第五章  古からの恋文


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「――あかねっ」
 闇の中で、あたしを呼ぶ声がした。身体が小さく跳ねた。その衝撃で、あたしは目を開けた。
 薄闇が広がっている。背中が痛い。鼻腔に押し寄せる、むっとするような潮の匂い。瞬きを、一度、二度。それでようやく誰かが覗き込んでいることに気付いた。誰? 判らなくて、もう一度瞬きをした。薄闇の中定まらなかった視点が合う。
 少し細面の難しい顔した男の子。濡れた髪が張り付いていた。
「も……とい」
 上体を少しだけ持ち上げて呟いた。その途端、硬い腕に抱き寄せられた。強く、抱きしめられる。濡れた素肌の胸が、あたしの顔に当たった。確かな体温を感じる。どっどっどっと早打つ鼓動の音が聞こえた。基はあたしの身体を強く抱きしめる。耳のすぐ傍に、熱い息がかかった。苛立ったような、早口の声。
「もーっ、もーっ、ああもうっ! お前はあ、滑るし転ぶし落ちるし、何考えてんだ馬鹿っ」
 怒鳴られた。み、耳が痛くて、でも基はあたしを放さなかった。低い声が、耳にかかる。
「死ぬかと思った」
「……ごめん」
 小さく息を吐いて、謝る。相当心配かけたのは、間違いないことだろうから。
「羽衣は?」
『ここよ』
 問いかけに答える声があった。視線だけ動かして見てみると、傍の地面に羽衣は濡れた状態で広がっていた。その先端を、あたしはぎゅうっと握り締めていたようだ。ほっと息をつくと同時に羽衣がふわりと舞い上がってあたしの肩に被さった。
「良かった」
『ええ。あんたもね』
 羽衣が素直にそう言うからなんだかどう反応していいのかも判らない。曖昧に頷いてあたしは顔をあげた。……基の顔が、すぐ傍にある。近すぎ……ます。
「あの、基? もう平気だよ。そのなんていうか……放してくれても大丈夫、なんだ、けど」
「やだ」
 即答された。え……やだって言われましたけど。ええと。混乱するあたしを無視して、基がぎゅっとさらに強く抱きしめる。うわ、うわ、うわ。やばいやばい恥ずかしいんですけどっ!
「もとっ、もとい……!」
「俺がどれだけびびったと思ってんだよ……ホントに、すげぇ慌てて」
 苦々しくうめくような基の声に、ふふっと羽衣の笑い声が被さった。
『基に感謝なさい。あんたが気を失ってから、とりあえず波間で浮遊するしか出来なかったわたしとあんたをここに連れてきたの、基なんだから』
「え、え、羽衣、あのええとっ。まずここってどこかなぁっ?」
 しっかり抱きしめられちゃっててまともにまわりも見えないし、なんか頭がくらくらしてて考えられない。基が低い声で「昼間きた洞窟」と呟いた。――あ、そっか。コタマ山の頂上が見えたんだから、そこから落ちたら当然ここになるわけだ。いや、ええと。それは判った、けどっ! この状況って普通に恥ずかしすぎなんですけど……っ!
 内心パニックになってるあたしに構わず、基は相変わらず腕は解かないまま羽衣と話してる。
「覚えてたのか、お前」
『ぼんやりね。わたしもすぐ意識途切れちゃったけど。結構早かったけど山下りてきたの?』
「さすがに崖から飛び降りたら死ぬだろ」
『だわね。都築の子は?』
「悪いが殴った」
『あらー。気絶する前にその辺も見たかったわねぇ』
 ……布が気絶するメカニズムってどんなだろ。
 若干気にはなるけど、まぁそれはいい。青ちゃんが気の毒ではあるけど、それもまぁ後でフォローしよう。ともかく、基が助けてくれたらしい。そしてこの様子を見るからに……抱きしめられてる胸がものすごくドキドキしているのも感じるし、いや普通にあたしのドキドキも混じってる気がするけどそれはともかく、やっぱりめちゃめちゃ心配かけたみたいだ。
 ふ、と少しだけ力を抜いてみた。基の胸にもたれてみる。
 ……おっきいな。おっきい身体だ。濡れてるけど冷たくなくてあったかい。なんかすごく安心して、そのままそっと囁いてみる。
「基、ありがと」
「……そりゃ」
 ぼそりと呟きが聞こえて、またぎゅっと強く抱きしめられて。耳元に、熱い息がかかった。
「好きな女が落ちたら助けるだろ」
 ……え?
 一瞬呑み込めなくて思わず顔を上げた。基と目が合う。いつも切れ長の基の目が合った瞬間ぱっと見開かれて――同時にがばっと身体が離された。基がこっちに背を向ける。
 え……? ええ?
 背を向けたままの基の耳が後ろからでもはっきり判るほど赤い。
 え、え? あれ、あれ、ちょっ、ちょっと待って!? 今基なんて言った!? なんかとんでもないこと言わなかった!?
 ――好きな、女……?
 ようやく意味が飲み込めたと同時に、かぁっと顔が熱くなった。うわ、うわ、うわあっ、ちょっと待ってーっ!?
『あら。面白い。この洞窟ってタコが二匹もいたのねぇ』
 ほっぺた押さえて俯いたあたしの頭の上から、羽衣のからかうような声が聞こえてくる。
『基ももうちょっと場所とか空気とか考えなさいよ。色気のない男ね』
「……うるせぇ」
 布に説教されて基が呻いてる。そっと視線をやると、なんかちょっと不機嫌そうにも見える赤い顔で、基がこっちを見てた。
「え、えと」
「……とりあえず、あとでいいか」
「そっ、そうしよっかっ、ねっ」
 アハハ、とあたしも慌てて笑顔で応じる。混乱してるあたしを見かねたのか、羽衣がふっと小さく笑う。その声で、あたしははっと思い出した。慌てて羽衣に向き直る。
「羽衣、今の夢。羽衣が見せたの?」
『そうとも言えるし、違うとも言えるわ』
 曖昧な羽衣の言葉に、あたしは月明かりに浮かびあがる羽衣に向かって首を傾げた。羽衣はふわりと浮き上がり、月光に身体を照らされながら言った。
『あの子が、残してくれたもの』
「――ツクヨ、が?」
『ええ』と羽衣は頷いてするりとあたしの肩に巻きついてきた。
『わたし、勘違いしてたのね。あんたたちがわたしの声を聞いているのは、あの子の子孫だからだとばかり思ってた』
「違う……の?」
『見たでしょ。あの子の子どもたちにはわたしの声は聞こえていなかったの。だからこれはきっと、あの子が残したもの。言霊の力』
 言霊の……力。
「羽衣! それって」
『ええ。あの子はわたしに言葉を伝える力を残した。そして記憶もいつかは戻るようにと……そう、あの子の血を受け継ぐものが天に舞うことをきっかけとした術も残してくれた』
 舞う……そう、か。あの時。崖から落ちたとき一瞬羽衣があたしを抱えて浮いてくれた。舞うには程遠い状態ではあったけどあれがきっと『きっかけ』だったんだ。
 羽衣を纏って子ども――あるいは子孫――が舞うことをきっかけとして、あの夢の形をしたツクヨの記憶が解かれたってことなんだろう。だとしたら、それはたぶん――
「じゃあ、あの後日談、羽衣に対するメッセージだったんだね」
 しかし夕顔の咲くころ、天女は、母を思い舞を舞う子どもたちの元に降りてきた。
 瀬戸にだけ伝わっていた天女伝説の『後日談』。真実を伝えるようにと母の願いを聞き届けた瀬戸の先祖が、真実ではない後日談を大事に残していたのなら、そこにはきっと意味があるはずだ。そしてそれはたぶん、二の子のせいで叶えられなかった母の願いを、せめてもの形で残したものだ。いつか、羽衣を見つけてそれを纏って舞えば、母の記憶が降りてくると――そう、知っていたから。
『あの子は……わたしを、捨てたんじゃないのね』
「捨てたわけないよ。だったらこんなの残さないでしょ?」
 小さく微笑んで、浮かぶ羽衣をもう一度抱き寄せて訊く。
「記憶は?」
『降りたわ。あの子のことも、過去のことも、天のことも、全てね』
「そっか。……良かったね、羽衣」
 言いながら、あたしは自分の口調が沈んでいることに気付いていた。だって、だって記憶が戻ったってことは。
 きっと羽衣はツクヨと一緒に天に帰っちゃうんだから――
「あかね」基がそっと顔を覗きこんでくる。
「どうした。何の話だ?」
 ああ、そっか。基はあの夢見てないから。羽衣を抱きしめたまま、あたしは小さく笑った。
「ちゃんと言わなきゃ、伝わらないこともあるんだってこと」
 それは、若菜があたしに言った言葉だ。そして、ツクヨが出来なかったことでもある。あの最後の言葉が、まだ内耳でこだましている。そしてツクヨは、羽衣に力を残してくれた。言葉を伝える、力。だったらあたしたちがしなきゃいけないのは、ひとつ。
「ねぇ羽衣。ツクヨの言葉、あたしが伝えていいの?」
『好きになさいな』
 羽衣の答えに軽く頷く。それから、基を見上げた。
「基、あのね」
 言いかけて――あたしは首を小さく左右に振った。恥ずかしいから、じゃなくて。今はまずやらなきゃいけないことが残っているから。
「やっぱおあずけ。全部終わったら、言うね」
 あたしが終わったら何を言うのか。基は判ってるのか判ってないのか、小さく苦笑して。
 それからぽんとあたしの頭を叩いた。


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