第一章『はじまりのカギ』


戻る 目次 進む


 一瞬、ふわりとシャツの裾が舞い上がって、心臓が置いていかれるような感覚。それからすぐ、緩めたひざに――だんっ、と大きな衝撃。
「ひっ……ろと、かっこいー!」
 わあっとたけるが興奮して叫ぶのが聞こえた。たぶん、腕もバタバタ振り回してるはずだ。
 ぼくは顔を上げて汗をぬぐった。にやり、と笑ってみせる。すると――ふいに、顔がかげった。
 びくっとしてそっちを見てみたら、一人の女子が自転車にまたがりながらぼくを見下ろしていた。
 キャミソールにシースルーシャツを重ね着していて、下はハーフのカーゴパンツ。きれいに切られたショート・ヘアにピンクの縁取りメガネ。
「……久野」
「何でそんな嫌そうな顔すんのよ」
 久野は、むっとした顔でぼくにそう言った。久野の「む」がうつって、ぼくも思わずむっとしそうになったけど、その前にたけるのわめき声が空気をかき乱した。
「ひろとひろとひろと! 海賊、やってきたよ!」
 海賊じゃなくてマフィア――と内心で訂正しながら、それでも焦ってぼくは振り返る。そしてそのまま、0・5秒くらい動きを止めた。
 海賊だった。
 同じ顔の三人の海賊。青いバンダナに、汚いボロ服。腰には銃。まんま、漫画とかに出てきそうな海賊の格好をしていた。でも、顔はさっきのマフィア。
 は、はや着替え……?
「ひろとひろとひろとひろとひろと!」
 たけるがぼくの名前を連呼した。
 その声にぼくはようやく我にかえる。あわてて立ち上がりながら、今さっきのぼくと同じように――なんだと思った、たぶん――呆然とマフィア改め海賊たちをガン見してる久野を引っ張った。
「久野! 巻き込んで悪いけど、逃げるぞ!」
「ちょっ、な、なによあのヘンタイ!」
 海賊じゃなくてヘンタイというあたりが、女子ってひどいと思う。いやそれはどーでもいいんだけど。
「いーから、はやく!」
 右手にたけるの左手を、左手に久野の右手を握って、ぼくは再度走り出した。
 ぶっちゃけ、久野は関係ないのは関係ない。あいつらが鍵を追っているんだったら、ぼくとたけるが逃げればいい。ただ、あいつらにちょっとでも脳みそがあったら、ぼくらと話していた久野を放っておくかどうか、ってこと。
 人質、なんてとられたら後味悪いじゃんか。別に、久野が心配とかそんなんじゃないけど。
 久野がまたがっていた自転車はがしゃんと音を立てて倒れた。足をもつれさせながら、久野も必死で走り出している。
「ちょっと! いきなりなんなの!? 説明してよ!」
『あとで!』
 ぼくとたけるはハモって怒鳴る。第二公園の入り口を抜けて、団地が立ち並ぶ二番街に飛び込んだ。入り口の駐車場を斜め横断して、風船公園を横切って、四棟の前に差し掛かる。
 その瞬間ぼくは思いついて、こう叫んだ。
「そこ入って! 三階、三○六号室!」
 久野とたけるを引っ張って、階段を駆け上がる。走りながら外を見たら、海賊たちは一瞬ぼくらを見失ったみたいで、足を止めていた。でも、見つかるのも時間の問題だ。
 ぼくは顔を引っ込めて、走ることに集中した。
 三階に辿り着くとすぐ、ぼくは三○六号室の扉を叩く。プレートには『菊地』の文字。
「すみません! 片瀬です!」
 叫んで、ほんの数秒後――扉ががちゃっと開けられた。
 開けたのはぼくと同い年の男子だ。つんつんの短い髪の毛と、ぼくより高い身長。真っ黒に日焼けした顔と、いたずら好きそうな茶色の目。そいつはぜえはあ言っているぼくらを見て、目を丸くしていた。
 だけど次の瞬間、そいつはおもいっきり作り声をあげて、ぼくに抱きついてきた。
「ひろとくーんっ! きてくれたのねー! アタシまってたわーあ!」
「うざいっ、きもいっ、死ねっ!」
 抱きついてきたそいつ――こーすけを殴りつけて引っぺがす。
「痛っ! おま、マジで殴ンなや! ちょっとしたシャレやん!」
「シャレになんない状況なんだよ! いーから、入れろ!」
 当たり前だけどさっぱり状況を考えてくれないいつものノリのこーすけをひっつかんで、ぼくと久野とたけるは菊地家の中に飛び込んだ。鍵を閉めて、チェーンもしめる。
 台所から走ってきたおばさんには、何でもないですとごまかし笑い。何かを言いかける久野の口はふさいでおいた。おばさんはきょとんとした顔をしていたけど、すぐに台所に戻っていく。
 おばさんの後姿を見送って、たけるが鍵を握ってることを確認してから、ようやくほうっとため息をついた。久野の口をふさいでいた手をどけると、ぼそっとした呟きがもれてきた。。
「……ホント、男子ってバカ」
 この場合、バカなのは男子じゃなくてこーすけだと思うんだけど、どうだろう。

 こーすけ――菊地浩介と会ったのは、去年の四月。こーすけは大阪からの転校生だった。
 一番初めの体育の授業で、バスケットボールをしたとき、いきなりバッチリ気があって、相手チームを二人で負かしたときからの親友だ。
 あのときのわくわくは、今でも覚えている。こーすけのバウンドパスはぼくの手にすいつくみたいに入ってきて、ぼくのチェストパスをうけとったこーすけは、そのまま流れるみたいにツーハンドシュートを決めた。
 ベスト・コンビだ。
 こーすけはいつもパスを渡したい場所にいてくれるし、ぼくもこーすけがやりたいことは何となく、わかる。もっとも、そのせいか最近じゃあんまり、先生たちはぼくらを同じチームには入れてくれない。それでも、楽しい。相手がこーすけだと、どう動くかも判るから、ディフェンスも楽しいんだ。たぶん、こーすけも同じで、ぼくがパスを受け取ってドリブルをはじめようとすると、絶対いつも目の前にいる。
 そんなこーすけの部屋に上がりこむと、ひんやりした空気がぼくらを迎えてくれた。クーラーの冷たさが火照った体に気持ち良かった。ぐったりしてるぼくらを見かねて、こーすけが麦茶も入れてくれる。海賊たちは家にまでは追ってこなくて、少しほっとした。
「……ていうか、おまえら何やねん?」
 こーすけはベッドの上にあぐらをかいて、ベッドのすぐそばに座っていたぼくらに聞いてくる。
 こーすけの部屋は六畳の和室で、縦に細長い。ふすまを開けたら正面に、ベランダへ続くガラス戸。右の壁際に勉強机とベッドがあって、左側には押入れと本棚と、テレビ。テレビゲームもおいてある。
「知らないわよ。片瀬とこの子が一緒で……何かヘンタイに追いかけられて、巻き込まれたの!」
ぼくとたけるの真正面、クッションに正座していた久野がイライラしながらそう言った。その言葉に、こーすけの目が丸くなる。
「いやん。こーすけ君知らなかった! 亜矢子ちゃんとひろとくんて、そんな仲やったん!? こーすけくん、ちょっとショックうl」
「違うわよ! 大体やめてよね、そういうの。気持ち悪いのよ、こーすけ!」
 全力で久野が(久野って、亜矢子って名前だったんだ。しらなかった)否定する。
……いや、まぁ、いいけど、別に。
 コップに入った氷をがしがし噛み砕きながら、ふと疑問に思ってぼくは顔を上げた。久野が男子を下の名前で呼び捨てにすることもめずらしいけど、それ以上にこーすけが女子を下の名前で呼ぶほうがめずらしいっていうかなんか気持ち悪い。
「――こーすけと久野って、仲良かったっけ?」
『いとこ』
 二人で声をハモらせて即答してくる。ああ、そういうことか。
「じゃあ別に一緒に遊んでたってわけちゃうん?」
「偶然会っただけ」
「ふーん。そっか。よかったわ」
 ぼくの言葉にあっさり頷いたこーすけに、ふと違和感を覚える。
 よかった?
「こー……」
「それで?」
 ぼくの言葉をさえぎって、こほんと咳払いをした久野が改めて言いなおしてくる。その声の冷たさに、思わず氷を呑み込んだ。かけらがちょっとだけ喉に引っかかって、ひりひりした。
「どう事態なのか、説明してよ、片瀬」
「……異常事態?」
「か・た・せ・く・ん?」
 メガネの奥の冷たい目をぎらりと光らせながら、久野がスタッカートを効かせながらぼくにせまる。
 いやでも。ものすごく事実だと思うんだけど。異常事態。事実。だって普通にありえない。砂場の鍵を狙うマフィアだの海賊だの、現代日本で普通にありえていい事態じゃない。普通にありえていい事態じゃないってことはようするに異常事態。これ、正解。それ以外にどう説明しろと。
「あのね、ひろとと砂場でね、カギほっててね、そしたらね、マフィアがきてね、海賊になってね、ひろとはジャンプして」
「たけるお願いだから黙ってて」
 ぶんぶん腕を振り回しながら早口でまくし立てるたけるを黙らせて、ぼくは困って頭をかいた。
 どう、説明するべきか。
「か・た・せ・く・ん?」
「判ってる、判ってます」
「つーかさぁ」
 思わず後ずさりしていたぼくに、黙っていたこーすけが口をはさんだ。
「さっぱりわけわからんのやけど、オレにも判るようにしてくれると、こーすけくん嬉しいなぁ」
「だからね! ひろととカギをほっていたら金色でね、たから箱のカギだからマフィアがきて海賊になってね!」
「いや、たけるはええから。あとで聞いたるから。どないやねん、ひろと」
 ぼくとよく遊ぶせいで、こーすけもたけるとは顔なじみだ。
 じいっとぼくを見ている久野と、黙れ黙れと言われてぷうと頬をふくらませているたけると、なんだか楽しそうに聞いてくるこーすけを見て――
 ぼくは小さくため息をついた。
「だいたい、たけるの言ってることで正解なんだけどね……」
 ぼくはそう前置きをして、こーすけ相手に全部説明した。途中で、こーすけのお母さんが入ってこないか、ちらちらふすまを確認しながら。
 たけるに付き合って砂遊びをしていたこと。その最中に鍵を見つけたこと。そしたら、変なマフィアがきたこと。同じ顔で三人になったこと。逃げてフェンスを飛び越えてみたら、今度は海賊の姿になっていたこと。
 全部話し終えると、こーすけはとろんとした目になって、ベッドからおりた。そのまま、ぼくの肩をぽんっと叩いて、
「熱あるときは、外出たらあかんで。もうええ。ほら、オレのベッド貸したるから」
「こーすけ!」
 いきなり病人あつかいはひどいんじゃないか、こーすけ。いや、ぼくも気持ちはとっても、判るけど。こーすけがこれじゃあ、久野はどうだか……と思って、久野のほうを見た。案の定、久野はメガネの奥の目をつめたぁくさせながら、静かに言ってきた。
「……で?」
「ホントなんだって!」
「人を巻き込んでおいて、片瀬はそういう嘘つくの!?」
「嘘だったらぼくも嬉しいよ!」
 膝立ちして叫んでくる久野に、ぼくも膝立ちしながら叫び返す。と、こーすけが割って入ってくる。
「まぁまぁまぁ。亜矢子は? 途中からは見たんやろ?」
 こーすけの言葉に、久野はちょっと膨れっ面になって、腕組みをした。
「まあ……見た目は、確かに海賊っぽい格好はしてたわよ。いかれた変質者ってカンジ」
 女子って、ひどいと思う。
「同じ顔で三人?」
「三つ子なんでしょ」
 こーすけの言葉に、久野はあっさりそう言う。いやだ、あんな三つ子。
「たけるは?」
 こーすけが訊ねると、たけるは久野そっくりの膨れっ面で、ぷいっとそっぽを向いた。
「どーせたけるが言っても、ひろともこーすけも信じてくれないんでしょ!」
 あ、スネた。
 こーすけと顔を見合わせて、苦笑した。
「ちゃうて、そんなんあらへんて。教えてーや。ほんまなん?」
 べしべし、と乱暴にたけるの頭を叩きながら、こーすけが笑う。たけるはしばらくスネてたけれど、こーすけを見上げながら、くちびるをアヒルみたいに突き出した。
「ホントだよ。たける、みたもん」
「ふぅん……そうか」
 たけるの言葉に、こーすけは頷いた。それから、立ち上がったままふすまを振り返る。さっきのぼくと一緒で、おばさんが入ってこないかどうか確かめているんだ。
「来ぇへんな」
「ふすま開けたら一発じゃない」
 久野のつめたい一言に、こーすけはあごを突き出した。
「わぁっとるわ。そやからこないすんねん」
 こーすけはそう言って、部屋にあった押入れのふすまをバシンと開けた。


戻る 目次 進む