨っていたんだ。きっと、天女を探して。何百年だか何千年だかの封印を逃れて、きっとどうしてもツクヨに逢いたくて、あたしと偶然出逢って――
 急に哀しくなってきた。きっと羽衣はあの時、すごく不安だったはずだ。哀しかったはずだ。なのにあたしは、羽衣の話をちゃんと聞いてあげた自信がない。聞いてあげれば良かった。
 ふいに、左手がぎゅっと握られた。基だ。また、あたしが凹んだことに気付いたらしい。ちょっとだけ苦笑して、顔を上げた。
「羽衣。逢ったの、あたしで良かった?」
『ええ』
皮肉を言われるかと思ったけど、羽衣はあっさり頷いた。なんだか少し、気恥ずかしい。
『あんたで良かったと思うわよ。まあそれで――昨日ね。夏祭りのとき、あんたたちと離れてすぐ、若菜が青太のところに連れて行ってくれたわ。それが失敗だったわね。さっきも言ったけど、イサゴの術はその子孫がわたしを見かけることをきっかけとしていた。だからそのとき、青太の中にイサゴが降りたったのよ』
 それで青ちゃん羽衣を連れて行ったんだ。あの場所に再び羽衣を封印するために。
 なんだか哀しいパズルみたいに、全てがするする嵌っていく。
「羽衣」
『なぁに』
「あたし雷嫌いだけど。でも、落雷がきっかけで羽衣に逢えたんなら、それは許す」
 ふいに口をついて出た言葉に、羽衣も基も軽く笑った。刹那、声が響いた。
「まさかそんな理由で解けるとはな」
 もう、驚かない。
 それでも咄嗟に基の手を解いて、空に浮かんでいた羽衣を両手で抱き寄せた。胸元で強く抱きしめて、天女の塚の後ろに回る。基は逆に、あたしたちを庇うみたいに一歩前に出た。
 あたしたちの前には、森を抜けてきたらしい青ちゃんがいた。
 羽衣はあたしの腕の中に収まったまま、またお得意の鼻を鳴らす音を立てる。
『時代が下ったからね。言霊を信じる人間が減れば、言霊そのものも作用しなくなるわ。落雷如きであっさり封印が解けちゃう程度にはね、イサゴ』
 青ちゃんの後ろから、じぃじたちの声が聞こえる。でも、ここにはまだ来そうにない。
「渡せ」
「いや!」
 もう一度、否定を叩きつける。青ちゃんはじりっと一歩踏み出してきた。基が下がる。あたしも下がる。一歩、一歩。羽衣を抱えたまま下がる。でも、駄目だ。いつまでも下がり続けてはいられない。決心して、足の裏に力を篭めた。その足が、ずるりと滑った。
「え――」
 声は、零れただけだった。悲鳴みたいに上がりもしない。ただ判ったのは、足の裏に地面が無かった。急に後ろに引っ張られるみたいに、視界の全てが斜めになった。基の驚いた顔が一瞬見えた。それが消えて、不思議な浮遊感が全身を包んだ。
 落ちてる。
 いつかみたいに言葉が駆け抜けた。思った瞬間、がくんと全身が上に引っ張られた。
「ひゃっ」
『じっとしなさい!』
 叱咤の声が、すぐ耳の傍でした。知らない間に閉じていた瞼をこじ開ける。
 浮いていた。真っ暗な空の中、あたしは浮いていた。羽衣があたしの腕に絡まっている。そのまま、ゆっくり落ちていっている。
 助けてくれたんだ。そのことに、ようやく気付く。
「う」
『あかね、悪いわね』
 呼びかけたあたしを遮って、羽衣は気まずそうに呟いた。
『わたし、あの子と共にないと何か出来る力ってほとんどないのよね』
 一瞬にして、不吉な予感が走る。
「羽衣?」
『だから、ごめんなさい。そろそろ浮くのも限界』
 羽衣の声が耳元でした。その言葉尻に、風を切る音が強く被さった。強烈な落下感。悲鳴を上げる暇もなく――
 あたしの意識は、飛沫みたいに弾けてとんだ。


戻る 目次 進む