第四話

 正直、その時の醍醐潤の顔といったら笑えるほど情けなかっただろう。ぽかんと口を開いたまま、顔をあげていた。傘がやさしく、さされていた。一人の女の子の手によって。
「……ゆい、子」
「はい。お寒いでしょう? この近くに美味しいケーキやさんがありますのよ」
 行きましょう、と何気ない口ぶりで言うと、彼女はこちらの手をとった。呆然としたまま立ち上がる。ゆい子が手を引いてくれたまま、歩き出す。
 一瞬自分の姿が不安になった。だけど、彼女が言ったとおりすぐ近くにあったカフェに入る直前、ドアガラスに映ったのは間違いなく醍醐潤の姿だった。
 いちごのミルフィーユとカフェオレをふたつずつ。
 あたたかいカフェオレが、指先を溶かしていく。すこしほっとした時、ゆい子が微笑みながら口を開いた。
「驚かせてしまってすみません」
「あ……いや……」
 どう答えればいいのか、判らなくて言葉に詰まる。醍醐潤。大庭めぐ。ふたつの感情が、ぐるぐるしている。
「すこし……昔話をしていいですか?」
 ゆい子さんがそっと目を細めた。
「ゆい子と潤さまがまだ、ちいさかった頃のお話です」
 ――小学校に入るか、入らないかの頃だった。そう、ゆい子は話し始めた。
 その頃から、潤さまは潤さまだった、らしい。つまりはほとんど他に興味を示さない子。生まれ持った性格なのか、環境の中で培われた性格なのかは判らないけれど、その年頃にしてはずいぶん冷めていたらしい。ただ、それはゆい子も同じだったという。どうしても、家柄を教えこまれて育つとある程度は仕方ありませんね、と彼女は笑った。
 そんな時、近所でひとりの女の子と仲良くなったという。
「元気な子でした。わがままで、明るくて、いたずらもたくさんしていました。ゆい子たちとは全く違っていましたの」
 いちごのミルフィーユがすこしずつ崩れていく。重なって、崩れていく。
「彼女は、あそこに住んでました。ひまわり園に」
「――え」
「めぐさん、とおっしゃいます。大庭めぐさん」
 ミルフィーユが崩れる。
「彼女とゆい子たちが仲良く遊べたのは、ほんのすこしの間だけでした。めぐさんはご両親はいらっしゃいませんでしたが、お祖父様とお祖母様の家に引き取られたそうです」
 懐かしそうに、カフェオレを飲んで。
 甘いミルフィーユをやさしく崩しながら。
 ゆい子はひとつひとつ、大切そうに言葉を紡いでいく。
「それから暫くして、潤さまがお一人で外に出ることが多くなりました。ゆい子はお訊ねしてみたんです。どちらにいかれてらしたのですか、って」
「……なんて、答えた?」
 記憶にない。その記憶がどっちのものかも、あやしいけれど。
 ゆい子はくすり、と声を立てて笑った。
「めぐと遊んでいた、って」
「え……?」
「もちろん、めぐさんがどちらにいかれたのかなんて、ゆい子たちには判らないことです。でも、潤さまはおっしゃいました。めぐと遊んでた。めぐと話してた、と」
 よく判らない。そのはずだった。
 でも、なんとなく、胸の奥がちくちくしている。ちいさくて、ちょこまか動く人影が、見える気がする。
 それは――どちらの、記憶?
「憧れでした」
 ゆい子さんが、すっと手を出してきた。カフェオレのカップと一緒に、こちらの手を包み込む。
「ゆい子も潤さまも、どうしても醍醐と御影の名前がつきまといますものね。彼女は、自由でしたの。何にも縛られず、誰にも邪魔されず、自由で、明るくて、無鉄砲でした。彼女はお金やご家族は持ってらっしゃらなかった。でも、それは彼女にとって何の枷でもなかったんです。……少なくとも、当時のゆい子たちの目には、そう見えたんですの」
 顔が熱い。
 こみ上げてきた何かが、指先をしびれさせながら零れていく。
「いつからか、ゆい子は気づいていましたの。潤さまのおっしゃられるめぐさんは、潤さまの中にいらっしゃるって」

 ――パチン。

 何かが、胸の奥ではじけた音がした。
 いっぱいに膨れ上がった風船みたいに、はじけてとんだ。そしてそれは濁流みたいに押し寄せてきた。
 光。笑顔。青い空。半袖のシャツから伸びる良く陽に焼けた細い腕。くるくる揺れるポニー・テイル。鏡に映るつまらなそうな顔。花。ミルフィーユ。空き缶。そして目の前の彼女の、今も変わらない黒目がちの瞳。
 いろんな画が、匂いが、皮膚感触が、音が、あふれるように押し寄せてくる。
 稲妻が、視界の中を走る。違う。それは稲妻ではない。衝撃だ。衝撃が、光のように見えただけ。
 迫ってくる、車の姿と――

「しばらく、お逢いしてませんでしたけれど。気づいていましたのよ。ここにいらっしゃるのが、潤さまではなくてめぐさんだって」

 跳ねられた痛みと――

「遅くなりましたけれど」

 その時感じた絶望感――

「おひさしぶりですね、めぐさん。お元気でしたか?」

 その絶望感は、ある種の開放感を伴っていたんだ――

 ぼろぼろ、と涙がこぼれていく。ゆい子はそのまま、笑顔を咲かせた。
「落ち着いたら、また、潤さまともお話させてくださいませ。おふたりとも、ゆい子の大切なご友人ですの」
 やさしい言葉とカフェオレと、崩れたミルフィーユ。
 全てが冷えた体をあたためてくれて。
「ゆい子……ありがとう」
 搾り出された声に、ゆい子はぱちぱち、と瞬きをした。軽く、頷く。
「はい。……潤さま」
 ――そして俺は、俺であること受け入れた。

◇

 外に出ると、雪はすっかり止んでいた。抜けるような青い空が広がっている。
 足元には、確かに引かれたレールがある。それは将来への道だ。おそらくつくであろう政治への道。それから、ゆい子と結婚する未来。決められた世界は息苦しくて、外れることは出来ない。レールを引くのだってずいぶんな苦労がある。それは両親を見て知っている。
 だけど、今ようやく気づいた。
 空に手を伸ばしてみる。
 レールは二次元だ。そして、自分の手は空へ向けられる。三次元へ。
「俺はまだ、何でも出来るな」
 彼女が――大庭めぐがいなくても。
 俺はこの手で、空に手をかざせる。ゆい子と手をつなぐ、反対側の手で。
 未来は、足元にはない。きっと。
 この手の先にあるんだと、その時なんとなく、信じられた。


――Fin.