第六章  世界で一番綺麗な場所で


戻る 目次 進む


 東の空がほんのり明るくなっていく。
 東雲しののめというのよ。羽衣が言った。

 まだ朝焼けには辿り着かない時間。あたしたちは浜辺を歩いていた。
 あたしたち。あたし、基、それから羽衣。若菜ちゃんもハナも、じぃじもばぁばも大島さんも、まだ眠っているはずの時間。嵯孤海岸を、ゆっくり並んで歩いていく。夏の朝が明けるのは早い。それでも、まだ朝焼けには時間はある。手を繋いで、何も言わず、目覚め始めている海の色を横目に歩いていく。しばらくして、コタマ山に差し掛かった。何も言わず、歩いていく。山の中は涼しくて、まだセミの声もしない。あと少し。もう少しすれば騒々しいセミの鳴き声に包まれるはずの山の中を、今は静寂を切るようにあたしたちの足音が響いていく。
 山を登り終えて、天女塚に辿り着いた頃には、ほんのり、橙の光が東の空を暖めていた。
 ツクヨが望んだように、この場所は島で一番高いところらしい。少し視線をずらせば、蕗山も見えるし、何より眼下には目覚め始めた海が広がっていた。
 天女塚の傍に座り、海を眺める。天高く、今宵最後の星が消え入ろうとしている。
 暫く、静かなままだった。
 夜通し羽衣と語り合って、ほんのり朝がやってくる頃、初めてあたしから基の部屋に合図を送った。基はすぐに顔を出してくれて、三人でここまで歩いてきた。
 静寂を破ったのは、あたしからだった。
「羽衣、基。昨日はありがとう。それから……ごめんなさい」
 あたしの言葉に、羽衣も基も一瞬だけ黙り込んだ。すぐに、隣の基が覗き込んでくる。
「あかね?」
「無茶、言ったからさ」
 あたしは基の視線を感じながら、それでも海を見つめ続けていた。風がほとんど吹いていない今、海は静かに凪いでいて、波間が時々きらりと反射する。遠く、海鳥の声も聞こえる。
「基と羽衣と若菜たちと……皆と一緒にここにいたいって言ったの、嘘じゃないよ。でも、たぶんホントは……違ったんだ」
 少し戸惑うように、基が身じろぎするのが判った。海から視線を外し、基を見上げる。すぐ傍にある基の顔は、戸惑いの表情を貼り付けていた。初めて逢ったときから比べると、随分口数も増えたし、たぶんずっと、距離も近い。そう思う彼に小さく笑いかける。
「昨日さ。あたしがここにいたいって言ったとき、基、何も言ってくれなかったでしょ?」
「あかね、俺は」
 何かを言い掛けた基の唇に、そっと人差し指を当てて。それから、またあたしは笑った。
「でもね。一晩中羽衣と話して、気付いたんだ」
 羽衣が、あたしの肩の上で少しだけぽんと跳ねた。大丈夫? そう言ってるみたいな動きに、なんだかおかしくて勝手に笑みが漏れた。肩にかかった羽衣に、そっと手をやる。平気だよ。そう言うみたいに。
「あたし、羽衣と一緒だったの。たんに向こうに、神奈川に帰るの、怖かっただけなの。基の傍にいたいって、この島に住みたいって、それももちろん本心だけど、でもホントは、ただ向こうに帰るのが怖かった」
 そこまで一息で言って、あたしはゆっくり息を吸い込んだ。潮の匂いと、朝が始まる前の土の匂いと、深い緑の湿った匂い。全部が交じり合ったそれを胸いっぱいに吸い込んで――肺に、溜めて。そして、言った。
「――あたし、不登校なの。ゴールデンウィーク明けてから、一度もガッコ、行ってない」
 遠い遠い海を見る。横浜の港と繋がっているはずの海は、けれどあの場所の澱みなんて知らないでただ純粋に透き通っている。それが今は、優しくて痛い。けれどその痛みから目を離さないように、あたしは隣からの視線を、肩に乗る羽衣の微かな動きを感じながら、続けた。
「明るくて、元気で、強気で、頼りになって。あたし、母さんからも友だちからも、いつの間にかそんな風に言われるようになってた。別にそれがヤだったわけじゃないよ。頼りにされるのも、なんだかちょっと誇らしくて嬉しがってた。最初はね」
 小学校のときから、クラスでも中心になって騒ぐタイプだった。女子の不満をまとめて男子と取っ組み合いの喧嘩をしたこともある。中学では生徒会長もやったし、いつのまにかクラスの女の子の相談役みたいにもなっていた。先生からの評価も悪くなかったけど、だからってがちがちの優等生をやるんじゃなくて、こっそりばれないように羽目を外すこともいっぱいあって、だからクラスメイトたちからも煙たがれなくてすんだ。たぶんその辺は器用だったんだと思う。周りが自分をどう見るか、それをちゃんと判ってて、そう見られるために動いていた。自分の気持ちと自分の行動に距離があって、いつでも自分をどこか遠くから見ているところがあって、だから上手く立ち回れたけど――それがいつからかちょっとずつ重荷になっていった。
 その重荷に自分で気付いたのは、高校に入ってすぐの時だった。中学みたいに、小学校の流れであたしを知っている人は少なくて、だから余計に自分を作るのに意識しなきゃいけなくなっていた。同中の子に学級委員に推薦されたとき、高校からのクラスメイトがどう反応するかとちょっとだけ怖くて、でも断れなくて――結局上手く立ち回ることは、出来たのだけど。
 ただ、どうしようもなく疲れ始めていた。
 誰だって陰口くらい叩くし、叩かれる。あたしだけが例外なワケじゃない。そう判っていても、風の噂で流れてくるあたしに対しての評価――優等生だとか、その割りに遊んでるとか、八方美人とか、色々だ――に、気付かない振りして笑っているのもちょっと、辛くなってきて。
「だから、そうあろうとしたよ。強気で、元気で、明るくて、頼りになる高槻あかねでいようとした。ずっとね。でもなんかそうしてるうちに、ちょっと疲れてきたんだよね。自分を作るのがなんだか面倒くさくなって、作らないままの自分ってどれよとか考えちゃって、なんだか色々ヤになって、もういいやって一回休んだらもう駄目だった。ずるずる、休みっぱなしでね」
 基も羽衣も、何も言わない。何も言わないで、ただ、あたしの言葉を聞いてくれている。波や梢の音と一緒に、聞いてくれている。
「休み始めてしばらくは、皆心配してメールくれたよ。ただ、何て返せばいいか判んなかった。だって皆が知ってるあたしって、悩まない、泣かない、強い、頼りになる高槻あかね、でしょ。そうじゃない、本当はただ臆病で強がりなだけのあたしがメール返すのは、なんか嘘みたいな気がして、返せなかった。ずっと返せなくて、そしたらメールも途切れた。ああ、なんだ、あたしが作ってきたあたしって、こんな程度だったのかなぁってぼんやり思って」
 夏休みの一ヶ月だけ、ばぁばとじぃじのところに行ってみたらどうだ?
 今思えば、父さんが発したあの一言は、あたしにとって奇跡みたいなものだったんだ。
「でもここに来て、無理しないでいられたんだ。羽衣や若菜ちゃんとはしゃいだり、ばぁばたちの料理とか仕事とか手伝ったり、基と、一緒にいたり。そういうの、すごく楽しかったし、基は泣き方教えてくれたりしたし……すごく、楽だった。居心地良くて。そしたらさ、ホントに帰るの怖くなったんだよね」
 海がゆらゆら揺らいでいる。昨日のデネブみたいに、白く揺らいでいる。
「向こうに帰れば、また悩まない、泣かない、強気で頼りになる明るい高槻あかねをやんなきゃいけないから。別にそれ自体は、たぶん、出来なくはないと思うよ。ただ、しんどいね。それにあたし、休んじゃったから。今度はたぶん、不登校の女子ってレッテルも貼られるよ。皆はたぶんそのことには触れないようにしてくれるんだと思う。でも、それに触れないようにして今まで通りのあたしをやっていくのは、ちょっと、たぶん相当苦しいと思う」
 向こうでは泣けない。意地っ張りな性格が作り上げたあたしの居場所、神奈川では泣けやしない。父さんや母さんの前でも、クラスの子たちの前でも、泣いたりなんか出来ない。
 ここが、嵯孤島だから。羽衣がいて、基がいて、皆がいるから。海を見ながら、あたしは今、泣いているけれど。同じ海でも、横浜の海を見て泣けるかどうかは、あんまり自信がない。どんなに辛くても、涙は呑み込んでしまう気がする。
「だからさ。その息苦しさを思い出して、ここの呼吸の楽さを知って、そしたら……怖くて、帰りたくなかった。居心地の良いこの島に、ずっといたかった」
 涙が、零れ落ちた。海と同じ味のする水滴が、頬を滑っていく感触。拭うことも出来ず、ただ風に乾いていくのを肌で感じながら、橙に照らされて白く輝く、眩しい海を見つめる。
 鼻の奥がつんと沁みた。
「……でもそれ、単なる逃げなんだよね。あたし、そんな自分も誤魔化してた。基のこと……言い訳みたいに、使ってた。でも、羽衣は違った」
 その言葉に、羽衣がはじめて反応した。布の端をぴょこんと持ち上げて、何? と言うように傾げている。その羽衣を、そっと撫でた。
「羽衣、すごいよね。怖いからって素直に言ったこと、ホントにすごいって、思った」
 泣きながら小さく笑う。無理をして、じゃない。本当に小さく、だけど自然に笑いが漏れた。
「基、気付いてたんでしょ? あたしが単に逃げてるだけだって。だからあの時、答えなかったんだよね?」
 隣で、基が小さく身じろぎするのが判った。たぶん、いつもみたいに、少しだけ困ったように微笑んでいるんだろう。顔を見ることは、まだちょっと恥ずかしくて出来なくて、それでも基に触れていたくて、あたしはそっと基の肩に頭を預けた。
 基の体温が伝わってくる。硬い骨を頬に感じて、あたしはそっとまぶたを下ろした。
「あたし、ちゃんと帰るよ」
 口に出してみれば、意外とその言葉はあっさりしていた。それでも言っておきたかったのは、たぶん自分が一番聞いておきたかったから。言葉には力があるって信じているから、信じられる今だから、言って、自分の耳に届けたかったんだ。
 基は何も言わない。何も言わないで、ただあたしの言葉を待っている。そっと、髪を梳いていく指先の動きだけを、感じた。
「ここの居心地の良さに浸かってるだけじゃなくて、ちゃんと自分で作ってみる。自分が自分でいられる場所。弱い高槻あかねもちゃんといられる場所。向こうでも作ってみせる。苦しいとか辛いとか、呑み込むだけじゃなくてちゃんと言えるようにする。心の中だけで気付いてって叫ぶだけじゃなくて、本音ちゃんと言うようにする。最初は怖いし難しいかもしれないけど、ここで知ったこと、基や若菜ちゃんや羽衣に教えてもらったこと、ちゃんと活かせるように」
 ちゃんと言わなきゃ伝わらないって。
 そのことをあたしは、知ったから。若菜ちゃんに言われて、基たちとこの島でひと夏を過ごして、ツクヨの哀しい恋を見届けて――あたしの全部で、知ったから。
 逃げるだけじゃなくて、神奈川でも、作ってみようと思う。作れるかどうかは、正直あんまり自信はないけど、だからって逃げていたって意味がない。せっかく、知ったことだから。この島が好きになれたから。この島に来て、得られたものだから。
 大切に、したいから。
 あたしの思いの全部を伝えるには、あたしの言葉はちょっと拙くて頼りない。でも、基はそっとあたしの頭を撫でてくれた。伝わったのだって、思った。
「頑張りすぎんなよ」
 心配するような言葉に小さく笑う。大丈夫。だってこの島に基がいるから。いつかきっと、横浜の海を見て涙を流せる日も来るはずだから。目を開けて。基を見上げて。ゆっくり、笑う。
「頑張りすぎて疲れたら、逢いに来ていい?」
「そういうのは宿提供する時雨さんに訊け」
「判ってるよ。そうじゃなくて」
 言い掛けたあたしを、今度は基が遮った。こつんと、軽く頭を小突かれる。そして耳元に、低い声がかかった。
「いつでも、待ってるから」
 ――うん。ありがとう。
 基がちゃんとそう言ってくれたことが、嬉しかった。
 海が綺麗だ。眩しすぎて直接見られないほど、綺麗だった。
 ツクヨも見ているんだろうか。この景色を、見ているんだろうか。この場所で眠ってここからこの景色を、見ているんだろうか。
『ねぇ、お二人さん』
 ふいに、羽衣が囁いた。基の肩から顔を上げて、あたしは自分の肩にかかった羽衣を見下ろす。羽衣はふわりとあたしの身体を離れて空中で停止した。あたしと基を見下ろして、軽く身体を振って、笑った。
『飛んでみない?』
「え?」
『空よ、空。今なら二人くらいなら訳ないわ』
 天女塚の上に舞い上がりながら羽衣が笑う。朝焼けに染まり始めた空を背に、七色に光る天女の羽衣は――息が詰まるくらい、綺麗だった。
『綺麗よ。朝焼けの海って。真っ赤に染まって、すごく綺麗。空から眺める朝焼けの海も、なかなかオツなものよ』


戻る 目次 進む