第三章:娘ざかりのお嬢さん


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 人に好意を持つということは、非常に厄介な事なのだ。匠はしみじみとそう思った。何せ、意識しているわけでもない時でさえ視線が勝手に相手を追う。そうなると、知りたくない部分まで見てしまう。
 相手の癖やら、相手の意識するものまで。つまりは事は単純で――
「ねぇ、シュウさん。描けたよ、これ、どう?」
「あ、出来ましたか。うん、素敵だと思いますよ」
「ホント? ホントに?」
「ええ。この辺りの色の伸び方なんかが、特に私は好きですね」
「へへ、うん、ありがとうっ」
 ――こういう事だ。
 目の前で画用紙を広げて歓談しているシュウと野良猫の二人を見ながら、匠はこっそりため息を押し殺した。気付かなくていいことまで気付いてしまう、とはつまりこういう事なのだろう。自らの描いた絵をシュウに見せてにこにことしている野良猫の横顔は、二日前までならただの無垢な笑みと受け取っていたはずだ。が、あの夜を過ごした後の今となっては、ただの無垢な笑顔ではないと判ってしまう。幸せそうな笑みだ。頬は僅かに上気しているし、シュウに頭を撫でられて目を細めている様は、さながら飼い主に喉を撫でられて喜んでいる猫だ。
 昨日は正直散々だった。
 早朝家に帰ると、母親は泣いていたし、父親には初めて殴られた。望はしきりに誰と過ごしていたのかを聞き出そうとしてきたし、真雪はやっぱり迎えには来なかった。学校に行けば行ったで腫れた頬を見てクラスメイトは騒ぐし、両親から連絡が行っていたらしく教師には呼び出されるし、徹夜のおかげで授業は眠気との戦いだったし、教師が目を光らせていたので眠ることも出来なかった。塾もサボれなくて行く羽目になったし、あまりの眠さに当てられた問いに答えられなくて追加課題は出され、塾に行ったおかげで野良猫とは会えなかった。ぐったりした一日の最後に母親から入ってきた情報は、真雪が学校を休んでいたらしいという事だった。
 そんな一日を何とか終えて、ようやく水曜日になってここに来ることが出来た。野良猫は名前を呼んで迎えてくれたし、シュウはシュウで変わらず穏やかな笑みで迎えてくれた。真雪のことを訊ねると、深くは語らずただ「大丈夫ですよ」と言ってくれた。それはそれで、ありがたいのだが――この状況は、いかんともしがたい。
 噴水脇のベンチに腰を下ろして、目の前で地面に座ったままの二人を見る。学校帰りにこの場所に来たその時は気分も高揚していたのだが、今は太陽と一緒に下降の一途を辿っている。理由は至極単純で、ついでに冗談じゃないと自分で呻きたくなるほどに青臭くて恥ずかしかった。そのくせ暴走する感情をコントロール出来ない事が、さらに青臭さに拍車をかけて、自分で悲しくなってくる。情けない悪循環は一向に終わる気配がなかった。滑稽なのはつい二日前まで死にたいと願っていた自分か、それとも今現在の青臭い悩みに沈んでいる自分か。どっちでもいいが、どっちも嫌だった。誰に知られたわけでもないが、自分にだけは隠せないのがさらに嫌だった。
「何辛気臭い顔してんの?」
 唐突な声に、思わず息を呑む。野良猫が下からこちらを見上げていた。眼前にある無防備な顔に、呑んだ息をそっと漏らす。もともと表情にはあまり出ない性質だから声を上げるとかはしなかったが、驚いたのは事実だ。鼓動が微かに早くなっている。
「別に」
「ふぅん?」
 野良猫が立ち上がり伸びをする。手にした画用紙をくるくると丸めて片手に持つと、そのままこちらを振り返ってきた。
「ねぇ、シュウさんとご飯もらいに行くけど、あんた一緒に来る?」
「もらう?」
「うん。公園の反対側でね、もうすぐ宗教の勧誘みたいな演説があるの。どーっでもいいんだけど、最後まで聞いてたらごはんもらえるんだよ」
「……」
 聞いちゃいけないことを聞いた気がする。
 思わずぐったりと項垂れた匠に、野良猫はきょとんとするだけだ。シュウが困ったように笑いながら、野良猫の頭を撫でていた。
「どうしますか?」
「……行きます」
 半ば自棄になって答え、匠は立ち上がった。気の早い蝉が一、二匹、乾いた空に鳴いている。
 美咲台緑地公園は、いくつもの小さな公園を抱えた複合型総合運動施設だ。ジャングルジムやらアスレチックなどの遊具が置いてある公園から、一面芝生だけの場所、あるいは普段匠がシュウや野良猫と会う場所でもある、噴水を中心に据えた煉瓦造りの公園など、いくつも小さな公園があって、それらが緑の濃い道で繋がっている。春先には花見客で公園中が埋まるが、そうでない時期は広さもあってさほど混んでいない。この近辺の小中学生は、何度か課外授業で来させられたりもするし、夏には地元の祭りと花火大会もあって、つまりは美咲台に住む人間なら多かれ少なかれ、この公園には世話になっているということだ。
 その道を歩きながら、僅かに滲んだ汗を拭う。
「もうすぐ七月だね」
 跳ねる様に前を歩いている野良猫が振り返ってくる。匠は肩をすくめた。
「イコール期末テスト間近、なんだけどな」
「がくせーは大変でーすねー」
「義務教育って言葉知ってるか、お前?」
 野良猫は知らないというように甲高い声を立てて笑う。シュウの腕を取って歩く彼女の後ろ頭を見ながら、問い掛けてみた。
「お前さ、親とか心配してないの? 普段、どうやって生活してるわけ?」
「親、いないもん」
 僅かに棘を含んだ声音で、野良猫が言いながら振り返ってきた。べっと舌を出している。
「いないもん。捨てたから」
「……必要ないから?」
「いらないよ、あんなの」
 切り捨てるように告げると、野良猫はぎゅっとシュウの腕を強く握った。
「シュウさんがいればいいの。あたし、それでいい。それだけで充分」
 ね? と同意を求められたシュウのほうは、曖昧に微笑むだけだ。前を行く二人の姿を見つめて、匠はため息を押し殺す。親のことは地雷だったらしい。が、ため息の理由はそれだけではない。シュウの腕をとって歩く彼女の横顔は、やっぱりどこか幸せそうだ。
 ――シュウさんは、あたしを救ってくれた人なんだよ。
 脳裏に蘇るのは、キャットウォークで一夜を明かした際、彼女が語ってくれた過去の断片だ。苦しくて辛い日が続いていた時に、彼女はシュウと出会ったという。今と同じように、公園で絵を売っていたらしい。そのシュウと出会えたからこそ、彼女は今の自分があると言う。
 その『苦しくて辛い日』を過ごしていた野良猫の姿を想像することがいささか難しいのだが、本人が言うのだから間違いではないのだろう。つまりシュウは彼女にとって恩師に当たるらしい。が――
(……だけじゃない、よなぁ)
 匠は目を細めて彼女を見やりながら、胸中で呟いた。それだけではないだろう。二日前の夜を過ごさなければ、彼女の説明で素直に納得していただろうが、今は判る。僅かに上気した頬。リズムを取るように弾む足取り。ただ無垢な笑顔というよりは、幸せそうなという形容詞が似合う笑み。
 荒唐無稽な話ではあるかもしれない。野良猫は十四。シュウの年齢は正確には判らないが軽く四十は越えているだろう。年齢差もそうだが、中学生がホームレスに、というのも非常識だ。だが、そう思う理性とは別の感情の部位が、だって野良猫だし、という理由になっているようでなっていない言葉を呟いてくる。でも、そういうものなのかもしれない。
 時折こちらを振り返って言葉をかけてくる野良猫と軽口を交わしながら、匠はぼんやり考える。そういうものなのかも、しれない。
 人に好意を持つということが初めてなわけでは無論ない。付き合ったこともあるし、一つ上の先輩と寝たこともある。けれど、その時感じた何かとは別のものが、確かに存在している。別ではあるがそれを分類する言葉を選ぶと、好意に他ならない。自分が野良猫に抱いているもの。野良猫が、恐らくはシュウに抱いているもの。それはきっと、似ている。
「匠くん」
 ふいにシュウに名前を呼ばれ、匠は足を止めた。夏も近いこの時期に,春を思わせる穏やかな笑みを湛えたまま、シュウはこちらを見据えている。
「あの娘の事、嫌わないで下さいね」
「あの娘って……」
「真雪ちゃん、でしたか」
 真雪の名前を出され、匠はふっと瞼をおろした。青空の残影が,瞼の裏に映っている。丸く、そして穏やかなその光は、シュウの言葉とよく似ていた。
「嫌いにはなりません。真雪の性格は、昔から知ってますし」
「そうですか」
 そうして、彼は笑う。
 穏やかに、優しく、透明に。それは彼の描く花の絵が光合成を楽しんで背を伸ばしている様によく似ていた。人の心のうちにあるはずのどろどろとした何かをすっきり浄化しきってしまうような、そんな光。決して小奇麗とは言えない筈の彼から得る印象は,何処までも美しく、透明で、それでいて決して偽者でもうそ臭くもない、清流にも似たものだ。
 敵わないな、と思う。
 この人が野良猫の好きな人なのだ。

◆ ◆ ◆ 

 キチチ、と鳴る小さな音が、少しだけ安堵を呼んで来るような錯覚をいつも覚えていた。百円均一で買った、安っぽいカッターだ。そんなものに頼らざるを得なかったあの頃の自分を、真雪自身滑稽に思っていたし、助けにも安堵にもならないことは知っているつもりだった。それでも、頼った。あの頃はそれにすがっていた。けれど、ここしばらくはしていなかった。一年の頃までは時折続いていたが、それでも半年ほどは全く手をつけていなかった.そうしなくても大丈夫になったんだ、そう、思っていた。
 左手首には二本、赤い線が延びている。
 滲んで流れ出た血の量は、ほとんどないといっていい程度の物だった。その血を舌先でわずかになめとって、真雪はふっと息を吐いた。パジャマのまま、ベッドに横になる。学校は酷い生理痛と偽って休んでいた。いつも生理痛が酷いのは親も知っていたので、嘘だとも気付かなかったようだ。とはいえ、今日で二日目。明日はこの言い訳は利かないだろうと思う。
 痺れるような僅かな痛みが、左手首から断続的に伝わってくる。そんな小さな刺激が生きていることを確かに証明してくれているようだった。
 埃みたいなものだといつも思う。知らないうちに胃の底に溜まっていった澱みは、眠っている間に部屋の隅に積もる埃と同じだ。埃なら掃除機で吸い取って、掃除機が一杯になればその中の物を燃えるゴミの日にでも出せばいいが、体内に蓄積していった澱みはそうもいかない。ただ溜まっていくだけで、そのうち血管まで詰まるのではないかと錯覚する。腕を切るという行為は、それの予防だった。別に死にたいと思っているわけではない。この癖は、いじめられていて、死にたいと願っていたあの頃にはなかったものだ。いじめが収束して、人と上手く付き合うことが表面的には可能になった頃から、やり始めた。うちのお姉ちゃんがこんなことをしている、と沈痛な表情で語るクラスメイトに触発された。姉がどうしてこんなことをするのか解らない、自分には何が出来るんだろう。そう相談されて、口ではその子を慰めた。家に帰って興味半分でカッターを手首に当ててみたら、流れ出た血とともに体の澱みが一瞬外に出て行く感覚を覚えた。中学に入ってからは、いじめられていた過去を忘れさせるほど優等生を演じつづけた。学級委員もやったが、もちろん教師側について生徒側を敵に回すような馬鹿なまねもしなかった。匠のように、そこそこ上手く全てを回していった。その度に、胃の底に澱みは溜まっていって、だから時々こうして澱みを外に出した。掃除機のフィルタを交換するのと同じ程度の意味しか、そこにはない。
 自分にはリストカットがあった。それが良い事だとは無論思ってはいないが、匠よりはましだったのかもしれない。死を選択するほど、澱みが血管を詰まらせていなかった。吐き出すことが出来た。あの彼女も同じだ。ホームレス生活とリストカットは形が違えど、そこにある意味は掃除機のフィルタ交換だ。少なくとも真雪には同じに思えた。何が違うのか、判らない。
 けれど、匠にとっては違うのだ。
 カッターを机において、身を起こす。窓を開けると、斜向かいに掛井家が見えた。夕方とはいえ、まだ日は高い。湿った風が髪を揺らして、泣きたくなった。払われた手が、痛い。
 カッターの傷より、払われただけの手が痛くて、だから少し、泣いた。


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