第六章  世界で一番綺麗な場所で


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 地面がふわりと遠ざかっていく。頼りなくて不安定な感覚に、最初は頭がくらくらした。基の身体にしがみついた。地面がぐんぐん、遠ざかっていく。天女塚が足元に見えた。森の木々がざあっと面白いくらい遠ざかっていく。朝日が目に痛い。風が耳元でごうっと唸っていた。崖の下には、昨日落っこちた海がある。それも遠くなっていく。遠くなっていく。
「う……わ」
 思わず声が漏れた。鳥肌が立った。怖いわけじゃない。寒いわけじゃない。ただあんまりに綺麗で、鳥肌が立ってしまった。基があたしの腕を強く掴んでいる。羽衣はそんなあたしたちを抱いたまま、まだまだとばかりに上へ、上へとあがっていく。
 嵯孤島が、茜色に染まっていた。
 東の空。海と空の狭間に顔を出した真っ赤な太陽が、全てを茜色に染め上げている。海は起きて、白い波間をきらきらと照り返している。眼下遠い嵯孤島は、おもちゃみたいだった。緑色の葉が、島全体を覆っている。その中にぽつり、ぽつり、赤茶けた家の屋根屋根がかくれんぼに失敗した子どもみたいに顔を覗かせていた。
「桔梗亭、あれだ」
「うん。その隣が俺んちだな」
 ばぁばもじぃじも大島さんも、ハナも若菜ちゃんも基の両親も、そこにいるんだろう。島はまだ完全には目覚めていない。でも、もうすぐ目を覚ます。目を覚まして、今日を過ごし始める。蕗山が見えた。子どもたちが舞った山。コタマ山も朝焼けに染まっている。あの麓には基と青ちゃんの通った学校もあって、どれかははっきり判別できないけど、青ちゃんの家も神社もある。その全てが――海に浮かんだ宝石みたいにきらきらしてて。
 きっとこの中で、また誰かが誰かを思って、そうやって生きていくんだろう。何百年だか何千年だか前に、ツクヨがイサゴを思ったように。イサゴがツクヨを思ったように。その頃とはきっと随分島の景色は変わっているはずだけど、でも変わらないきらきらしたものが、ここにはきっと閉じ込められている。
 その全てが――茜色に今、染まっている。
「きれい」
 呟くと、涙が零れてきた。何でかは判らないけど、嬉しくて、優しくて、涙がぽろぽろ、零れてきた。風に負けないように、あたしは羽衣を見上げて叫んだ。
「羽衣。ありがとう!」
 羽衣はまた微かに笑った。そして、急に高度を落とし始めた。海に向かって、ぐんぐん、降りていく。眩しい。いくつもいくつもきらきらした光が目を射抜いてきて、あたしは目を細めた。海の匂いが、鼻の奥に沁み込んでくる。
『あかね』
「なに?」
 あたしの声に、羽衣は答えなかった。また身体を震わせて軽やかに笑って。そして。
 何の前触れもなく唐突に――
 あたしたちを、放した。
「う……いいいいいぃぃぃっ!?」
 悲鳴なのか呼びかけなのか。
 自分でもよく判らない叫びが喉から漏れた。重力を全身に感じて、そう思ったときには何かに殴られたみたいに身体に衝撃が走って、視界は全部一瞬白に染まった。ごぼりと、耳の奥で音がする。腕を強く掴まれた。既視感。この島に来た日の夕方を、思い出した。そしてあの日と同じように、強い腕が引っ張り上げてくれて、あたしは思いっきり肺に空気を吸い込んだ。
「けほっ……うう」
「だ……大丈夫、か?」
 問いかけにあたしはなんとか頷いた。目を開けると、基はあたしを抱えた状態で浮いていた。
「――羽衣っ!」
 何度か咳き込んでから、あたしは怒鳴って顔を上げた。
 わがままで人使いの荒い天女の羽衣は、とんでもない悪戯をしてもなお軽やかに笑っていた。
 目覚め始めた青空に浮いて、くすくすと笑っていた。
「降りてきなさいよ、バカ! 何すんのっ!? 一歩間違えば真面目に死ぬよ、これ!?」
「悪戯にしては度が過ぎてる」
 怒鳴るあたしに、むすっとした基に、けれど羽衣は笑いを抑えようとはしなかった。しばらく笑って、あたしたちの伸ばす指先で器用にふわふわ舞ってから――すっと笑いを引っ込めた。
 波間で浮かぶあたしたちを見下ろして、ゆっくり、言った。
『あかね。わたし、あんたに負けたくないの』
「……羽衣?」
『だから、わたしも戻るわ。あの子を連れて、天に』
 それは、あたしがついさっき言ったみたいに、ひどくあっさりした言葉で。言葉が脳に届いて理解するまでにほんの少し、時間が掛かった。
『ねぇ、あかね。どうしてわたしが今になってあんたたち二人も抱えた状態で飛べたと思う?』
 確かにそうだった。羽衣はあたしひとりでさえちゃんと浮かべられなかったはずなのに。
 だったら、どうして今は出来るの――?
 羽衣は呆然と見上げるあたしたちの指先から、少しずつ、少しずつ、遠ざかっていく。
 遠ざかりながら、何か吹っ切れたみたいに、鮮やかな声で笑って言った。
『正直、まだ怖いわ。でもね、あんた見てたらなんとなく思ったのよ』
 七色に光る布は、ふわふわ、遠ざかっていく。
『あの子も、散々悩んだのかもしれないなってね』
「羽衣」
 震える声で呟くと、羽衣はすうっと動きを止めた。遠ざからないままで、けれど手を伸ばしても届かないところで、あたしを見下ろしている。
 布に表情なんてない。でも、なんとなく羽衣が微笑んでいるのが見えた気がした。
 ――違う。それは……見えた気がしたんじゃない。
 見える。
 浮かぶ羽衣に重なるみたいに、あの夢で見たツクヨの姿が――はっきり、見えた。微笑んで、あたしたちを見下ろしている。羽衣と一緒に、そこにいる――!
『わたしにとってもここは居心地良かったけど、あんたがそれに甘えないって言うなら、わたしも甘えない。ちゃんとこの子と一緒に天に行って、この子の言葉で、この子の思いを聞いて、わたしも淋しかったんだぞって言ってやるの』
 羽衣の言葉にツクヨがほんのりと笑った気がした。
 かえ……るんだ。天に。ツクヨと一緒に羽衣は天に、帰るんだ。
 最初から判ってたはずだ。羽衣の願いから始まった夏だったから。どうしてもあの子に逢いたいって言葉から始まった夏だから。判っていたのに。叶えられて、羽衣の願いもツクヨの思いも叶って、それは幸せなことなはずなのに。どうして――どうして、涙が出てくるの。
 羽衣はいつもみたいに、ふわりと身体を振った。
 羽衣はいつもみたいに、あっけらかんと言った。
『あかね。ありがとう。基もね。若菜たちにも、よろしく伝えてちょうだい』
 羽衣がまた、遠ざかっていく。羽衣とツクヨが遠ざかっていく。
 朝に覆われ始めた青い空へ、ぐんぐん、上っていく。天へ。天へ。天へ。
『楽しかった。あんたたちに逢えて、良かったわ』
 その言葉を最後に、羽衣の姿は一気に空へ上がっていった。朝日に溶けて、見えなくなる。何も、誰も、見えなくなる。
 待ってって言いたかった。行かないでって叫びたかった。
 でもそれは、やっちゃいけないことだ。友だち、だから。
 羽衣のことを友だちだって思うから。わがままで人使いの荒かった布だけど、でも大切な友だちだって思うから。その羽衣が、自分で決意したことだから。あたしが、この島を離れるのを決めたみたいに、羽衣が決めたことだから。
 だから、あたしに出来ることは、ひとつだった。
「いってらっしゃい」
 さよならを叫ぶのでも、別れたくないと叫ぶのでもなくて。
 出来るだけ、いつもみたいに。いつも通りに。あたしは笑って、言った。
 まぶたを閉じた。目がひどく、熱かった。あたしの頭を、後ろから基が抱えた。大きな手が、顔を覆う。その手は濡れてひんやりとしていた。その冷たさを感じながら、呟いた。
「もとい」
「ん」
「あのね。……大好き、だよ」
 大切な、大切な言葉。それをようやく告げて、基を振り返る。大好きな人が、微笑んでいる。
 基の手が頬にかかってきた。目を閉じる。心臓が、どきどきしている。唇に何かが触れた。
 やさしくて、あたたかくて、ちょっとだけしょっぱい――
 初めてのキスだった。


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