第二章:シャ・ラ・ラ


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 擦れた声は彼女のシャツの中に染みるように消えていく。彼女の手が叩くのをやめた。そっと抱き寄せられ、匠は彼女の肩に深く顔を沈めた。
「どうして?」
 あの日のように、勝手にすればとは言わなかった。それがこの二週間の結果なのだとしたら、少しだけ嬉しかった。少なくとも理由を訊いて貰える程度には、距離が縮んだのだろうか。
「何もないから」
「ないって、何が?」
「何も。生きる意味も、生きていく意味も、価値もない。俺はたぶん、存在していないから」
 ずっと胸中に溜めていた言葉。誰にも言えず、ただ積もっていった言葉を始めて吐き出していた。生きる意味がないなら、存在の価値がないなら、死んだって同じだ。自分が自分でいられないのなら、掛井匠のままでいられないのなら、生きていたって意味がない。声は呻き程度の音量でしかなかった。けれどそれは、叫びだった。
「だから、死のうとしたの?」
 耳元で呟かれる穏やかな彼女の声に、匠は小さく頷いた。頷くと、ふっと耳元で苦笑が聴こえた。笑ったのだ。ぼんやり顔を上げると、野良猫は穏やか過ぎる苦笑を浮かべていた。
「嘘つき」
 その言葉は予想外で、匠は涙を拭うのも忘れてただ呆けた様に彼女を見上げるしかなかった。その匠の顔を伏せさせるように再度自分の体に押し付けると、彼女は同じ音のまま続けた。
「嘘つき。違うよね。そうじゃない。あたし、判るよ」
 責める響きはない。ただ静かに、キャットウォークに彼女の声が反響する。拝聴者は自分と、堕天使の二人だけだった。
「あんたは自分が生きていることを知って貰いたかったんだ。誰かに知って貰いたかったから死のうとしたんだ。死は大きな事だから。死を周りが認識することで、少なくともその瞬間は確かに存在できるから。死ぬことで周りに自分を認識させたかったんだ。そうでしょう?」
 静かな声音は、確実に胸に刺さった。事実だ。言われて、初めて気付いた。恐らくそれは事実だ。自分でも認めていなかった、本当の意味。あまりに言葉が悪いが、それは世界に対するあてつけに似た行為だ。死ぬことで生きていることを証明したかった。死で生を表現しようとしたのだ。そうすれば騒ぎになるから。騒ぎになれば認識されるから。認識されれば――存在出来るから。一瞬でも、すぐに忘れられてしまうにしても、その一瞬が、欲しかった。浅はか過ぎるほどに浅はかな、馬鹿げた思考。
 否定も肯定も出来ず、匠は静かに彼女の背に手を回した。強く抱き寄せると、濡れた肌は冷たくて、けれど確かにぬくもりもあった。
「あたしが」
 ちびねこは気負いのない口調で、呟く。
「あんたの事、何で覚えてたんだと思う?」
 あの時はぐらかされた答えだ。匠が反応する前に、彼女は続ける。
「似てたんだよね。あんたの目が。なんとなく、シュウさんに逢う前のあたしにさ」
「……嘘つき」
 呟くと軽く頭を叩かれた。その仕草があまりに自然で、何故か少しだけ笑うことが出来た。笑いが体を伝って伝染し、それがまた笑いを生む。微かな振動が心地良かった。
「なぁ」
「ん?」
 呼びかける声は小さくても、彼女はすぐ傍に居る。体の力が抜けて、安堵の息に似た呼吸を漏らしてから、匠は呟いた。
「さっき、怖かった?」
「うん」
「お前でも、怖いことあるの?」
 こんな場所で、一人で暮らすことの出来る野良猫にでも。
 言葉は最後まで続けなかったが、確実に意図は伝わったようだった。もう一度軽く額を小突かれる。
「あるよ。あたし、怖いこといっぱいある。臆病だもん」
「嘘つき」
「さっきからあたしのこと嘘つき呼ばわりばっかだね」
 とくとくと鼓動の音がした。僅かな胸のふくらみの奥に、生きている証を感じる。
「だって、こんなところで生きていられる奴が、臆病なわけないだろ」
「生きてるから、怖いの」
 あっさりとした言葉に、そっと瞳を上げた。アーモンドの瞳がすぐ傍で笑っている。
「あたし、死ぬことは怖くないよ。生きてることのほうがずっと怖い」
「……うん」
 その気持ちは確かに理解できた。雨音と鼓動と、静かに反響する彼女の声の合間に匠は頷いた。ふと、思う――やけに穏やかな気持ちになる理由。雨音は羊水の音に似ているのか。鼓動は母の鼓動に似ているのか。生まれる前の記憶に、繋がっているのだろうか。生まれてくることを、自分は、怖がっていたのだろうか。それとも、望んだのか。
「死ねば、終わりだけど。生きてると終わりはずっと先だから。いろんな怖いものがある」
「それでも、生きてるのは、何で?」
「生きたいから」
 凛と透き通った声音は、建物未満の中を駆け巡る。もう一度瞼を下ろして、匠は囁いた。
「生きている意味がなくちゃ、生きていられない。認識されなきゃ、存在できない」
 うめきが喉の奥を破って出て来た。
「俺には、ない」
 沈黙が落ちた。
 嫌われただろうかと考えるうちに、彼女の指が首に伸びてきた。細く小さな指が、首にかけてあったヘッドフォンに触れる。
「随分濡れちゃったけど、壊れてない?」
 話題を変えられたのだろうか。胃に沈んだ澱みを隠すように、匠は曖昧に笑って見せた。こんな時にでも笑える自分が、滑稽で居た堪れなくなる。それでも指を動かして、ズボンにつけていたプレイヤーの本体を弄る。シャカシャカとヘッドフォンから微かに音が流れ出した。
「平気っぽい」
「ボリューム、上げて?」
 言われるがままに音を上げる。最大音量にすればヘッドフォンから漏れる音だけでも音楽だと判る程度には聴こえた。取り付け式の外部スピーカーは、バッグの中だ。ここにはない。
 少しの間、静かにキャットウォークに音が満ちた。一曲が終わるか終わらないかという時に、ふと彼女が口火を切った。
「生きている意味は、シャ・ラ・ラだよ」
「――え?」
 言われた言葉が判らずに、匠は声を漏らしていた。彼女が、笑う。屈託なく、無邪気に。
「シャ・ラ・ラ。つまり、意味なんてないってこと。元からないものを見つけようたって無理に決まってるじゃん。生きてることに意味なんてない。ただ生きてる。それだけだよ」
 予想だにしていなかった答えに、匠は呆然とした表情を隠す術もなく、ただ彼女を見上げた。
 薄暗いキャットウォーク。堕天使が抱える淡い橙の光の中、彼女の目は緩やかに煌いている。
「人間ってね、本能が壊れた生物なんだって。シュウさんが言ってた」
「本能……?」
「うん」
 彼女は頷くと、そっとこちらの体から手を放した。匠はもう一度壁に背を預けて、首を持ち上げる。立ち上がった彼女は、濡れた素足のままキャットウォークを踏みしめている。伸びをするように体を逸らし、窓の外の雨を、見つめる。
「地球上の生物は、生きている意味を皆最初から知ってる。簡単だよ。子孫繁栄。でも人間はそれを生きる意味とはしない。発情期だってないし、餌だって選り好みする。生物学的に見てもね、人間の存在する理由ってのは曖昧なんだって」
「曖昧」
「そう。他の生物と比べても、あまりに違い過ぎるらしいよ。人間って。ただの動物なのにね」
 彼女の言葉を全て理解出来たわけでもない。納得出来たわけでもない。ただ、そうか、と妙にすとんと胸に落ちた。
「人間は、ただ生きている生物なんだって。だから、色々出来るし、考えられる。最初から意味を与えられていないから、生きていられるんだってあたしは思う。生きている意味なんてね、だから、シャ・ラ・ラ程度でしかないってこと」
 彼女が何故そう言ったのかという事に、その時になってようやく気付いた。ヘッドフォンから漏れる音の中、フィルがシャ・ラ・ラと歌っている。馬鹿馬鹿しくなって、匠は思わず笑っていた。つまり、その程度でしかないということだ。ただ、生きるだけ。
 声を立てて笑うと、彼女が笑っていた。雨音と、シャ・ラ・ラと、笑い声が交じり合って反響する。それが理由もなく優しいことに思えた。
「だから、名前も?」
「うん。名前にも意味はないって思ったから、捨てた」
 彼女の言葉に、匠はそっと微笑を浮かべた。周りに合わせていれば、楽なのは知っている。いつもなら、ここでも同じように頷くだろう。だけどそうしたいとは何故か思わなかった。少しだけ勇気を絞り、口を開く。
「俺は、意味はあるって思う」
「それがあんたの考え?」
「うん。あるって思うのが俺の考え。ないって思うのが、お前の考え」
「そっか。考えの相違だね。そういうのも、好きだよ」
 他者を否定しない。自己の考えがしっかりあった上で、他者の考えも受け入れられる。そんな彼女が、眩しく思えた。言ってよかったと、ほっと息を漏らす。
「存在してるよ、あんた」
 その言葉に目を丸くして見上げると、彼女はいつもの汚れのない笑みを浮かべていた。
「認識されるだけが存在じゃない。他者を認識するって事は、認識をする自己があるって事。あんたはあたしを認識してくれている。だから、あんたは存在している。でしょ?」
 逆転の発想とは、つまりこういう事なのだろうか。ぼんやり考えながら、匠は頷いていた。
「それに、あたしはあんたを認識してる。シュウさんも、たぶんさっきのあの子もね」
 存在している。
 誰かにそう言って貰えるのが、嬉しかった。泣き出しそうな顔のまま、匠は笑った。
「なぁ、ちびねこ」
「何ー?」
 立ち上がって、小さな彼女の頬に手をあてた。真雪にやられた頬は、少し赤くなっている。赤子のような肌触りの頬を撫で、匠は彼女の目を見据えた。
「お前は名前に意味がないって言うけど、俺はあると思う。これは俺の考え。名前にはやっぱり意味があって、必要だと思う」
「うん」
「だから」
 ふっと息を切って、彼女の頬から手を放した。今度は壁ではなくキャットウォーク側に背を預け座り込む。そうすると、窓から外がよく見えた。雨が降りしきる灰色の空は、もう間もなく夜になる。夜が怖いと思うのはきっと、ただ、生きているからだ。死んでいないからだ。
 座り込んだ体勢のまま、匠はそっと手招きをした。きょとんと目を瞬かせた彼女が素直に近寄ってくる。その細い腕を掴んで引っ張ると、「ひゃう」という素っ頓狂な声とともに彼女の体が腕の中に落ちてきた。細く軽い体を抱き寄せて、笑う。
「だから、俺の名前を覚えて欲しい。お前には呼んで貰いたいって思うから」
 何が起きたのか一瞬理解が追いついていなかったのだろう。腕の中で呆然とした表情のまま見上げてくる彼女に、匠は告げた。
「――掛井 匠。オーケイ?」
 こちらを見上げるアーモンドに、ゆっくり理解の色が広がっていって、それは次第に笑みに取って代わられる。
「オーケイ、匠」
 
 その日は帰らなかった。何をするでもなく、ただ、彼女と朝焼けが溶けるまでそこにいた。
 キャットウォークから見つめる朝日は、泣きたくなるほどに美しかった。


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