第五章  古からの恋文


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 綺麗な人だ。
 最初に思ったのは、そのことだった。真っ白な肌に、艶のある黒い髪が流れるように張り付いている。細く長い指先が、水を掬う。指先から滴り落ちた雫はきらりと輝いた。海だ。海に、その人は浸かっていた。桜の花びらに似た唇がふわりと笑みを象る。その人が視線をずらすのと一緒に、あたしも視線をずらした。彼女の隣、同じように美しい女性が二人、やっぱり同じように白い肌をあらわにして、戯れるように水を掬ってはきらめきの雫を落としてる。
 すうと、何かが溶けた。
 思ったとき、あたしの視界には綺麗な女性が二人いた。
 あれ? と思ったのはほんの一瞬だった。あたしは、その綺麗な人と同じものを見ていた。同じ場所から、同じように物を見ていた。
 二人が海から上がった。砂浜を歩いていく後姿。あたしも慌てて彼女たちについていく。
 お姉さま、待って。
 言葉が漏れた。あたしが言ったみたいな気がしたけど、あたしじゃない。あたしと同じ場所にいて、あたしと同じものを見ているその女性が言ったんだ。言葉は確かじゃない。それと似たことを言った、そういうことだと思う。二人の女性――たぶん、お姉さんが振り返って微笑む。彼女たちは松の木に引っ掛けてあった衣を手に取った。羽衣だ。するりとそれを身に纏うと、二人はくすくす笑いながら舞い上がった。お姉さんたちを見上げて軽く手を振る。
 すぐに行きます。
 言って、微笑んで――
 その瞬間、あたしと同じものを見ていた彼女は、目を瞬いた。呆然としたみたいに空中を見上げている。見上げながら、何かを考えている。それから、白い手を見下ろした。
 私?
 呟いた。その瞬間、あたしは理解した。
 この人、ツクヨだ。きっと、ツクヨだ。今まさに、羽衣をイサゴが隠したんだ。だからきっと、記憶がなくなって、ツクヨは戸惑っている。
 あたしが判っても、ツクヨは判らない。当たり前だけど、呆然としたみたいに海面を見下ろしている。ゆらゆら。ゆらゆら。海面に映る彼女の姿が揺れる。
 おまえ。
 声が、聞こえた。低く通る、男の声。あたしは両手で自分の体を抱いて、勢いよく海に身体を沈めた。裸だったことに、今更ツクヨは気付いたらしい。それから、振り返った。
 イサゴだ。今度はすぐに、気付いた。男の人がそこにいた。手には大きな布袋みたいなものを持っている。あの中。あたしは、直感的に理解した。あの中に、羽衣がいるんだ。でも、ツクヨは気付かない。困惑したようなツクヨの気持ちが、あたしにも伝わってきた。
 イサゴは、何故かちょっと緊張した面持ちで、ツクヨに向かって手を差し出した。
 私の家に来い。
 言葉と同時に、また何かがすうと溶けた気がした。ちょっとだけ怖いような、ちょっとだけ懐かしいような、不思議な感覚だ。それが消えたとき、あたしは笑っていた。
 あたしじゃない。ツクヨだ。微笑んで、目の前の花をつついていた。隣を振り向く。イサゴがいた。目を細めて、微かに笑っている。
 笑って、いた。
 ツクヨは微笑を返してから、また花に向き直った。夕顔だ。
 綺麗に、咲きましたね。
 ツクヨが花を見つめながら微笑む。イサゴが、穏やかに告げた。
 おまえは、花を育てるのが上手いな。
 そうなのでしょうか。
 何も、わからぬか?
 ええ。何も。
 ツクヨが悲しんだ。胸がきゅうとなる。その左手を、イサゴが包みこんだ。あたしもツクヨも驚いて、イサゴの顔を見る。イサゴは少し複雑な顔をして、けれど微かに笑んで、囁いた。
 私の嫁にならぬか。
 また、何かが溶けた。ソーダ水が鼻に抜けるような感覚にも似ている。そう感じたとき、あたしは腕にやわらかいものを抱いていた。
 赤ちゃんだ。赤ちゃんを抱いて、あやしている。あたしの足元には、別に二人の子どもがちょろちょろ動き回っていた。五歳くらいの女の子。それより少し小さそうな男の子。腕に抱いている赤ちゃんは、女の子みたいだ。
 上の女の子が、ぴょんと飛び跳ねた。家の出入り口に向かって走り出す。それを、入ってきた男が抱き上げた。イサゴだ。
 ととさま、おかえりなさい!
 うん、ただいま。
 上の女の子を抱いて、イサゴが笑った。屈託のない、優しい顔だった。ふいに、あたしは父さんを思い出す。おんなじだ。父さんがあたしの頭を撫でるときに見せる顔と、同じだった。
 その笑顔が、あたしに向けられる。ツクヨも微笑んだ。ただ、その微笑を見た後、何故かイサゴは悲しい顔になった。
 調子はどうだ?
 ご心配なく。今日はわりと良いのです。
 そのやりとりで、ツクヨの体調があんまり良くないことを、あたしは理解した。なんとなく、あたし自身も身体が重い気がする。上の女の子を片手に抱いて、もう片手で下で跳ねていた男の子も抱いて、イサゴがあたしに近寄ってきた。そっと、イサゴの頭がツクヨの肩に乗った。
 あなた?
 無理はするな。
 はい。
 私はおまえを、失いたくない。
 胸が熱くなる。ツクヨは愛しい気持ちを抱いている。そのまま、微笑んでいる。
 私はどこにも行きません。
 行く当てなんて、ないから――続くツクヨの胸の中の言葉に、あたしはひどく狼狽した。だってそれは、嘘だ。だってツクヨには羽衣がいる。ただ忘れているだけで、羽衣もいるしお姉さんもいる。行く当ては、ある。天に帰る場所がある。そのことを、イサゴは隠しているだけだ。言ってあげたかった。ツクヨに言いたいけど、通じるはずがない。また、何かが溶けた。
 子どもたちが何かを持っていた。ツクヨは、そう思ったみたいだ。でもあたしは、そんな曖昧じゃなくてすぐに判った。羽衣。さっきは五歳くらいだった女の子は、今は十歳くらいになっていて、もうひとり、五歳くらいの女の子がその子につきまとっていた。ほんの数瞬前、腕の中にいた赤ちゃんだ。二人が、羽衣を持っていた。羽衣を持って、こそこそ家を出ようとしている。あたしは――というよりツクヨは、二人を呼び止めた。
 どこへ行くの。
 女の子たちは一瞬びくりとしてから振り向いて、そしてにこっと笑った。
 お山へ行くのです。
 その衣は?
 ととさまが、天井の裏に隠してたのです。
 わっ、ばか、言っちゃだめ!
 小さい女の子の口を、お姉ちゃんのほうが慌てて塞ぐ。ツクヨは首を傾げてから、小さく笑った。隠していたものを勝手に見つけ出したことを、ツクヨは叱らなかった。ツクヨ自身不思議に感じていたみたいだけど、あたしはなんとなく判る。どこかでそれが自分にとって大切なものだって、ツクヨは感づいていたんだろう。三人で、蕗山に上がった。夜だった。月明かりが、怖いくらい明るい。あたしが知っているそこより、山はずっと深かった。子どもたちは月明かりの下、羽衣を纏って舞い始めた。
 綺麗だった。
 子ども特有の細い腕がするりと伸びて、しなやかにふたつの身体が跳ねる。羽衣がひらり、ひらりと風に舞う。そして月明かりに照らされてきらりと七色に輝く。プリズムみたいな七色の光は、地面に七色の影を作った。ひらり。ふわり。するり。きらり。
 あたしはただただ見惚れてしまっていたけれど、同時に胸の中にちくんと傷む何かを覚えた。あたしじゃない。ツクヨの感情だ。心臓が急にどきどきしだす。ツクヨが軽く手を胸に当てた。ツクヨの感情が、あたし自身を呑み込みそうだった。何だろう、これ。懐かしいような、苦しいような、淋しいような、愛しいような、焦りのような。不思議な気持ちに、ツクヨは子どもたちに声を掛けた。あたし自身の心臓が、どきんと跳ねた気がした。ツクヨが、二人に言う。
 それを少し貸して頂戴。
 子どもたちは二人揃ってにこりと笑って、羽衣を手渡してきた。触れた。びりっと痺れが指先を襲う。さっきの不思議な気持ちがぎゅうっと濃くなった。ツクヨはどこか急くように羽衣を身体に纏った。
 弾けた。
 世界が弾けるように、手足が伸び、身体が動いた。舞だ。それをあたしは、見ていた。いつの間にか、ツクヨの視線で物を見ていた状態から外れて、ツクヨの舞を傍で見ていた。ぞっとする。寒気がするほど――綺麗だった。
 そしてその瞬間、さっきまでの不思議な気持ちが全く違った色になっていた。頭の中に、いくつもの光が瞬いた。ヘイケボタルの、あの光に似ている。それはツクヨの記憶の断片だって、あたしは何とか理解した。理解したそのときには、ツクヨの身体は月光の中、空へと浮かび上がっていた。羽衣が七色に反射する。帰ろうと、している。天に――帰ろうと――
 かかさま!
 泣き声が、聞こえた。次の瞬間、ツクヨの身体がびくんと跳ねた。月を見上げ、美しい目を見開き、唇を震わせる。躊躇うような、長い、長い、永遠にも似た一瞬。
 かかさま!
 また女の子たちが叫んだ。ツクヨの目から涙が溢れた。盛り上がった涙は幾筋も幾筋も頬を滑っていく。月の雫みたいに見えた。そして、ツクヨの身体は地に降りて、二人の子どもを抱きしめていた。
 帰らなかったんだ。
 帰る筈だったその瞬間、伝承の上では帰ったことになっているその瞬間、ツクヨを呼び止めたのは子どもたちの、ただ淋しいだけの叫びだったんだ。
 月光に照らされた事実を目の当たりにして、あたしはただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。そして、気付いた。隣。視線。振り返った。ツクヨたちは、気付いていない。
 男の子が、見ていた。
 二番目の子どもだ。青白い月明かりのせいだけとは思えない蒼白の顔で、抱き合って嗚咽を上げる三人を見ていた。ただ見ていた。その目がどこか淋しそうで、その目にはどこか怯えが見えた気がした。
 また、すうっと溶けていく。
 羽衣を見つめていた。ツクヨが羽衣を見つめていた。聞きなれた、あの声がした。羽衣の声。
 貴女のお好きになさい。
 ツクヨの顔が歪む。美しい顔が、歪んでいる。羽衣は笑うようにふわりと身体を震わせる。
 わたしは貴女の衣よ。貴女の望むように、全てを受け入れましょう。
 天に帰らなくても?
 それを貴女が望むのなら。
 羽衣の言葉に、ツクヨは泣きはじめた。羽衣を抱きしめて、声も上げずに泣いていた。こっちまで哀しくなる涙だった。やがて涙が枯れた頃、ツクヨは子どもたちを呼んだ。
 一番上の女の子。二番目に生まれた男の子。末の女の子。三人を前にして、泣き腫らした目で微笑んだ。あたしは何故か三人の隣にいるような感じで、ツクヨの顔を見つめていた。
 大事なお話があるの。
 ツクヨが言った。羽衣を膝に抱えていた。
 かかさまは、この地上の人間ではありません。今まで、この羽衣が傍になくて記憶の全てを失っていたけれど、私は天に住む女です。
 子どもたちは何も言わず、ただ真剣にお母さんの――ツクヨの言葉を聞いていた。
 私は、本来なら天に帰るべきなのです。この地上は、美しくはない。私には、少し辛い。それでもこの衣さえあれば、私はここで生きていけます。
 ツクヨの指が、羽衣に触れる。
 逆に、この衣がなければ私は生きていけません。天と私を繋ぐ唯一の、そして絶対の存在であり、私自身の命でもあります。私はこの衣を手放すわけにはいきません。地上に残るなら、なおさら。
 羽衣を見つめ、そしてツクヨは微笑んだ。
 この地に残るのは、私にとって辛いことが多い。けれど、私はここに残ることを決めました。
 子どもたちが、驚いたように身を震わせる。
 かかさま。
 はい。かかさまは、ここにいます。あなたたちの傍を、離れることは出来ません。
 ――子どもたちの、ためだったんだ。
 見つめながら、胸が痛くなった。羽衣は何も言わない。女の子二人が、また、泣いた。
 男の子は――睨むような目で、羽衣を、見ていた。
 ツクヨはその目に気付かなかった。軽く目を閉じていたから。ツクヨのまぶたが持ち上げられたとき、男の子は唇を噛んで俯いていた。
 ツクヨは、すっと息を吸って、そして告げた。
 私はこれから、ととさまにお話しなければなりません。この衣のことも、これからのことも。そうして、もしかしたら、ととさまはこの衣をまた隠してしまうかもしれません。
 一番上の女の子がぱっと顔を上げた。
 そしたらかかさまは!
 いいのです。
 微笑んで、ツクヨが遮った。女の子は呆然としてる。あたしもだ。なにが、いいの。
 いいのですよ。大丈夫です。きっとそうはならないと、私は信じます。
 どうして?
 私は、あの方を愛しています。
 単純な、それだけの言葉。気恥ずかしくなってあたしは俯いた。でも同時に、哀しくなった。
 信じているんじゃない。信じていたいんだ。信じていたかったんだ。
 ツクヨはもう全て判ってる。羽衣を盗んだのがイサゴだってことも、羽衣を隠されていたせいで自分の身体が弱っていたことも、判っていながら、それでも、子どもたちを、イサゴを、好きでいる。だから、信じたかったんだ。羽衣を見つけたことをイサゴに告げても、イサゴは再びそれを取り返そうと、そして隠そうとはしないと、信じたいんだ。
 それでも。
 ツクヨは少し淋しそうな顔をしている。ツクヨの、たぶん女としての部分は、イサゴを全面的に信じたいんだろう。でも羽衣があるから。羽衣のこともツクヨはとても大切に思ってるはずだから。天人として、ツクヨとして、羽衣が心配なんだ。そしてツクヨは天女だから。天人で、でも、女だったから。間で迷って、悩んで、傷ついていた。
 ツクヨがその哀しい微笑のまま、三人に告げた。
 願っても良いですか。
 子どもたちが、ぼんやりとツクヨを見つめる。一番上の女の子に、ツクヨは微笑んだ。
 あなたには、私が死した後のことを。命あるもの、いつかは絶えます。この地上では、必ずそうなります。天人である私も、それを避けることは出来ません。だから、願いましょう。この地で私が果てたとき、私をこの土地で一番天に近い場所へ、眠らせてください。
 男の子に、ツクヨは微笑んだ。
 あなたには、もしもの願いを。もしもこの衣が、再び私の手を離れたなら。私が死した後でも構いません。必ず私の傍に置いてください。でないとこの衣までも、地上にて迷うことになってしまいますから。命尽き、再び御魂となり天に帰るとき、わたしの命の一部であるこの衣が迷わなくてもいいように願いましょう。私の元にこの衣を置いてください。
 末の女の子に、ツクヨは微笑んだ。
 あなたには、ふたつ。全ての始まりのあの松を見守り続けてください。そして、全てを覚えていてください。時は流れ、命は果て、再生を繰り返し、いつか真実は朝霧の如く薄れていってしまうでしょう。それでも、願いましょう。全ての始まりと、真実が後々まで息づくように。
 これは少しのまじないと、愚かな母の願いです。どうか、聞いてください。
 そう告げて――ツクヨは、三人の前を去っていった。
 イサゴに逢いに行った。
 すぐに、判ってしまった。あたしはどうすることも出来なくて、ただなんだか無性に泣きたかった。何故かは判らない。だけど判っちゃった。ツクヨはきっと全部は言わなかった。羽衣のことを見つけた。きっとそれしか言わなかった。だって、信じてるから。信じたいから。
 気付くとあたしの手の中に羽衣がいた。どうしてなのかは判らない。ただ、あたしに抱えられて羽衣はそこにいた。そっと持ち上げて、顔を埋める。羽衣はひんやりして冷たくて、少し、海の匂いがした。
「羽衣、ツクヨ、あの後」
『……ええ』小さな声で、羽衣は頷いた。
『言わなかった。わたしがないとあの子自身が長く生きられないことを、あの子は何も言わなかった。ただ、わたしを見つけたことを。そしてわたしを傍に置いておきたいということを、それだけを言ったの』
「でも、イサゴは羽衣をまた隠しちゃったんだね」
『ええ。……恐れたのでしょうね。わたしがいると、あの子は天を思うから』
 帰ろうと、してしまうんじゃないかって――自分を、子どもたちを置いて、天に行ってしまうのではないのかと。ただ、怖がったんだ。
 その気持ちだって判らないわけじゃない。好きな人と離れるのは、やっぱり怖いから。でも、哀しい。信じてあげて欲しかったって思うのは、あたしのエゴなんだろうか。それとも、好きだからこそその分、怖くなっちゃったんだろうか。
 羽衣を顔から離す。まだ子どもたちはそこにいた。不安そうに出入り口を仰ぐ女の子たちとは別に、男の子はひとり、俯いている。
「あの子は……お母さんの、ツクヨの願い事、叶えなかったんだね?」
『そう。二の子――都築の先祖にあたるあの子は、イサゴと同じ。わたしを恐れていたの』
「羽衣を?」
『わたしを纏ってあの子が一度天に帰ろうとしたとき、二の子はそれを見ていた。でも、言い出せないまま――抱きしめてももらえないままだった。きっと、怖かったのよ。イサゴはその恐れを見抜いたわ。だから、二の子を利用した。わたしを封印してその場所を守る権利を――義務を二の子に伝えた。それから自分の一部を二の子に宿した。自分が先に死んだ後でも、ツクヨが天に帰らないように』
 もしも羽衣を見かけるようなことがあったら、自分が再び封印するために。
 ただ、ツクヨをこの地上に残したいがための願いだ。そのせいで羽衣は地上で迷うことになって、ツクヨが残した願い事――羽衣を傍に置いておきたいという事も叶わなかった。ツクヨの傍にあれば、羽衣はきっとツクヨが死んだ後でも、ツクヨと共に天に帰ることは出来たのに。ツクヨの、羽衣に対する思いは叶えられなかったんだ。
 まぶたを閉じた。俯く男の子が淋しい。それを見ているのが、ただ辛くて。目を閉じて、羽衣をまた抱きしめた。羽衣もほんの僅かに、震えているみたいだった。
「羽衣……ツクヨ、もしかして二の子のことは」
『……気付いていたのかもしれないわね。二の子のことも、この後イサゴが二の子にとった対応も、考えてはいたのかもしれないわ』
 それでも。ツクヨはイサゴを信じたんだ……。
 上のお姉ちゃん――一の子は、お母さんが死んだ後墓を作った。ツクヨの願いどおり、この島の一番高いところへ。下の女の子――三の子は、あの松と真実を守り続けた。
 ただひとつだけ、もしもの願いだけが、叶えられないまま時は過ぎていったんだ。
 声が聞こえた。やわらかな楽器みたいな声音。羽衣を抱きしめるあたしの耳に、直接届いた。

 信じて欲しかった。私はあなたを愛していると。天に帰らないと。
 信じて欲しかった。子どもにも、イサゴにも、信じて欲しかったのに。
 だから、もし。もしこの記憶が解かれることがあるのなら、それは私の望む結果ではないけれど、もしもそういう日が来るのなら――伝えて――

 胸が痛くなる願いの言葉。ずっと封じられてきた記憶の欠片。
 それを、聞きながら――あたしはただ、ぼんやり、思った。
 ツクヨも同じだったんだ。思いをすべて、口にしなかった。ツクヨもイサゴも、言葉にしなくて、気付いてくれると、信じてくれると願うだけで、それで結局すれ違って、ずっと、ずっと哀しい思いだけが残って――全部、ただのすれ違いだったのに。
 全部ただの、すれ違いだったのに。


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