第四章:それでも君を


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 その日はとても暑かった。
 各局の天気予報士のお姉さん方はことごとく予報を外し、土曜まで降り続くといっていた雨は昨晩、金曜の夜遅くに上がった。そうすると途端に『夏』が全力で自己主張を始めたのか、紫陽花の葉に付いた露さえも吹き飛ばす勢いで晴れ上がった。そこら中に漂っていた水分を太陽は気化させようと熱するものだから、蒸し暑さは尋常じゃない。直接の日光もじりじりと肌を焼いていくのに加えてそれだから、さながら美咲台自体が巨大な蒸器になったようだった。じっとして立っているだけでも、汗がじんわり滲み出る。カレンダーも今日からきっちり七月で、早々に梅雨明けでもしてしまったかのように夏の気配が濃厚だった。
 そんな日でも、土曜は土曜だった。
 野良猫とシュウは変わらず『仕事』のためにブルーシートを広げ、匠もその隣で座っていた。半袖シャツとジーンズ。いつもつけているヘッドフォン。足元はハイカットのスニーカーという出で立ちだったが、出てきてすぐにスニーカーは間違いだと思った。サンダルにすればよかったと後悔する。靴の中でさえ暑い。
「俺も裸足になろうかなぁ」
 隣で座り込んでいる野良猫を見て息をつく。野良猫はというと、珍しくキャミソールで、下はいつものショートパンツ。そして素足というこれ以上ないほど涼しげな格好だった。これより清涼感を求める格好とすれば、もはや水着しか残っていなさそうではある。
 野良猫はこちらの顔を見据え首を傾げる。
「なればいいじゃん?」
「僅かな理性がそれを邪魔する」
「捨てちゃえばいいのに」
 名前も理性も親でさえもか。口には出さずに呟いて、匠は苦笑する。シュウはブルーシートに順番に絵を並べながら、やはり変わらず微笑んでいる。木曜日に、今日はここに来るなと言ってきたので何かあったのかと思ったのだが、取り立てて変化はない。野良猫も心得ていたようで、何も言わなかった。結局その日はキャットウォークで過ごした。聞けば、毎週木曜日だけは公園には行かないことにしているらしい。何故か、までは教えてくれなかったがどうせそれも『ルール』なのだろう。こうやって話していれば、彼女は確かにとても自由で、けれどそれ故に自分のルールを正確に守っていることに気付く。本当に大切な一握りのなにか。それを『ルール』としていてそれ以外は捨てる。シンプルな生き方だった。野良猫も、そしてたぶんシュウもそうだ。本当に大切な、一握りのなにか。
「裸足、気持ちいいよ?」
「だろうなぁ、とは思うんだけどな。――っていうか、何で裸足?」
「前に言ったじゃん。ルールなの」
「だから、何でルール?」
 訊ねると、野良猫は難しい顔をした。答えられない、と言うよりはどう答えれば伝わるのかを思案している顔だ。ややあってまた小首を傾げながら、告げた。
「シュウさんの絵と、あたしの裸足は、おんなじ意味を持ってるの」
 ね? と野良猫がシュウに微笑む。シュウは絵を並べていた手を止めて首肯した。絵の配置はいつも本人がやる。どうすれば絵が喜ぶかを自分で感じたいと言うのだ。
「私の絵は、誰にも囚われることはないものだと信じています。たぶん、お嬢ちゃんにとっての裸足もおなじなんでしょう」
 野良猫の発言を補うように、シュウが笑った。つられて笑いながら、匠も頷く。自分にとってのロックも、多少それと似ているのかもしれない。
「それより、いいんですか? 今日、土曜でしょう」
「塾ですか?」
 別にシュウは行けといってるわけではないのだろう。そういう事を言う人でもない。ただ単純に、真雪のことがあるからそれを心配しているのだ。意図を汲んで、匠は肩をすくめた。
「やめたんで、六月いっぱいで」
「やめちゃったの?」
 野良猫が丸い目をぱちくりとさせた。
「別に俺、塾行かなくてもそこそこの高校受かる自信あるし。親、説き伏せた」
「なるほど、そうでしたか」
 無論ひと悶着以上あったのは確かだ。父親は別にどうでもいいという素振りだったが、母親のほうは口うるさく言ってきた。この時期に、と繰り返し言われたが、この時期だからこそまだ踏ん切りがついたとも言える。自分の成績と志望校の比較くらいは匠だって済ませてある。やめても問題ない、と判断したからこそ言い出したのだ。結局塾をやめるのはしぶしぶ了解を得た。とは言え、今回の期末テストで成績が悪ければすぐに戻されるだろう。だからこそこの期末はいい成績をとることを目標にしている。そう難しいことじゃないはずだ。
「頭、いいんだね」
「まぁ、どっかの野良猫に比べればな」
「頭良すぎると、かちこちになってそのうちカビるから、あたしはこれでいーの」
「カビる言うな。どこのアンパンマンだ俺は」
 ぺしっと額をはたくと、野良猫が声を立てて笑う。いつも通りの、反応だった。
 公園には、徐々に人が増え始めている。とは言えまだ午前中だ。本格的に人が増えるのは午後になってからだろう。いつもジョギングをしている老人が通り過ぎる際に軽く声をかけてくる。野良猫が片手を上げて挨拶を返す。シュウの仲間らしいホームレスの一人が近付いてきて、一口チョコレートを三つくれる。それにも、野良猫は笑顔で応える。野良猫について『晩御飯の調達』で夕方過ぎの商店街を回ることもあった。パン屋やコロッケ屋なんかが売れ残りをくれるのだ。そういう時にもいつも感じるのだが、結構この野良猫は人から慕われているらしい。
 時々、思う。人はもしかしたら、彼女に羨望を抱いているのかもしれない。自分が感じるものと同じものを。いらないものを全部捨てて、キャットウォークで生活する小さな少女に。本当に大切な、一握りのなにかだけを『ルール』として自分に課して生きる少女に。だから、優しくなれる。
「ねぇ。あの子、平気?」
 不意に覗き込まれ、匠は思考を止めた。
「あの子って?」
「マユキ、だっけ?」
「……なんでお前が心配すんの?」
 怪訝に呻くと、野良猫の頬がぷくりと膨れ上がった。「だって、シュウさんが心配するんだもん」。そこにはたぶん、多少の嫉妬も含まれているのだろう。
 野良猫の頭を軽く撫でながら、こっちも嫉妬したい気分を何とか押さえ込んで笑った。
「平気だと思うけど。今日は朝、うちの前で待ち構えてたなぁ」
「ふぇ。何で?」
「行くな、ってさ。真顔で。無視したけど」
「ふぅん」
 それで興味がうせたのか、野良猫はひざを抱えて空を見上げる。眩し過ぎる太陽を手で遮りながら、それでもその顔は楽しそうだ。「夏だね」野良猫の呟きに、匠も空を仰いだ。
「暑いなぁ」
「あたし、夏、好きだよ。なんかすごくわくわくするから」
「小学生は元気で羨ましいよ」
 今度は逆に野良猫に頭をはたかれる。「このオジン」と罵られるが、そんな何でもないやり取りが楽しかった。
「本物のおじさんは、ちょっと、辛いです」
 不意の声に見ると、シュウがパレットに絵の具を搾り出しながらにこにこと笑っていた。
「辛そうに見えないんですが、シュウさん……」
「いや、辛いですよ。そのうち私は干からびます、たぶん」
「シュウさん、暑いの嫌いなのー?」
 野良猫がぴょこんと背中に飛び乗る。親に戯れる子供、にも見えるが、匠にとってあまり嬉しい構図でもない。
「嫌いじゃないんです。苦手です」
 よく見ると、顔が火照っていて汗も流れている。苦手、というのは嘘でもないらしい。
「大丈夫?」
「はは、まぁ、なんとか。花を描いてれば、気は紛れます」
 絵の具を搾り出したあとに、指でかき混ぜる。黄色と少しの赤。それから、雑草から絞った薄紫の水。その絵の具を、今度は鉛筆の先につけて陰影を交えながら、画用紙に花を描き出していく。今日描いている花はどうやら、向日葵のようだ。夏の象徴の花。傍にその花はないが、公園の奥に行けば咲いている場所があるのを知っている。鉛筆の黒鉛と鮮やかな絵の具が一緒に画用紙に花を咲かせていく様は、授業では決して教わらない方法だ。とは言え、それがなんともいえない躍動感を見せ付けてくる。強く気高い、夏の花。描き始めて周囲が見えなくなったシュウの代わりに、絵を見に来た客の相手を野良猫と匠がする。一週間のうちに描き溜めていたシュウの絵は良く売れた。中には、先日驚いていた匠のクラスメイトもいて、また買いに来たといった。どうやらもって帰った絵を母親が気に入ったらしい。そんな小さなことが、無性に嬉しかった。帰り際に一枚、買って帰ろうと思った。
 暫くすると、シュウの向日葵は完成した。画用紙いっぱいに咲き誇ったそれは、周囲が少しはみ出ていて、それが躍動感を生み出していた。いつもの美大生がやってきて、すぐにその絵に目をつけた。絵はすぐに売れた。美大生は得意そうに、もうそろそろシュウさんコレクションファイルが完成すると笑っていた。野良猫もシュウも、そんな風に人に好かれている。
「海に行きたいですね」
 不意に、シュウが呟いた。
「海?」
「ええ。夏ですから」
 シュウの答えに、野良猫が嬉しそうな顔をする。
「あたしも行きたい! あたし、海の絵が描きたいなぁ」
 シュウの絵の隣に、ひっそりと野良猫の絵も置かれているのだが、買い手は殆どいない。野良猫はあまりそれにはこだわってないようだが、絵を描くことは好きらしい。シュウが花の絵を描くのに対し、野良猫は風景画――らしき抽象画――を描く。街や、生きている場所が好きなんだという。木曜日にキャットウォークで、お気に入りの一枚も見せてくれた。それはキャットウォークから見下ろす街並みで、朝焼けに輝いているそれだった。遠近法も何もあったものじゃない多視点画に近いそれは、一瞬絵の風景が何かを理解できなかった。それでも、胸に来るものがあった。優しいような、鋭いような、穏やかなような、悲しいような、そんな絵だった。毎朝、あのキャットウォークから彼女はその風景を見つめているのだ。
 もしかしたら不意にシュウが呟いた海へ行きたい、も、野良猫の絵を考えての発言なのかもしれない。
「海か。電車で二駅だっけ。角野のほうが近いか」
「歩けばいいよ。そんなに遠くないよ」
 美咲台の町は海には面していない。東の角野町を越えた海岸線に出るほうが、西よりは近いはずだ。二駅程度で着く。が、あまり歩こうと思う距離ではないのは確かだ。
「急ぐ必要はないですからゆっくり歩いていけばいいんですよ。明日、行きませんか?」
「明日?」
「ええ。日曜ですし。匠くんの用事がなければ一緒に、どうですか?」
「行こうよ、匠」
 野良猫にせがまれては、ノーを告げる理由がない。多少、なんだかなぁという気になったのは確かだが、匠は笑った。
「行くか」
「やった!」
「あ。真雪ちゃんも誘いませんか?」
 シュウの申し出に、匠と野良猫は一瞬口を噤んだ。どちらからともなく視線を合わせ、お互いの顔色を伺いあう。
「駄目ですか?」
「え。あー、いや、俺は別に……誘っても来るかどうかは知りませんけど……」
「来てくれますよ、きっと」
 シュウの笑みに促され、誘うだけなら誘ってみます、と思わず口にしていた。と、野良猫のほうは若干思案顔だ。無理もない。頬を殴られたのはついこの間の月曜だ。
「ちびねこがヤだって言うんなら、俺誘わねぇよ?」
「う? あたし? うー」
 野良猫が腕を組んで空を見上げた。眉間に皺がよっている。
「別に、ヤじゃないけどさ。また殴られるのは、ヤだ」
「それは俺が体張ってでも止める……」
「もうしませんよ、きっと」
 どっちの言い分も根拠の欠片もなかったが、野良猫はそれで満足したようだった。にこっと無垢な笑みを向けてきた。
「じゃ、いいよ。誘っておいでよ」
 切り替えの早さというか、こういう部分は最初にキャットウォークで逢った時を思い返させる。その辺りが、野良猫が野良猫たる所でもあるのだろうが。
 暫く、三人で絵を売りながら海の話をした。幼い頃にクラゲに刺された話や、好きだった貝殻の話、臨海学校で行ったときにした、カヌーの話。時折、絵を買いに来た人も会話に交じってきて、そのうち肝試しやなんかの話にもなっていった。話が弾んで暫くすると、不意にシュウが困った顔をして立ち上がった。
「どうしたの、シュウさん?」
「赤の絵の具が切れてしまいました」
 パレットの中で、絞りに絞られ、さらにはチューブ口を切られた赤絵の具が、もう出すものはありませんと降参するように空っぽの姿で横たわっていた。
「買ってきます。商店街の文房具屋さんなら、もう開いてるでしょうし。画用紙も買っておきます。もう残り少ないですから」
「はーい。じゃああたし、匠と一緒に店番してるね」
「お願いします」
 勝手に店番にされていたが、悪い気はしなかった。野良猫と二人きりになれるなら、むしろありがたい。売り上げの中から小銭を数枚取り上げ、シュウが商店街に向かって歩き出す。ここから商店街はそう遠くない。すぐに帰ってくるだろう。
「絵でもうけた金を絵のために使っちゃう辺りが、シュウさんらしいな」
「いっつもそうだよ。殆ど画材になってるもん、シュウさん」
 だろうな、と苦笑しながら頷いた。それから暫くは、不思議と客足も途絶えた。やはり絵の描き手がいるといないのとでは何かが違うのかもしれない。それが何かを言葉として表現するのは難しいが、空気とか匂いとか、そんなものなのだろう。
 野良猫とたわいない軽口を交わし合う。時々はペットボトルにいれた水を口にした。体育の授業以外でこんなに太陽に焼かれたのは、一体いつ振りなのだろうとぼんやり考える。
 そしてそれは、突然だった。


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