第五章:脱獄


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 あの日、彼女の足を止めたのは、安い画用紙の中で咲くたんぽぽの鮮やかな黄色だった。


 シャープペンシルをノートの上に転がしたまま、彼女は思考に耽っていた。廊下側の席の一番後ろ。最後に登校した五月前には真ん中辺りにあった自分の机は、いつの間にかそんな隅に追いやられていた。だけど別になんとも思わなかった。学校は――居場所じゃない。
 教卓の前では父である良樹が英語の授業をしている。簡単な英文の和訳。英語は幼少時から嫌になるほどやらされたので、あの程度なら問題なく解ける。実用的でない英文。面白味がないといつも思う。これなら、文法はなっていなくとも洋楽の歌詞を見てるほうがずっと楽しい。もっとも、今はたとえそれを見せられたところで、きっとつまらないのだろうけれど。
 何もかもが、退屈だった。窮屈で、居心地が悪かった。靴の中でおとなしく縮こまっている足の五本の指も窮屈だったし、重たい制服も窮屈だった。授業の声も教室も、自室の中でさえも退屈で居心地が悪かった。キャットウォークを恋しいと思った。
 赤錆びた不安定な足場。放置されたままの建物未満。翼の欠けたアンティークの天使。射し込む陽光に揺れる小さな埃。反響する音。乾いた、埃っぽい空気。足の裏をひんやりと冷たくさせる鉄筋の感触。そこから見渡せる朝焼け。美咲台の景色。遠く輝く海の姿。くしゃくしゃの新聞紙。集めたペットボトル。商店が閉まりだした時間の商店街の空気。売れ残りの冷たいコロッケと賞味期限が切れかけたサンドウィッチ。公園の水飲み場で洗った髪の毛。襟ぐりの大きく開いたシャツと、ショートパンツ。自由だった、五本の足の指。それから、花があった。
 シュウの絵があって、シュウがいた。
 二ヶ月だった。シュウが売っていたたんぽぽに目を止めたのは桜が全て散った頃で、良樹の干渉に耐えられなくなって家を飛び出したのは、中間考査が始まる直前だ。それから、シュウにねだって一緒に暮らし始めた。建物未満の中に入り込んで、そこを自分の城にした。シュウと一緒にいたのは、二ヶ月だ。それでも、たった二ヶ月だとは、言えなかった。
 二ヶ月の間に得たものは大きすぎて、自分の今まで生きて来た年数さえ簡単に捨てられた。名前も、年齢も、過去も、常識でさえも。二ヶ月の間に得たものは、自由と、穏やかな花だ。
 今でも覚えている。良樹と喧嘩をして家を飛び出した夜。初めて靴を脱いで、公園の噴水の中に足をつけた。冷たい水が足の指の間をすり抜けていって、ただそれだけなのに何故だか泣けた。自由になるのは、意外と簡単なんだと知った。その日からずっと裸足だった。雨の日も、アスファルトが焼けるように熱くなった日も。それがルールで、自由の象徴だった。シュウと共にいられることの証明のような気がしていた。
 花に、なりたかったのだ。
 シュウの描く花になりたかった。
 美術教師が見れば曖昧な顔をするしかなさそうな、そんな花だ。下描きの鉛筆の線はいつだってそのまま残っていて、時々は下描き自体することがない。絵の具で色をつけた後に鉛筆で陰を入れることもあった。絵の具はいつも輪郭からはみ出していて、写生ではなくてどこか抽象的で、どんなに落ち着いた色の花でも赤や黄色の鮮やかな色も混じっていて、つまり全く本物ではなかったのだけれど、何よりも本物らしく輝いているのが不思議だった。自由で、囚われていなくて、鮮やかで、美しかった。そんな花になりたかった。そうなるための見つけた手段の一つが、裸足だった。キャットウォークだった。
 シュウの傍に、いることだった。
 もう、叶わない。大好きだった花がなくなった。
 二ヶ月の間咲き誇っていた花が失くなって、彼女はそれで全てを手放した。軟禁のような家での生活も、良樹の言動も、抵抗する気力さえなくて受け入れていた。ローファーに足を通したとき、全てが失われたのだと、心から実感した。
 全てを失くした時、人は泣くための涙さえ失くすのだと、初めて知った。
 キャットウォークが恋しかった。シュウの傍にいたいと強く願った。だけどそれはもう叶わない。美咲台の朝焼けを見渡すことも、土曜日の公園のにぎやかさも今はもう、遠い。
 全てが、元に戻ったのだと思った。
 黒板に書かれた英単語をノートに書き綴る。シャープペンシルが重いと感じた。
 学校で、匠と真雪の姿も見た。一瞬だったけれど、二人とも話しかけてくる気配はなかった。それもたぶん、失ったもので、自分から手を伸ばすことはやめた。手を伸ばせば、また失うときに苦しくなる。だったら、失ったものは失われたままでいい。
 Flower
 良樹の持つチョークが白い文字を刻んで、彼女はシャープペンシルを止めた。
 Flower――花。
 その単語がどうしても書けなかった。だから、ノートの隅に小さく別の文字を書いた。
 Lost――失った。
 たぶん、それが、全てだった。
 目を伏せて、ノートの文字を見つめる。そして、それは不意に起こった。
 ――ガラッと大きな音が教室に響いた。
 反射的に顔を上げ、そして彼女は息を止めた。
 教室の前方の扉が開けられている。教卓の良樹が目を丸くして、扉を見つめていた。正確には扉を開けて中に踏み込んできた生徒の姿を。他の教室内の生徒も揃って同じ顔をしている。彼女自身も、同じ表情を浮かべていた。我知らず、驚きで椅子を蹴って立ち上がっていた。
 肩で息をしている、背の高い男子生徒。学年章は三年を示す緑色だ。
 掛井匠。
 金曜日の、死に損ない――
 目が、合った。憑き物が落ちたように透き通った瞳が、笑みの色を灯して揺れて、彼女の心臓が落ち着かなく高鳴りだす。
「掛井?」
 良樹が険しい顔で匠に近付いていく。その姿を、彼女は見つめるしかなかった。
「あ、高峰先生どーも」
「どーもじゃない。どういうつもりだ。授業中だぞ。教室へ戻れ」
「用事があったんで。二年六組の皆々様もどーもー。お騒がせします。三年四組の掛井匠です」
 妙なテンションの匠の台詞に、教室内がざわめきだす。クラスの中でもお調子者らしい男子生徒が手を上げた。
「掛井先輩、何の用事っすかー? 教室ジャックー?」
「そんなとこかなー。ついでに授業ボイコットのお誘いというか誘拐?」
「掛井!」
 良樹の怒鳴り声は、教室内の笑いを増徴させる結果にしかならなかった。良樹の伸ばした手をあっさりと避け、匠が笑っている。屈託のない笑顔で、笑っていた。
「お。よう、ちびねこ。誘いに来たぞ」
 ――ちびねこ。
 高峰あずさという名前じゃなく、匠がただの呼び名としてこちらをそう呼んできた。その事がどうしようもなく、嬉しかった。
「たくみ……?」
「うん」
「なに、してんの?」
「だから、お誘い。ボイコット。どう?」
 にっと笑われて、思わず笑みを零していた。体の中、奥深くから、こぽこぽと笑いが込み上げてくる。
 教室内の誰もが、自分と匠に注目しているのが判った。たぶん、教室内だけじゃない。他の教室からも、妙なざわつきが廊下の空気に乗って流れてきている。
 高峰あずさとして、誰かの視線を受けたいと思ったことはなかった。けれど。
「匠、変だよ。すごく」
 思わず呟いた言葉に、匠が笑う。
「どっかの野良猫ほどじゃないけどな。やめたから」
「やめた?」
「人の目、気にするのを。上手く周りに合わせてりゃ楽だけど、そのうちきつくなってくるからさ。やめにした。そんなわけで、好きなことをしようかと。お前のルールに倣ってな」
 ――ルール。
 それは、あそこで生活するときに決めた最低限のルールだ。自由は、適当じゃない。自由に生きる為に、適当に生きない為に決めた、最低限のルール。
 自分のやりたいことをする。
 他人が決めたことに口出しはしない。
 毎日、朝日を見る。
 裸足で、地面を感じる。
 花のように、生きていく。
 そんな、他人から見れば笑われるだけのようなルール。それでも、大切だった。それがあったから、高峰あずさじゃなくていられた。あの場所で、名前を捨てて、ただの一人の人間として生きていられた。そのためのルール。
 だけど、今は。
 急に制服が重く感じた。鉛のようにまとわり付いてくる。息苦しさに肺が悲鳴を上げている。足の五本の指は、靴下とローファーに阻まれて泣き出しそうだった。
「高峰、席に着け。掛井も出て行け。邪魔だ」
 高峰あずさに向かって、良樹は怒鳴っている。匠はひょいと肩をすくめて良樹を見た。
「先生、質問です。以下の文章を和訳してください。I do anything I want to do.って、これであってんのかな? どうですかね?」
「掛井!」
 からかうような匠の言葉に、良樹が怒鳴る。さすがに学校じゃ手は出さない。それでも良樹の怒りの空気に、教室内も不安げなざわめきになっていた。それすら無視して、匠がこちらを見つめてくる。
「ちびねこ」
 自分が呼ばれたのだと、強くそう感じた。
「なにやってんだ。こんなとこで。ここじゃないだろ。お前の、城は」
 城は、キャットウォークだ。建物未満の中にある。こんな校舎の中にはない。
「じゃ、お前にも問題。You can do anything you want to do.――意味、判るか?」
 顔が痛かった。久しぶりに笑顔の形に表情筋を使ったからだ。笑っていた。
「うん。――お前がやりたいことは、何でも出来る……?」
 匠が満面の笑みで頷いた。教室内で何人かが感嘆の声を漏らしている。それらを嬉しそうに受け止めて、匠が大きな声を張り上げた。
「ちびねこ!」
 びくりと心臓が跳ねた。一瞬にして教室内が静まり返った。生徒も、良樹でさえも、その声量に押されて口を閉ざしたのだ。その静かな教室の中で、匠が穏やかに笑った。
 不思議と何故か、シュウに似ている気がした。
「お前、名前は?」
 その言葉を聞いた途端、そこは教室でなくなっていた。金曜日だった。細く不安定な、赤茶けたキャットウォークからは、息が詰まりそうな夕焼けが望めた。あの日の、建物未満だった。
「ない、よ」
 自然と唇からその言葉が漏れていた。あの時と同じ問答。あの時と同じ台詞。
 匠の笑みが深くなる。自分の笑みも深くなっていくのが判った。それなのに視界が揺らぐ。でもそれは決して、痛い涙じゃない。
「ないよ。名前。捨てちゃった。いらなかったから捨てちゃったの」
 名前は、要らない。高峰あずさという名前は、ただの記号だ。その記号は纏わり付いてきて、本当の自分を覆い隠してしまいかねない、ただの記号。記号に意味はない。それがなくても、自分は自分だから。
 あのキャットウォークで暮らすことを決めたときの、自分にしかなり得ないから。
「だって、それがなくてもあたしはあたしだから。名前に意味なんてないよ」
 良樹の怒りに赤くなった顔が見えた。クラスメイトのぽかんとした表情も。けれどそれより目に焼きついたのは、匠の屈託のない、出会ってからはじめて見るほどの、屈託のない無邪気な笑顔だった。
 すぅと、息を吸った。肺が笑った。つられて笑いながら、クラスメイトの顔と良樹の顔を交互に見て、匠の笑みに押されて、彼女は声を張り上げた。

「だって、あたしはあたしだから。あたしは、あたし以外にはなれないから!」

 パァンッ、と風船の割れる音が聞こえた気がした。耳の奥、体の中、どこかで。叫ぶと同時に、血管の中を新しい風が駆けていった。鼻腔に花の匂いを感じて、彼女は靴を脱いだ。靴下を脱いだ。裸足が床に触れた。砂と埃の交じり合ったひんやりとした感覚に、帰ってきたと感じる。帰ってきた。帰ってきた。帰ってきた!
 ここが、あたしの、居場所。
 差し出された匠の手を握った。冷たかったが、大きな手だと思った。安堵が体を包んでいく。呆然とした生徒と、赤くなった良樹の顔に笑いを覚えずにいられなかった。
「Break out!」
 匠が親指を立てて吐き捨てた。笑いながら野良猫も真似をする。
 そして、一匹の野良猫と金曜日の死に損ないは、揃って教室を飛び出した。


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