第一章:夕暮れにて


戻る 目次 進む


 若干驚きながら振り返ると、声の通り少女がそこに立っていた。
 いつの間にそこにいたのだろうか。最初から、ではなかったことは確かだ。ここに上ってきたときにはキャットウォークは当然無人だった。彼自身を除いて、だが。
 小柄な少女だった。年頃としては、匠より三つ四つ、幼いかもしれない。とすると、小学生だろうか。身長にしてもおそらく一四五もないだろう。小さい、というのが最初の感想で、そこから先になると――奇妙、が近いだろうか。そんな感想を抱かざるを得なかった。
 癖のあるボブカット。両腕に抱えている何やら大量の荷物。体格に似合わない、薄汚れた大きなシャツに、ショートパンツ。シャツから伸びる腕もショートパンツから伸びる足も、形容詞的には『ガリガリ』がよく似合う。細いのだ。手足に限らず、全体的に細い。薄い、とも言えるかも知れない。その細い足の先、足元には何もない。靴下も、靴も。サンダルなどの類も何もなく、ただ、素足。素足のままキャットウォークを踏みしめている。
「何?」
 凝視しすぎたか。少女が怪訝そうな顔で呟きを発する。あるいは胡散臭そうな顔。どちらでも大差はない。顔立ちは平凡で、取り立てて可愛いわけでも不細工なわけでもなかった。ただ、特筆するべきところがあるとすれば瞳だ。色素が薄いのかやや茶色の濃い瞳は大きく、なによりも意志が強そうだった。意志が強いということはあれだ。頑固。我が強い。強気で勝気。あとは強情といったところか。ちょっと苦手かもしれない。アーモンドみたいな目がくるっと動いてこちらを値踏みする。あまりいい気はしなかったが、お互い様という奴かもしれない。
「ええと」
 アーモンドを喉に詰まらせたみたいな声が漏れて、内心で舌打ちする。それでも何とか続く言葉を喉の奥からひねり出そうとすると、少しだけ喉の奥がひりひりしたような錯覚に襲われた。痛みを無視してとりあえず、うめく。
「城?」
 素っ頓狂な単語が漏れたな、と感じてからそれが彼女が先ほど口にした単語をなぞったのだと理解する。彼女は会話が出来る相手だと理解すればそれでいいとでも思ったのか、あっさりこちらから目を離すと両手に大量の荷物を抱えたまま移動を始めた。ぺたぺたと、素足特有の軽い音を立てて、匠が腰を下ろしている場所の正反対側にまわる。そこに荷物をとさりと置くと、そのまま吹き抜けを挟んだ場所から声を張り上げて答えてくる。
「そうだよ。あたしのお城」
 移動するのが面倒くさいのだろうか。制服のボタンをひとつ外しながらなんとなくそんなことを考える。彼女はすでにこちらを見てもいない。さくさくと荷物を解いて整理を始めている。どうやら先ほど作業中の荷物と判断したあの荷物たちは彼女の所有物らしい。その小柄な姿を振り返る体勢のまま背中越しに見やり、続く言葉を探した。城。この建築物未満が、城?
 いまいち思考がまともに働かなくて、匠はばれないように嘆息を漏らした。視線を彼女から離して、再び前を見据える。外は変わらず、夕暮れが迫り始める色をしていた。どうしようか、と考える。城。少女。吹き抜け。夕暮れ。素足に荷物に建築物未満。存在と認識。夜と闇。不安と孤独。美咲台にN.Yニュー・ヨーク。ガリガリ。時と詐欺師。空。アーモンド。自由。ギャング。生と死。それから、キャットウォーク。
 取り留めない単語が浮かんでは消えて、ようやく匠は口を開いた。背中越しに、訊ねる。
「こんなところで、何してるんだ?」
「生きてるの」
 ――アーモンドが喉に詰まるかと思った。
 匠は一瞬喉を押さえて、それから小さく頭を振った。超能力者でもない限り、彼女が匠の心を読んだのでもない限り、ばれるはずがないのだ。いや――と再度頭を振って自らで否定する。
(ばれる、か。こんな場所にいるのだから)
 胸中でうめく。ばれるかも、しれない。こんな場所に来る人間なんてそういないはずだ。だとすれば少しでも想像力のある人間が考えれば、答えはそこに行き着くものかもしれない。だが、それでどうしたというのだろうか。死を選んだことはそもそもの始めから褒められた事でもないのは自覚している。だったら、ばれることを怖がる必要性すら、ない。
 すっと横隔膜を下に落とし、匠は声を漏らした。出来るだけ、平坦な声を意識して。
「ふぅん」
 簡素な相槌。それに彼女が何を思ったのかは推し量ることさえ出来ない。やや熱っぽく浮かされた頭を抱えて、何気ない素振りをして見せようとする。詐欺師になればいい。時間のように詐欺師になればいい。見本はすぐそこで流れている。今だって嘲笑うように一瞬を引き伸ばしているこの詐欺師に、見習えばいい。
「あんたは」
 声はすぐ近くで聞こえた。詐欺師を見習って驚きをかみ殺した。隣を見ると、アーモンドの瞳がじっとこちらに見据えられていた。いつの間に傍に寄ったのだろう。猫か何かが足音を忍ばせて近寄ってきたようなそんな様子を夢想する。
 その瞳と視線が交差する。胸の奥まで見透かされるようなちりっとした痛みが全身を駆けた。
「こんなところに、何をしにきたの?」
 糾弾。あるいは尋問。そんな単語を脳裏に浮かべてしまうような響きだった。少なくとも匠にはそう感じた。声自体にはさほど力強さがあったわけでもないのに。
 一瞬答えに窮し、それからふっと小さく笑みが浮かぶのが判った。どうでもいい。どうでもいいのなら、素直に答えてやればいい。別にこの見ず知らずの少女に咎められるいわれはない。
「死にに来た」
「ふぅん」
 返事は簡素だった。興味なし。そう言わんばかりのあっさりとした答えだった。詐欺師の姉弟子かもしれない。思ったが、違う。彼女はそういう素振りをしているわけではない。心底本気で――興味なし。どうでもいい。そう思ってるに違いなかった。それが証拠に、もはやこちらから視線を外して、反対側へと回っている。反対側の、同じような窓に張り付くようにして外を見ている。あちらは西側――太陽が沈もうとしている、夕焼けの空が見られるはずだ。
 つまり彼女にとって、自分の命より夕焼けのほうが大切だったというわけだ。
 なんとも釈然としない思いを胸中で渦巻かせながら、小柄な背中を見やる。しばらく見つめていると、唐突に彼女が「あ」と声を上げた。何だ、と思って目を見張ると、小柄な体が振り返って問い掛けてくる。
「ねえ。あんたの死体がここで見つかったとしたらさ」
 何の気負いもなくあっさりと言ってくる。死体。あっさりと口にするようなものでもない気がするのだが、どうしようもなくて結局頷く。
「……うん」
「ここって、どうなるかなあ」
「どうなる、って」
 うめく。自殺後のことを考えて聞かせろというのか。それはあまりに無体な要求じゃないのか。人はもう少しこう、思いやりとかそういうものがあってもいいんじゃないのか。
 しかし彼女はこちらの心情などお構いなしといった様子で、見つめる視線を外しもしない。しかたなしに匠はため息を飲み込んだ。ズレた少女との会話に、常識を求めること自体無理だ。
「取り壊し、だろ。たぶん」
「だよ、ねえ」
 匠の言葉に彼女は小さく頷く。こんな場所で死体が発見でもされた日には、放置されたままのこの場所が悪い、と非難されるのは目に見えている。管理会社か市かはよく判らないが、どちらかの責任追及、に発展するだろうし、敷いてはどうあがいても取り壊しの憂き目は逃れられないだろう。そしてこの建物未満は存在を否定される。認識され、存在を得て、その上で否定されて、そして存在を失うだろう。簡単な想像だった。簡単な想像だが、それは自らの死後だと想定すると居心地の悪さはどうあっても否めない。
 しかし彼女はまったくそんな素振りを見せない。汚れた素足のまま、かつんとキャットウォークの縁を蹴り、なにやら考えるように首を傾げている。それから、もう一度頷いてこちらを見つめてきた。意志の強いアーモンドの瞳。薄い唇が、開かれる。
「あんた迷惑だから、死ぬならほかで死んでよ」
 ――絶句。
 あっさりと告げられたその言葉に、思わず匠は言葉を失っていた。一瞬、自らの耳を疑う。耳に障害はない。今だって僅かに残る反響音を確かに捕らえている。だとすれば頭か。疑うのは頭のほうなのか。この場合疑ってかかるべきは自身の頭か、それとも目の前の少女か。いや、どちらでもないのだろう。彼女の顔には至極当たり前の表情しかなかったし、自分の頭がおかしいとは思えなかった。あるいはすでにおかしいのかもしれないが――自殺を考える時点で、だ――まあこの場合、それは正常に値する。だとすれば、おかしいことは何もない。それが証拠に、彼女は押し黙ったこちらを見て、きょとんと目を見開いて首を傾げている。
「どしたの? れ? どーしーたーのー?」
 答えないこちらに疑問を抱いたのか、彼女はひらひらと手のひらを躍らせて間延びした声を上げてくる。目の前の五本の指がひらひら踊るのを見つめてから、まぶたを閉じていったんそれを視界から追い出す。頭の中にひとつの言葉が踊る。世界は俺に優しくない。そしてそんなことはきっと、生まれる前から誰だって知っている真理だ。違うかもしれない。
 何を言うべきかしばらく考えてから、結局一番簡単な方法を選択する。反復。
「迷惑……?」
 うめき声に、彼女はひらひらとさせていた手をぴたりと止めて、こくりと頷いた。毛先の跳ねた髪が風に揺れる。そのままそれこそ猫のような身軽さでキャットウォークに腰をかけると、ぷらぷらと素足で空気をかき混ぜながら答えてくる。
「うん。だって迷惑だよ。あたし、お城無くなったら困るもん。でしょ?」
「でしょって言われても」
 もはやうめく以外の選択肢が思いつかなかった。あんたが死んだらあたしが迷惑でしょ? まさかそんな言葉を吐かれるとは、さすがに匠も思っていなかった。古今東西、自己中心的な人物という輩は、掃いて捨てるか並べて売るほどいるにはいるし、それを匠自身知っているつもりではあったが、しかしここまで徹底的な自己中心的思想の持ち主はさすがにあまり聞かない。いっそ賞賛に値するかもしれない。その賞賛はまあ、賞味期限切れの牛乳を飲み干した人物に与える賞賛とそう変わらない価値ではあるだろうが。
「だから死ぬならほかで死のうよ。そしたらたぶん、あたし幸せだし」
 しかし完全に匠の胸中の葛藤なぞお構いなしで彼女はぺらぺらと喋る。そして彼女の裸足はぷらぷら踊る。ぺらぺら。ぷらぷら。ぺらぺら。ぷらぷら。そんなどうでもいいオノマトペが頭の中で文字になってワルツを踊り始めて――頭を振って文字を追い出す。
「あのさ」
「何?」
「ほかに何か、ないわけ?」
「ほかって?」
 真面目に疑問に思っている。そんな表情で見つめられては、答える言葉も霧散する。それでも霧散したそれらが空気に溶ける前にもう一度かき集めて、何とか形にしてアーモンドの目にぶつけてやる。
「迷惑とか、そういうんじゃなくてさ」
「――止めてもらいたいの?」
 すいっとアーモンドの瞳がスライスされた。違う。彼女が目を細めたのだ。その瞳と、そして凍りつくほど痛い響きを持つ言葉に、匠はぎくりと背を伸ばした。すぐ、真横。深淵を抱くような深い茶色の瞳孔に囚われて動けなくなる。飲み下すはずのアーモンドに呑み込まれそうになりながら、匠は薄く唇を開いた。擦れた声がキャットウォークに反響する。
「違う」
「ンじゃあ問題ないじゃん」
 あっさり手のひらを返すように告げると、彼女はこちらから体を離す。思わず呆然と見上げた匠の視線を気にも留めていない様子で、そのまままたキャットウォークの反対側へと回り、夕焼けの紅に染まり始めた空へと視線を投げた。その小さな背中は赤い光に象られ、きらきらと輝いている。目を細めて、呟く。
「なんで」
「なんでって、だってそれはあんたが決めたことなんでしょ?」
 吹き抜けの向こうから、声を上げて答えてくる。それは気負いも何もない音の響きで、北はどっちだと訊ねられて答えた程度の――そんな当たり前の響きしか、そこにはない。
「あたし、他人が決めた事項に対して反論はしないよ。それが、あたしのルール」


戻る 目次 進む