世界が失ったものと、世界が得たものと、どっちが多いんだろう。
ぼくの、瑞穂ちゃん
『破壊』から数十年が経って、人類はようやくまともに歩き出そうとし始めていた。
かつては日本の首都として栄えたはずのTOKYOも、今は瓦礫が水に沈む水上都市。未だに燻り続けている攻撃型ウイルスのせいか、僅かに住んでいる人たちも隔離ドームの中から外へ出ることはない。
ぼくの『飼い主』の瑞穂ちゃんも、そんなドームの中の住民だ。
瑞穂ちゃんの家は、高層マンションの四十階にある。マンションの窓の外から見えるのは、街灯も何もない夜の街。それから、細い三日月だけだ。
ぼくはその部屋の中で、明かりもつけずにぼんやり窓から外を見下ろしていた。
闇の中で、水面が風に揺れている。頭を突き出したかつてのビルの残骸のなかには、野良猫の類さえ見えない。それは、世界が失ったもの。
静かすぎる部屋の中に、ふいに小さな音が生まれる。
「おかえり、瑞穂ちゃん」
「……ただいま」
鍵を開けて入ってきた瑞穂ちゃんは、なんだかいつにもまして不機嫌そうだ。よれたスーツと、少し乱れた髪形。嗅ぎなれない、男物の香水。
「また誰かと寝てきたの?」
「うるさい」
苦笑しながら近付くと、伸ばした手を邪険に振り払われた。瑞穂ちゃんは、いつもこうだ。瑞穂ちゃんの手が壁のスイッチに伸びて、ぼくはそれをとめた。
「瑞穂ちゃん? ぼくに言うこと、あるよね?」
細い瑞穂ちゃんの手をにぎって、その体を抱き寄せた。嗅ぎなれない香水。瑞穂ちゃんには似合わない。吐き気がするよ。
明かりなんてつけさせない。光の中なんて、今の瑞穂ちゃんには似合わない。わかってるんでしょう? ねえ、瑞穂ちゃん?
耳元で囁くと、瑞穂ちゃんの体が震えた。それでいい。可愛いよ、瑞穂ちゃん。
「あんたに……何か言われる筋合いなんてない」
細い声で、弱々しく、それでも抵抗の言葉を吐いてくる。そんなところが、愛しい。
「そうだね。ぼくは君の道具でしかないからね」
飼い主である瑞穂ちゃんを、道具であるぼくが縛るいわれはない。だけど、知ってるよ、瑞穂ちゃん。君はそれでも、後ろめたさを隠せずにいる。
ぼく以外の男と寝るたびに、君はそうだ。それなのに、肌を擦り合わせるのをやめることもない。
それは、『破壊』以降ずっと、君の――違うな、女性たちの中に燻りつづけるあるウイルスのせいかもしれない。ドームの外にあるらしいウイルスじゃないさ。それは『破壊』以前から人間が持っていたウイルス。ただそれが、如実に、顕著に表れるようになっただけ。
孤独と言う名前でね。
女たちは、寂しさを、孤独を埋めるために男と肌を擦り合わせる。男たちは本能のまま、種を残すために、女を狩る。単純な話さ。
ぼくのように、愛玩道具となる男もまた出て来るってわけ。めずらしくもなんともない。瑞穂ちゃんはそんな、どこにでもいる腐った女。だから好き。
明かりはね、必要ないと思うんだ、ぼくは。
『破壊』のあとのこの世界には、明るさなんて必要ないと思うんだよ。
月の明かりさえあればいい。真の闇にすら見放された、中途半端な孤独な薄闇さえあればいい。それがこの世界には、一番似合う。瑞穂ちゃんにもね。
瑞穂ちゃんの唇にかぶりつく。最初はちょっとだけ抵抗を示した。けれどそんなのは、何の意味もなさない。
男物の香水。吐き気がするよ、瑞穂ちゃん。
明かりをつけるはずだった手をからめとり、脱いだシャツで強く縛った。後頭部を抱き寄せて、強く唇を絡ませあう。
煙草の味だ。ぼくはこんなの、嫌い。ついさっきキスをしたどこかの誰かのものなのかな。ねぇ、瑞穂ちゃん。ぼくはイライラするよ。
抵抗できなくなった瑞穂ちゃんの体を、壁に押し付けた。座らせたり、横にならせたりなんて、してあげない。これはおしおきなんだ。そうだろ、瑞穂ちゃん? 頑張って立っててごらん。
薄い闇の中に、衣擦れの音が響く。指を折って遊んであげると、静かな水音が耳に届く。それからすぐに、甘い瑞穂ちゃんの声。もっと聞かせてよ、瑞穂ちゃん。どうしようもない、腐った女のその声をさ。
明かりなんて似合わない。真の闇にすら見放された、そんな腐った女の声をね。
何度も何度も口付けを降らせて、甘く噛む。誰かがつけたキスマークに、腹が立って爪を立てた。瑞穂ちゃんの白い肌に、血がにじむ。花のつぼみにその血を舌で擦り付けた。濡れた指で、瑞穂ちゃんの瞼を撫ぜる。
ごめんなさい、と囁くその声が、甘い。
そう言えば、カーテンを閉めるのを忘れていたね。まぁ、いいか。どうせこの闇の中、外から覗く奴なんていないよ。いてもいい。それはそれで、面白いけれどね。
世界はなにを失ったのかな、瑞穂ちゃん。
自由に行き来できる場所? だったら、別にぼくには関係ないさ。ぼくにはここさえあればいい。
窓の外を、少し見た。
月光が薄く、闇を裂いている。
月明かりに浮き上がる、壁に寄り添うようにたつ瑞穂ちゃんの姿。乱れた着衣と、白すぎる肌。それから、ぼくがつけた傷。
見てるのかい、月明かり? この腐った女の姿をさ。
いいもんでしょう?
濡れた唇も、潤んだ目も、か細く漏れる声も、厭らしくて淫らな体も。
世界がなにを失ったかなんて、ぼくには関係のないことさ。
ただぼくは、『破壊』に感謝しようか。
これはぼくが得たものだ。
『破壊』のあとにぼくが得た、瑞穂ちゃんと言う名前の、くだらない女。
ぼくの世界は、得たもので満ちている。
薄い闇の中、満ちている。
瑞穂ちゃんの淫らな声が、甘く甘く、響いている。
――Fin.