エピローグ  八月最後の朝


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 正午の便と嘘をついた。本当は、朝一番のスクールボートでこの島を出る。
 嘘をついたのは、単純な理由。
 絶対、泣くと思ったから。

「意地っ張りだねぇ」
 あたしの荷物を手渡してくれたばぁばは、どこか呆れたように苦笑した。隣でじぃじがみっともないくらい泣いていたけど、なんだかちょっと嬉しかった。
「ちょっとはマシになったんだよ、これでも」
 少し前までなら、きっと泣くから逢いたくないなんてことも、恥ずかしくて言えなかっただろうから。
 ばぁばはそんなあたしに気付いていたのか、小さく笑って、それ以上何も言わなかった。
「あかねぇ、またすんぐ来らんしょな。すげねぇなぁ」
「じぃじにはばぁばがいるじゃん」
「きょうちゃんはずっと一番だけんども、あかねも同じくらい好きだっべっ!」
 じぃじのきっぱりした物言いに、あたしもばぁばも大きく笑った。
「じゃあ、また来るね。大島さんにも、よろしくって伝えてね」
「あの人、正午の便だと思って起きて来るだろうからねぇ。怒るよ、きっと」
 困った顔で笑うばぁばに、小さく笑いを返して。
 あたしはスクールボートに乗り込んだ。朝一といっても、羽衣が天に帰った日ほど早いわけじゃない。空はすっかり青く染まっていて、今日も嵯孤島は暑くなりそうだった。
 スクールボートが港から離れていく。手すりによって、あたしは大きく手を振った。じぃじとばぁばの姿も遠くなる。
 一月過ごした、大好きな島が遠くなっていく。
 風が吹いている。前髪を揺らす潮風を、あたしは絶対忘れない。潮の匂いが満ちている。鼻に抜ける匂いを、あたしは絶対忘れない。太陽が輝いている。肌を焼いていく夏の陽射しを、あたしは絶対忘れない。
「淋しくなっちゃうねぇ」
 船頭さんが運転しながら笑って言った。少し振り返って、あたしも軽く笑った。
「うん。でもまた絶対来るから」
「そっか。じゃあ、しばしのお別れか」
 いい人だ。この島に住む人は、誰もがきっとちょっとのんびりしてて、優しい。そのことも、あたしは絶対忘れない。
 あかね!
 声が、聞こえた気がした。目を閉じて、思わず笑った。この一月、毎日聞いていた大好きな人の声。スクールボートのモーター音に紛れてその幻聴を聞いちゃうくらい、あたしは淋しがっているらしい。この声も、絶対、絶対、忘れない。
 あかねちゃーん!
 愛らしい、声がした。目を開けた。若菜ちゃんの声だ。
「あかねちゃぁんっ!」
 ――違う! 幻聴じゃない!
 びっくりして、あたしは慌てて身を乗り出した。港はもう随分遠くて、人の姿なんて見えない。なのに、何で声が聞こえるの――?
「右だ。灯台のほう!」
 船頭さんがちょっとだけ興奮したみたいに叫んだ。あたしは反射的に、スクールボートの右側――あたしにとっては左側に駆け寄った。手すりの一番下に足をかけて、身を乗り出す。風が、あたしの顔をばさばさと殴りつけていった。
 見えた。
 岬側――灯台のあたりは、ほんの少しだけ島から飛び出している。その場所を、自転車が三台、並んで走っていた。
 先頭は、基とその後ろに乗った若菜ちゃん。その後ろに青ちゃんがいて、最後にちょっと遅れて大島さんとハナがいた。
 なんで、とか。どうして、とか。その組み合わせどうなの、とか。
 色々思うところはあったはずなのに、あたしは一瞬呆然としてしまって、何も言えずに皆を見ていた。さすがに顔まではっきり見えるわけじゃない。そこまで近くはない距離で、でも確かに、基たちだってはっきりと、判った。
 見つめるあたしの視線の先で、先頭の自転車がいきなり横倒しになった。転んだ。びっくりする。だ、大丈夫なのかな。思っていると、後ろの自転車も止まった。ハナも。そしてすぐにふたつの身体が起き上がった。
 目が――合った。
 倒れた自転車の陰から身体を持ち上げた基と、目が、合った気がした。
 それは気のせいだったのかもしれない。だって、そんなにはっきり判るほどの距離じゃない。でも、確かに、合ったんだと思った。スクールボートは、ゆっくりだけど確実に島を離れていく。基たちも遠ざかっていく。目が合った基は、なんだかちょっと拗ねていた。その顔が、おかしくて。あたしはたまらず、笑っていた。
 羽衣、羽衣、ねぇ見てる? あの面倒くさがりが、あんな必死だよ。あんなに、必死になってくれてるよ。それってちょっと、すごいよね。
 ひとしきり、笑って。いつの間にか船頭さんも一緒に笑っていて。あたしはもう一度身を乗り出した。
 基。若菜ちゃん。青ちゃん。ハナ。大島さん。
 嘘、ついちゃってごめんなさい。
 でも、すごく、嬉しいよ。皆に逢えて、本当に良かった。
 潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んで。
 あたしは大きく手を振って、大きく大きく、叫んだ。
「若菜ちゃんっ、青ちゃん、ハナ、大島さんも、また来るからね!」
 それから、これは取っておきの言葉。離れてしまう前に、もう一度。
 大切な、大切な言葉を――叫んだ。
 拗ねたようにむすっとしている、基に向かって。
「もといー! 大好きだよーっ!」
 海を越えて、スクールボートから、あの岬まで。絶対届いたあたしの言葉に、基の目が丸くなるのがはっきり判って――すぐにそれは、子どもみたいな笑顔に変わった。
 皆の姿が遠ざかっていく。若菜ちゃんが大きく手を振っている。ハナが尻尾を振っている。大島さんも手を振っている。青ちゃんは何故だか基を蹴っ飛ばしていて、じゃれあうみたいな楽しそうな姿が遠ざかっていく。皆の姿が遠ざかっていく。でも、あたしは、絶対全てを、忘れない。
 この島で出逢ったあのおしゃべりな羽衣のことも、絶対絶対、忘れない。

 大好きな人と、大好きな島と、大好きな友だちに別れを告げて。
 そうして、あたしの十五の夏は終わりを告げた。





おしゃべりな御伽草紙
――Fin.


ひとこと

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