第四章:それでも君を


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「死因、脳挫傷だって」
 機械で少しだけ歪められた真雪の声は、そうでなくても陰鬱に沈んでいるだろうというのに、さらに暗く聞こえた。携帯電話を耳に当てて、自室のベッドの上で低く頷く声を出すのが精一杯だった。
「内臓破裂も併発してたって、言ってたけど、直接は脳への衝撃だって、医師せんせいが」
「そう」
 電話を切ろうとして、止められた。もう一度受話器を耳に当てると、泣きはらしたような、上ずった真雪の声が聞こえた。
「匠」
「ん」
「月曜、学校、行く?」
「行く、と思う」
「待ってるね、私」
 返事も待たずに切られた携帯電話を放り出して、匠もベッドに身を沈める。なんとなくうざったくなったので電気も消した。久しぶりにコンポに電源もいれずに、ただ沈黙だけが部屋に横たわる。その空虚さが、今は心地良かった。
 こんなものか、と思う。
 生きることの意味。死ぬことの意味。それらをずっと、考えていた。熟考していた。自殺を決めてあの建物未満へと足を運んだときも、考えた。だけど、実際に目の当たりにすれば、こんな程度のものだった。死はただ、死でしかない。不意に野良猫の言葉が蘇る――生きるためにただ、生きている。生きることの意味は、シャ・ラ・ラ程度でしかない。だったら、対極にある死にだって、その程度の意味しかないのかもしれない。ギターの弦と同じだ。ぴんと張られていてこそ音が出る。けれど理不尽にぱちんと弦を切られれば、もう楽器としては用を成さなくなる。ギターなら修理すればいいが、切れた人生には修理屋がいない。弦が切れればそれでおしまい。はい、永遠にさようなら。
 悲しみは不思議と湧かなかった。シュウが撥ねられた瞬間は確かに自分は泣いたと思ったのに、運ばれた先の病院で死を宣告されたときは、悲しみも涙もなかった。ただ、単純に、何か大きなものが欠けたという喪失感だけが胸を満たした。
 たぶん、シュウや野良猫のいる日常で、匠は音楽を感じていたのだ。繰り返される日常のリズムはベースで、今まではただずっとベースだけが流れ続けていて、そこに二本のギターが入ってきた。野良猫と、シュウ。それで日常は急に音楽に変わった。もちろんベースも大事なのだが、ベースだけだと物足りないのだ。それが、急にギターの弦が切られた。それだけだ。音がなくなった。音楽がもう聞こえない。だから、コンポの電源を入れる気力もない。
 野良猫はどうしているだろう。ふと、考えた。薄闇の中、漠然とした不安感に包まれながら。
 病院で死を告げられた後も、警察に連れて行かれて――目撃者として――事情聴取を受けたときも、彼女は一言も喋らなかった。黙したまま、俯いていた。事故後の処理は高峰が引き受けるといった。その高峰に連れられて、彼女も乗用車に乗った。そこまでは、判る。その間も一度もこちらを見ようともしなかったことも、判る。泣いていなかったのも、判る。だけど、その後は判らない。恐らく家に連れて帰られたのだろうが。それが妙な違和感を覚えた。あの彼女が、野良猫が、キャットウォークを去った。建物未満を出た。公園でシュウと並んで絵を描くこともない。そのことが、奇妙に思えた。
 翌朝、真雪は玄関先で待っていた。特に言葉を交わすこともなく、二人で登校した。匠には真雪の気持ちが判る気がした。今は、誰かと一緒にいたい。ただ、それだけだ。
 学校は期末テストの最中でなんとなく浮ついた空気が校舎を包んでいた。今の匠にとって、試験はありがたかった。機械的に単純作業のように問題を解いていく間は、それ以外の何かを考えなくてすむ。学校で高峰の姿を見かけることもなかった。担当学年が違うせいか、それとも事故後の諸処理で学校に来ていないのか、その辺りは判らなかったが、だからといってさぐろうとも思わなかった。ヘッドフォンでさえ、暫く出していなかった。フィル・ライノットの声も聞かなかった。野良猫の裸足と、シュウの花の絵と――命も、だ――が失われた今、ロックを失っていない自分というのが妙な気がした。だから、意図的に失くした。リジィの曲を失って始めて、なんとなくぴたりと符合する気持ちになった。それは不思議だったが、初めてあの建物未満に立ち入ったときに感じたものと、良く似ていた。
 喪失感は、時々寂寥感に取って代わられて、指先と脳の中心を痺れさせた。ただ、暫く我慢しているとまたただの喪失感に戻る。喪失は事実だったから受け入れた。そのうち空気の中に馴染んでいって、隣にいるのに邪魔にならなくなった。影と同じだった。期末考査は四日で終わって、すぐにまたいつもの授業が再開された。戻ってきた答案用紙は思ったよりもいい点数が並んでいた――期末考査期間中は、家でも学校でも、何かを考えることが億劫で、ひたすら無心になって勉強をしていたおかげだろうが。期末考査終了後の授業はようは終業式までの穴埋めとまとめ程度の意味しかなくて、教室には怠惰な空気が充満していた。暑さは日を追う毎に増していき、あちこちでプラスティックの下敷きが活躍していたし、クーラーの効いている保健室は連日満員御礼となっていた。登下校時には、緑地公園の前を早足で通り過ぎた。蝉の声が煩くなっていた。野良猫の姿を見かけることもなかった。野良猫のことを考えようとしなかった。考えようとすると、頭の奥が鈍く痛んで目の前が暗くなる気がした。だから、やめた。
 別に何も失っていない、そう自分に言い聞かせようとしたこともある。所詮、野良猫やシュウと関わっていたのは一ヶ月に満たない僅かな期間だけだ。元に戻っただけ、そう思おうとしたのに上手くいかなかった。そうこうするうちに一週間が過ぎて、土日が来て、けれど何もすることがないまま二日間は過ぎて、それからまた月曜日になった。相変わらず野良猫のことを考えることもなく、リジィの曲を聴くこともないままだった。

 七月十日。商店街にあった七夕飾りも取り払われた日に、それは起きた。

◆ ◆ ◆ 

「匠」
 呼ばれた声が震えていた。いつもと違う声音に、自然と階段の一段目にかけられていた足は止まっていた。く、とシャツの裾を引っ張られる。真雪だ。
「何だよ?」
 振り返ると、真雪はこちらを見ていなかった。視線は昇降口に向けられている。階段から足を下ろし、真雪の向いているほうへと視線をやり――そして、息を呑んだ。
 癖のある茶色のボブヘア。うっかりすると小学生にも見えそうなくらい幼い面立ち。細く、小柄な体。そこまでは確かに『彼女』だった。けれど意思の強そうな、あのアーモンドの瞳は今は伏せられていて、そこにはなかった。それだけで『彼女』ではなかったし、何より服装が違った。いつものシャツとショートパンツではなかった。白いセーラー服とプリーツスカート。足元は素足ではない。紺のハイソックスと、深い茶色のローファー。
 裸足の五本の指が見えない。ただ、それだけだ。けれどそれはとても大切だった。裸足じゃない、彼女。彼女は匠の知っている『野良猫』ではなかった。別の誰かだと思った。
 胸の辺りが軋んだ。
 彼女ではないその少女は、こちらを見ようともしなかった。俯いたまま、ローファーをしっかり履いたまま、階段を上がっていく。すぐ隣を過ぎたのに、一瞬もこちらを見ようとしなかった。横顔が通り過ぎる時、腕が自然と伸びかけた。触れたかった。ただ、違うのだと思うと自然と腕は収まった。きゅっと拳を握って、小さな背中が二階へと上がっていくのを見つめる。見えなくなってから、少しだけ何も言葉はなかった。匠自身も、真雪もだ。ところがすぐに、真雪が乱暴にこちらの背中を叩いた。
「痛っ。何だよ」
「匠の馬鹿っ」
 怒鳴られて、顔を顰めた。何事かと立ち止まってこちらを見つめてくる何人かの生徒を手を振って追い払う。真雪はそんな事はどうでもいいというようににじり寄ってきた。左手の白いリストバンドを、右手で握り締めて。
「馬鹿って、何がだよ」
「私、なんか今、すごくヤだ。気持ち悪い。すっごく気持ち悪いじゃない、こんなの!」
「あー。気持ち悪いなら保健室連れてくか?」
「違うわよ、もう、いいかげんにしてよ、何よこれ。なんかむずむずしていっぱい体中に溜まっていくみたいですごくヤだ。なんて顔してんのよ、匠も、あの子も。ヤだっ」
「判った。判ったから、喚くな。騒ぐな。授業始まるぞ」
 子供のようにぐずる真雪の頭を二度叩いて、教室へと足を向ける。「もうヤだ」と呟く真雪を二年の教室がある三階まで見送ってから、匠も自分の教室へと向かった。真雪と違って、さすがに年季が入っている分、教室のドアを開けるときはいつも通りの顔をしていられた。
 何の特にもなりゃしないよな。小さく自嘲気味に呟いた。

◆ ◆ ◆ 

 とにかく、居心地が悪い。ガスバーナーの火を睨みつけながら、真雪は一人ごちた。二時間目、理科の授業は今学期最後の実験で、何をいまさらと思わなくもない。帰ってきたテスト用紙の正答率があまりに低かったとかで、もう一度復習のためと実験のやり直しをさせられているわけだが、クラスメイト全員が不服顔だ。その中でも自分は一層不満顔だろうと思う――自覚は、ある。眉間の皺が戻らない。授業中にだけつけている赤いフレームの眼鏡の向こう、ガスバーナーが青白い炎を吐き出しているのを睨みつけて意識を紛らわす。そんな程度しか出来なかった。とにかく、居心地が悪かった。学校の中の居心地というより、今現状の居心地全てが、だ。原因は単純だ。匠のせい。あるいは、今日登校してきた『あの子』のせい。
「北野ちゃん。顔、怖いよ?」
 同じ班の子に指摘されて、曖昧に笑顔を作ろうと試みるが、出来たのは顔面神経痛のような微妙な表情だけで、上手く顔だって作れなかった。これも匠のせいだ。たぶん。
 別に自分が苛立つ謂れはないはずだった。あの子がどうしようが、匠がどう行動しようが、それは個人の自由であって、自分には関係がない事象のはずだ。今までならそれで納得できていたはずなのだ。いや、今だって納得はしている。ただ、感情的にどうもしっくりこない。いつもの、澱みだ。埃みたいに積もっていく澱みが、重くなった、そんな気分。ひたすらに堪る上にここにはカッターがないから、吐き出す術もない――そんな真似、したいわけではないのだけれど。リストバンドを握り締めて、ため息をついた。だけどこの澱みは、どうすればいいのだろう。気持ちが悪い。しっくりこない。眼鏡を取っ払ってガスバーナーで焼いて粉々に砕けば、まぁ多少は気が紛れるかもしれないが、あまりに意味のない空想だった。
 どう、するべきか。
 ガスバーナーの火を睨みつけながら、真雪はぽつりと呟いた。
「動く、か」
 とりあえず、動いてみよう。リストカットよりは健全的に、多少は気持ちも晴れるはずだ。どうすれば良いのかはまだいまいち、よくは判らないけれど。とりあえず、あの公園に行ってみれば何か判るかもしれない。赤いフレームの眼鏡の向こうで、真雪は瞳に決意を宿した。


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