第六章:ヤツらはデンジャラス!!


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 その放送が入ったのは、短縮授業の一番最後、五時間目の半ばだった。
 放送が入る前触れのブチっと言う雑音がスピーカーから吐き出されて、教室内の誰もが何事だと顔を上げた。真雪も例に違わず、他のクラスメイトたちと同じくスピーカーを見上げた。数学の教師もぽかんとした表情でスピーカーを見上げているところを見ると、防災訓練の類ではないらしい。全員の視線を集める中、スピーカーからざわざわと雑音が流れた。
『マイクテストマイクテストー。入ってる? あ、入ってる入ってる』
 あの子だ。
 思わず目を見開いていた。教室内の空気がざわっと揺れた。教室内だけではない、とふと気付く。廊下からも、校庭からも、同じ声が聞こえてくる。どこか捕らえ所のない女の子の声。全校舎内に一斉放送だ。
 何、やってるんだろう。
 衝撃に殴りつけられたように、身動きが出来なかった。スピーカーからはあの子の声が、遠慮なく漏れ出てくる。
『あ、ぴんぽんぱんぽん忘れた。ま、いーや。ミキタの皆さんこんにちはー。授業中に失礼しまーす』
 いや全然失礼とか思ってないでしょうあんた。
 あまりに無遠慮な喋りに、真雪はただ唖然とするしかなかった。人懐っこい素振りを見せながら、手を出すと威嚇してくる子猫のような、捕らえ所のないあの子の顔が目に浮かぶ。彼女の声の後ろで、誰かの忍び笑いが聞こえた。抑えた、低い男子の声。まさか。ふと、胸騒ぎがした。まさか。
『二年の英語教師の高峰良樹様。二年の英語教師の高峰良樹様。娘さんからのご伝言です』
 ふざけた言葉に、反射的に笑いが漏れかけていた。まだ唖然としているクラスメイトに気付かれないように、教科書で顔を覆う。肩が震えていた。とんでもないことをしている。とんでもないことをしようとしている。とんでもないことが起きようとしている。確信が、胸をくすぐる。必死に笑いを堪えていると、スピーカーの中からも似たような殺した笑い声が聞こえてきた。その声を耳に入れて、確信する。匠だ。匠が、あの子と一緒にいる。二時間目の途中で学校を飛び出したあの二人が、ここに戻ってきて何かをやらかそうとしている。
 何が始まるんだろう。
 期待を抱いている自分に気付いて、真雪は少し戸惑った。こんなこと、普段なら受け入れないことだ。だけど今は、あの二人がこうして馬鹿なことをしていることが、何より正しいと思った。正しいのだ。この形がきっと、自分が望んでいた、本来の形なのだ。
 誰もが、スピーカーに注目していた。耳を傾けていた。教室内の誰もが。きっと、この教室だけではない。学校の中の誰もが、同じように耳を傾けているはずだ。職員室で、理科室で、保健室で、視聴覚室で、廊下で、それぞれの教室で、誰もが耳を傾けている。捕らえようのない彼女の声が告げる次の台詞を待っている。教師が、生徒が、養護教諭が、校長や教頭が息を呑んでいる。その様を、リアルに脳裏に描くことが出来た。その中には名前を呼ばれた当の本人、高峰もいるはずだ。どんな顔をしているのだろう。赤くなっているのか、青くなっているのか。それは判らなかったが、ともあれ、聞いているはずだ。スピーカーの音を切るなんてことは誰もしていないだろう。何故かなんて判らない。理論的な理由なんてない。ただ、そうさせるだけの力が、彼女にはある。彼女の声には含まれている。羨ましいと、少し思う。
 強さが、欲しいと思う。
 左手首が、少し疼いた。右腕できゅっと握った。これは自分の弱さだ。逃げられない場所でもがいて、その上で見つけた逃げ道だ。あの子の裸足と、同じだと思っていた。だけど今なら判る。違うのだ。きっとそれは、違う。逃げ道を自分で見つけるのと、生きる道を自分で見つけるのは、似ているようで全く違う。別物だ。彼女の裸足は、きっと、後者なのだ。
 だから、こうして声に出せるのだろう。一度飛び出した校舎に戻ってきてまで、自分の意思を残そうとしているのだろう。逃げるわけじゃなくて、向き合う強さを持っているから。
 指先が、震えていた。
 レンズ越しにスピーカーを見つめた。何が飛び出してくるか判らない、びっくり箱のようだ。教室のスピーカーがびっくり箱になるなんて、誰が想像しただろう。
 すぅ、と息を吸う音が聞こえた。ぴくんと、心臓が跳ねる。
 強い声が、響いた。
『あたしは、捕らえられる事を良しとしない。あたしの生き方は、あたしが決める。あの人が残してくれた花になる。あたしは自由に生きる。あたしは自由だけど、テキトーに生きてるんじゃない。あたしにはあたしのルールがあって、あたしはそれに従う。誰かのルールになんて従わない。あたしのルールに従う。だってそれが、あたしが決めたルールだから。あたしがあたしであるために決めた、ルールだから。だから――』
 そこまで早口で、けれどしっかり告げた後、間があった。誰もが、息を止めていた。
『お願いだから黙りやがってくださいませマイダディ♪』
 吹き出していた。
 びっくり箱から飛び出したものはびっくりよりも弾ける笑いを運んできた。たまらず、大声で笑っていた。むちゃくちゃだ。あの二人は、むちゃくちゃだ。
 笑い声は自分のものだけではなかった。クラスメイトたちも、あまりの出来事に声を立てて爆笑している。おろおろと戸惑っているのは、気の弱い数学教師だけだ。廊下からも笑い声が届いてくる。学校中が、校舎中が、笑いに包まれていた。その中で、平然としたあの子の声が続きを喋る――
『それと、この放送を聞いてる皆々様、特に生徒の皆様へー』
 ふざけた声音が、不意に途切れた。強い意思を持った声音に、笑いに満ちていた教室中が静まり返る。
『何でも出来るんだ。本当にやりたいことなら、どんなことでも出来る。あたしと同じように、あんたたちにだって出来る。――って、フィル・ライノットは歌ってるよ』
 がさりと音がして声が変わった。匠だ。
『補足。フィル・ライノットとはー、七十年代後半から八十年代にかけて活躍したハードロックバンド、シン・リジィのリーダーで、ボーカリスト兼ベーシストです。ま、俺とちびねこからのメッセージに代えて、ってことで。――何でも出来るんだ。本当にやりたいことなら』
 心臓が、どくんと胸を押し上げた。制服に包まれた薄い胸が、鼓動する。
 何でも出来るんだ。本当にやりたいことなら、どんなことでも出来る。
 ありふれた言葉だ。だけどその言葉が、今は耳に、熱い。
『Rock n' Roll!』
 二人の、楽しそうな声が叫んだ。楽しそうだ。全身で、喜びを、楽しみを、体現している。その様子が目に見える。嬉しくなっていた。自然と顔が綻んでいた。匠が、あの子が、全身で笑っているんだと感じると、泣き出したくなるくらい嬉しかった。
 レンズ越しの世界が、揺らいで見えた。スピーカーが震えた気がして目を見張る。
 次の瞬間、大音声のロックミュージックが学校中を振動させた。
 何人かのクラスメイトがわっと声をあげた。教師が腰を抜かしたのか黒板にもたれ掛っていた。その中で、真雪は笑っていた。もう一度、心の底から、声を上げて笑っていた。
 私の、やりたいことは。
 ――あの場所に、行きたい。強く、ありたい。
 出来る?
 自問した。すぐに答えは出た。
 出来る。本当にやりたいことなら、どんなことでも、出来る。
 ざわめきが広がっている。教師がよたよたと立ち上がり、スピーカーの電源に手を伸ばすのが見えた。息を吸って、真雪は立ち上がっていた。
「先生」
 声を出すには、少し勇気がいった。ところが、出してしまえば何という事もないものだった。笑みが広がるのを感じながら、真雪はそっと眼鏡を外した。
 ことんと、赤い眼鏡が机に乗る。肩口に落ちた髪を払って、笑う。
「私だって時々は、羽目をはずしたくなることがあるんですよ」
 教室の床を蹴っていた。スカートが翻る。クラスメイトが、教師が、目を丸くしているのがくすぐったいほどに楽しかった。走り出す。背後で制止の声が聞こえた。振り払う。学校中のスピーカーが、リズミカルなギターの音を、ベースの音を、吐き出している。全身全霊でリズムを刻んでいる。廊下に飛び出るとすぐに気付いた。他のクラスからも騒ぎが起きている。クラスの中のお調子者の一団が、大声で叫んでいる。教師はそれを止めようと躍起になっているのに、騒ぎは空気感染を起こしたように広まるいっぽうのようだ。
 きっと誰もが、この言葉を待っていたんだ。
 自分のやりたいことなら、どんなことでも出来る。
 そんな当たり前の言葉を、言葉として、誰かに言って貰いたかったんだ。
 廊下の窓から、夏の陽射しが射し込んでいる。まるで何かを射抜くような真夏の太陽。誘っているみたいだと感じた。誘われるがまま、走り出す。すぅと、体に夏の陽射しが入り込んでくる。澱んでいた血液が澄み渡る錯覚。指先が痺れそうだ。こんな方法もあったのだ。リストカットじゃなくても、澱みを追い出す方法が、こんな所に転がっていた。
 教室から、生徒たちが飛び出してくる。見るからに素行不良な男子に、フルメイクをばっちりきめた女子。図書委員をやっている男子の姿もあった。野球部のエースピッチャー。数学で学年主席を取った女子。顔ぶれもさまざまで、けれど皆どこか興奮していた。それが、楽しい。教師たちはおろおろしている。中にはあからさまに笑いを堪えている若い教師もいた。きっと立場が立場でなかったら、一緒に走り出している類だろうと思う。ふと、廊下の隅に高峰の姿も見つけた。さぞかし、傷ついているだろうと思った。一日のうちに二度、娘から直接反撃を食らっているのだ。どんな顔をしているのかと見やって、少し驚いた。
 笑っていた。苦笑を浮かべて、疲れたように壁に背を預けていた。
「北野」
 名を呼ばれ、一瞬ぎくりと背が震えた。視線をやると、苦虫をまとめて噛み潰した顔で、彼はこちらを見据えていた。
「あずさと掛井に会いに行くのか」
「はい」
「じゃあ、伝えろ。お前らは本当に、全力で、阿呆だ、って」
 真雪はすっと肩をすくめた。
「伝えてもいいですけど、懲りないと思います」
「お前もつくづく阿呆だな」
「先生、知ってました?」
 スピーカーから流れる音に乗って、トントンとつま先でリズムを取る。真雪は笑いながら、高峰に答えた。
「いつもいつも優等生って言われ続けてると、時々阿呆とか言われると、褒め言葉に聞こえちゃうんですよ」
「……お前は、救いがたい阿呆だ」
「ありがとうございます。それじゃあ」
 軽く頭を下げて走り出す。制止の声は、聞こえてこなかった。


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