第三章:娘ざかりのお嬢さん


戻る 目次 進む


 男が、声を荒らげる。叩きつける雨の音に負けない声量で。財布を取り出し、一、二枚札を放り出しているのが見えた。シュウに、それが投げつけられる。
「金があればいいのか。自分のやっていることが判ってるのか、犯罪者と同じだぞ!」
 殴りつけられる罵声に、けれどシュウは緩やかな表情を崩さない。少しだけ、困ったような顔をしているだけだ。投げつけられた紙幣を拾い上げ、男に手渡す。
「お返しします。私はこんなものを望んでいるわけではないのですよ」
「この……っ」
 差し出された紙幣をひったくるように取り上げると、男はシュウに詰め寄る。と、不意にシュウが視線を持ち上げた。
 真雪の位置からだと、シュウがどんな目をしたのかは見えない。けれどその目は確かに、男の足をぴたりと止めた。
「あなたが」
 静かな声だが、それは決して弱い声ではなかった。静かで、けれど自信さえ感じるような、しっかりとした響きだった。
「あなたが彼女の花を枯らさないと約束するのなら、私はすぐにでもあなたに彼女の居場所を教えます。けれどあなたはまだ、彼女の花を蕾のままで摘んでしまいそうなので、教えられないんですよ」
 諭すような言葉遣いは、同年代の男に対するというよりは子供に説き聞かせるようにさえ聞こえた。
「私は、私が何をやっているのかは判っているつもりです。正しい事をしているわけではないだろうという事も、私の現在の状況もです。それでも、これが私の選んだ答えです」
 動けなかった。雨は傘を叩いていて、けれどそのまま突き抜けて身を叩いている気がした。真雪は動けないまま、ただ二人を見据えるしか出来なかった。
「お引き取りください、高峰さん。あの子のことは、私が守りますよ。必ず」
 雨音がこれほどうるさいと感じたことは、真雪にはなかった。暫く二人は視線を混じり合わせていたが、不意に男のほうが踵を返した。怒りを露にしたまま、けれどそれ以上どうしようもないと悟ったかのように、早足で歩き出し、そして。
「北野?」
 すぐにこちらに、気付いた。厳格とも言える目がこちらを見据える。逸らしたかったが、逸らせなかった。逸らし方を知らない。
「高峰先生」
「こんなところで何やってるんだ」
「……部活帰りです。先生の声が、聞こえたから」
 詰問というよりは尋問に思えた。それでも、目を逸らさずに見上げながら答えると、相手から目を逸らした。「早く帰れ」とお決まりの台詞を残し立ち去っていく後ろ姿を暫く見つめ、それからふっと息を吐いた。湿った空気が肺に優しい。
「真雪ちゃん?」
 声をかけられ、真雪はくしゃりと表情を歪めた。安堵の感情が、身を包んでいく。
「驚きました。知り合いなんですか?」
「あ。……先生です。学校の、英語担当の、先生」
「ああ、そうでしたか。真雪ちゃんもミキタの生徒さんでしたね」
 シュウに頷きながら、真雪は頭の中で思い出せる限りのデータを引き出していた。高峰良樹、だったと思う。ESS――英語部の顧問で、一部の生徒からは裏で「よっしー」とか「みねよし」呼ばれていた。が、一度何かの拍子で本人の耳にそれが入って、呼び出しを食らった生徒がいたはずだ。他の若い先生たちが、あだ名呼びを許容しているのに対し、彼はそれを認めない。学年主任で、校則にも煩いせいで、生徒からの人気はあまりない。二学年の英語担当だから、真雪は授業を受けている。が、それだけだ。少なくともその英語教師とシュウとの間になんらかの因果関係を見出すことは出来ない。
 何を言うべきか判らなくて、言うべき言葉を見失う。時間と時間の間に立たされた様な心地悪さを覚えて、真雪は少し身を震わせた。
「場所、移しましょうか。たこ公園なら、土管がありますから。雨避けにはなるでしょう?」
 シュウは何も言わなかった。何も訊ねることもなく、咎めることもなく、歩いている。流されるように後ろを歩きながら、何度も傘の柄を握りなおした。粗末な、ビニール袋で作ったらしいレインコートは、シュウの身を守りきれていない。傘、入りますか? 風邪を引くといけないから。私の傘、結構大きいから。頭の中でそんな台詞がぐるぐる回ったが、結局居もしない誰かの視線を気にして言えなかった。言えない言葉は埃となって体内に積もる。
 土管の中はやはり静かで、それ故に雨音が反響して耳に残った。暫くその音に体を預けてから、ゆっくりと真雪は顔を上げた。
「絵、濡れてませんか?」
 訊ねたいことは沢山あったはずなのに、口をついて出たのはそんなどうでもいいような事だった。シュウは胸に抱えていた画板をはずし、絵を見下ろす。
「ああ。少し濡れてますね。でもまあ、これもいい味ですよ。ほら、こうすればいい」
 濡れて絵の具が滲んだ部分に、太く荒れた指をすいと這わせた。滲んだ青が画用紙の中で擦れ、けれどそれが不思議と粗雑な優しさを湛えている。滲んだ青は、紫と交じり合っていて、小さくて、とても可愛らしく見えた。
「オオイヌノフグリ、ですか?」
「ええ、そうです。小さくて可愛い花ですよね」
 春に咲く小さな小さな青い花だ。真雪ももっと幼い頃はこの花が好きだった。今は、足元に咲くそんな小さな花のことなんて見ることもないけれど。
「でも、オオイヌノフグリってもう咲いてないんじゃないですか?」
「夏ですからねぇ」
 首肯するシュウに、真雪はふっと笑った。自然と、意識するより先に頬が緩んでいた。
「見ないで描いてるんですか、いつも?」
「覚えてる花は、そのイメージで描いちゃうことが多いので、見なくても描けるんですよ。見て描くのも好きなんですが、結局私はいつも、勝手にその花のイメージで描いちゃうので、いまいち写生にはならなくて。だったらまぁ、見ても見なくても一緒かな、なんて」
 教師に言及された生徒のような言い方に、真雪は軽い声を立てて笑っていた。確かにシュウの絵は、どことなく抽象的で見ても見なくても一緒なのかもしれない。
「それに、目で見るものって、正解じゃないですからね」
「正解じゃない?」
「意外と視覚って頼りにならないものでしょう。写生だったら、私より上手な人は美咲台にだって沢山いると思いますし。だったら、その花から私が得たものや感じたもの、そういう何かを絵にしたほうが私も楽しいですし、花だって喜んでると思うんです」
 シュウの絵を覗き込んだら、実物よりずっと大きく描かれたオオイヌノフグリが、そうだよと微笑んでるような気がした。
「私は野草が好きなんです。薔薇ももちろん美しいとは思うのですが、それよりもたんぽぽやオオイヌノフグリのほうが、ずっと綺麗だと思うんです。誰かに断ることもなくただ咲いている花が好きです。お嬢ちゃんはきっと、たんぽぽなんですよね。私たちも、野草でいいんです」
 シュウの言葉の本当の意味まで判ったわけじゃない。けれど何故か胸の奥を見透かされている気がした。
 信じていたものが、崩れていく気がする数日間だった。匠のようになりたいと願っていた。上手く周りに合わせられたらと思っていた。けれどその匠はそのことを疎んじていた。匠を支えたいと思っていた。匠を縛り付けていたのは自分だった。
 自分や匠は、植木鉢に植えられた花だ。狭くて虚像にも似た土の中で根を張って、何とか空を仰ごうとして、誰かに見て貰うために咲こうとしている。けれど、その隣で馬鹿みたいに野太い根を張って咲いているたんぽぽが二つあって、それがシュウとあの子なのだろう。台風の日には中に入れてもらえる植木鉢の花はきっと楽だし、鑑賞に耐えうる物なのだろうけれど、台風の日だって風雨に曝されながらも咲くことをやめないたんぽぽのほうが強い。自分たちはずっと、干渉に耐えうる花を咲かそうとしていたのに、たんぽぽに気付いてしまったんだ。
「薔薇だって、いびつに咲いていいんです。誰かの望むように咲くことを命じられた花だって、いびつに咲いてもその花の持つ美しさは翳りません。私はそういう花が、好きですね」
 いびつに咲く花。いびつに描かれる地上絵。シュウの持つ価値観はきっと、その言葉に全て収縮されるのだろう。それはきっと、あの子も同じで、匠はそんな部分に焦がれているのかも知れない。それらを全てイエスといえるほど、真雪は自分の生きてきた十三年を、信じてきた何かを軽くも見られなかった。それでも、その言葉は不思議と胸の奥で小さく灯った。
 高峰の事は訊きそびれたが、不思議といまさら聞きたいとは思わなかった。

◆ ◆ ◆ 

 二年六組 高峰あずさ
 その書類に書かれた名前を見て、真雪は漏れかけた息を押さえ込んだ。薄っぺらい書類には生徒手帳に貼り付けてあるのと同じ証明写真。きっちり着込んだ制服は、随分幼い面立ちの少女にはいくらか浮いて見えた。生真面目そうに写真の向こうからこちらを見据えている。全体的に色素が薄いらしく、癖のあるボブヘアもやや茶味掛かっていた。そして何より特徴的なのは、自分と全く違うアーモンドのような色と形の、双眸だ。全体から受ける雰囲気などは随分違うが、その瞳だけは違えようもない。
 あの日、あの公園でこちらを睨み上げてきた瞳だった。
「見覚えがあるんだな?」
 鎖のような声に、真雪は何も言えなかった。ただ添付された写真だけをじっと見つめる。
「北野。お前はあのホームレスと知り合いなのか?」
 シュウの事だろう。だが、知り合いなのかどうなのかは真雪にだって判らない。二度ほど話をしたというだけだ。
「ああいった連中は最近増えてきている。確かに不況や何かが関わってるのもあるんだろうが、いいか、北野。先生はな、ああいう連中が好きになれん。逃げてるだけだ。先生はお前たちにあんな連中のような逃げる大人にはなって欲しくないし、関わっても欲しくない。判るな?」
「あの」
 聞きたくなかった。反射的に真雪は声を上げていた。じろりと睨まれるが、その視線をしっかりと受け止めた。自分にやましいことがあるわけじゃない。だったら、視線を逸らす必要なんてない。ただ、一言声を発したあとは続かなかった。何と言えば、伝わるのか。あの人の尊さはたぶん、大人には理解できない。自分だって理解出来てるわけじゃないのに、そんなものを伝えられる自信はない。ただ、聞きたくなかった。恐らく高峰の言ってることは事実だろう。社会の波にもまれて、仕事さえ出来なくなって、ホームレスになった。逃げていると言われたって仕方がない事実なのだろう。それでも耳に残る声がある。いびつな地上絵。いびつな花の絵。それを否定するような発言を、真雪は聞きたくなかった。暫く迷って、唇を開く。
「その子なら、見たことがあります」
 言ってから、何故か胸にちくりとした痛みが走った。
「どこに住んでるかは知ってるか?」
「それは、知りません」
 会ったのはあの公園の中だけでだ。匠なら何か知っているのだろうが、ここに匠の話題を持ち出したくなかった。高峰に、匠のことを知られたくないと思った。
「あの公園にいるのは確かなんだな?」
 首肯する。はい、と答えるための声が喉の奥で詰まったからだった。高峰は真偽を確かめようとするようにこちらの顔を見つめる。この目は好きじゃない、そう思った。この目だったら、まだあの子の目のほうがずっといい。
「気付いてると思うが、これは俺の娘だ」
 苦々しげに、ぴんと書類を弾く。まるでそれが、自分の落ち度だとでも言うような口調で。
「春に家出した。警察沙汰にはしたくない。不登校ということになっている。警察沙汰にしない理由として、あいつの居場所を知ってるという奴がいたことだ。あのホームレスだな」
 シュウと、高峰の繋がりがようやく見えた。匠が『ちびねこ』と呼んでいたあの子が繋がりだったのだ。同い年には見えなかったが、それが正解らしい。不登校生徒がいるのは別に珍しいことじゃない――真雪のクラス、二組にだって二人いる。とは言え、高峰の娘がこの学校の生徒だということは知らなかったし、それが不登校生徒の一人で、あまつさえあの子だとは少し信じられない思いもある。ただ、高峰の目は嘘を言っているように見えないし、何よりこの堅物な教師が冗談を言うわけもない。
「判ると思うが、当然親として、教師としても、連れ帰すのが義務だ。居場所は知らないのか?」
 と――唐突に教室の扉が開かれた。静かだった英語科準備室に廊下の空気が流れ込む。高峰がさっと口を噤み扉を見やる。つられてそちらに目をやってから、真雪は空気を飲み込んだ。
 匠だ。
 匠自身も驚いたような顔をしてる。高峰が椅子を立ち、匠に近寄っていった。
「どうした、掛井」
「鈴木先生に言われて教材ビデオ取りに来たんですけど。ええと」
 困惑した様子でこちらに視線が注がれる。高峰がそれを察して首を振った。
「別に呼び出しとかじゃない。資料整理を手伝ってもらってただけだ。北野とお前は知り合いだったか?」
「幼なじみです。って言うか先生酷い。昼休みに手伝わせるんですかー」
「お前の幼なじみは優秀だな。というかお前だって使われてるだろう」
「や、俺の場合は単純に罰。提出プリント忘れて」
「馬鹿だな」
 匠も高峰も、取り繕うのが上手い。何も言えずに固まったまま、真雪は胸中で呻いた。気まずさなんて欠片も表に出さない。すぐに匠は目当てのビデオを手にして教室を後にする。不自然に思われないためだろう――去り際にはこちらに向かって「じゃあな、真雪」と声をかけて来さえした。上手く答えられたかどうか、自信はない。
 少しの沈黙の後、真雪はゆっくりと口を開いた。
「土曜日なら」
 何かに握り締められたように、胸が痛んだ。
「土曜日なら、あの公園に彼女もいると思います」


戻る 目次 進む