第五章『〈マザー〉』


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 暗いということを、ぼくは今までカン違いしていたのかもしれない。
 息をするということにすら恐怖を覚えるような、そんな感覚。黒い壁? そんなんじゃない。壁だって、見えなきゃ壁だって事は判らない。何も判らないほど、何もない。
 がしゃん、と何かが倒れるような音がした。たぶん、久野の自転車の音だ。でも、本当にそうなのかは見えないから判らない。
 今ここで自分の手が急に無くなったって、判らないかもしれない。ぞくっと背筋に冷たい何かが這い上がりそうだった。
「かた……かたせ、片瀬……!」
 すぐそばでひっくり返った声が聞こえた。右耳のすぐ、そば。ぼくは反射的にそちらに手をやった。やわらかく、細い感触。手を這わせてにぎると、それはすぐにぼくの手をにぎり返してきた。久野だ。
「大丈夫、ここにいる」
 全然大丈夫じゃない。ぼくだって、あまりの暗さにおかしくなりそうなくらい心臓がばくばくいっている。
 だけど、声を固めてそう言った。久野が不安にならないように。あんまり上手に出来なかったかもしれないけれど。
 きゅっとにぎり返してくる久野の手は、少しうすく感じた。
 となりを振り返ってみても、久野の顔は見えない。もう少し目が闇に慣れれば、もしかしたら見えるかもしれないけど。
「ここ……どうなってるの?」
「さぁ」
 久野の小さな呟きに、ぼくはあいまいに首を振った。
 すると、ふいにうす緑の光が灯った。ぽつり、ぽつり、ぽつり。いくつもの小さな光が、やがて道のようなものがそこにあったことを教えてくれる。
 たてに真っ直ぐ伸びる、かざりのない銀色の道。細い道の両わきの壁に、緑色の光が――なんの道具もないのに光だけが、そこにくっついている。ローラー・ブレードの裏から伝わってくる床の感触は、いつか宇宙船に触ったときみたいに、やわらかいような硬いような、そんなのだった。
 道は真っ直ぐ伸びていて、その向こうは黒いかげりがある。〈船〉の大きさを考えれば、道はそんなに長くないはずだ。
 そう、あの暗闇の辺りに、たけるがいるはずだ。
 となりをみると、強張った顔の久野がいた。その足元に自転車が転がっている。
「――行こう」
 言うと、久野は小さく頷いた。それから、はっと気付いたように急にきつい顔になってぼくの手を振り払う。
「何つないでるのよ」
 ……いや、何って言われても。
「たけるくん、迎えにいくわよ。時間ないんだから」
 そう言って、先にすたすた歩いていく。
 ……灯りがあれば大丈夫なのかな。まぁ、別にいいけど。
 ぼくはこっそりため息をもらして頭をかいた。後ろを振り返ってみたけれど、扉らしきものは何もない。久野はそれに気付いていないみたいだ。
 たけるを迎えにいくことが出来たとして、どうやって出よう?
 一瞬考えたけど、やめた。あとで考えよう。
 久野の背中を追って、ぼくはローラー・ブレードを滑らせた。感触はコンクリに比べてやわらかかったけれど、滑ることには何の問題もなかった。
「なんか……へんね、ここ」
「ま、宇宙船だからね。ぼくらが考えるものと違ってもあたりまえっちゃあたりまえでしょ」
 前をいく久野に追いついて、となりに並びながら進む。空気があるのがありがたい、と思ってしまう。たけるがいるせいかも、しれない。
「天井が低いのね」
「うん」
 ぼくが手を伸ばしてみても、触れるほどだ。大人だったらかがんで進まなきゃいけないかもしれない。
 幸い、〈チルドレン〉はいない。まだこーすけが逃げられてるって事だ。
「急ごう、久野」
「言われなくても判ってるわよ」
 久野が走り出して、ぼくもブレードのスピードを上げる。少しもしないうちに、行き止まりについた。
 銀色の鈍い光りかたをした壁だ。暗がりに見えたのはこれなのかもしれない。
 ぼくと久野は顔を見合わせて、一瞬言葉に詰まる。すぐに久野に背中を押されて、ぼくは壁に手をついた。
 ぐにゃり。
「うわっ」
 小さく声をあげてしまう。
 壁がやわらかくゆがんで、ぼくの手を吸い込んだんだ。あれだ。ペンキみたいなのに手を突っ込んだときの感覚。ぬめりこむようなそれに、気味の悪さが背中をおそう。
「片瀬!?」
 壁に手を突っ込んだまま振り返ると、久野がおどろいたような逃げ出したさそうな、奇妙な顔をしていた。
「ど……どうすんの、そっから」
 問われて、困る。右手は壁に突っ込んだままだ。ぼくは少し迷って、大きく肺に空気をためた。
 ――ええい、どうとでもなれ!
 そのまま一気に、壁に体ごと突っ込んだ。
「片瀬!」
 久野の声が後ろに置き去りになる。ぐにゃりとした感触が体全部を覆って、一瞬息が詰まった。鳥肌がぞぞっとたった。
 そして、その感触がふいになくなる。
「!」
 眩しさが目を刺した。反射的にまぶたを閉じて、手でおおう。それからゆっくり目を開けた。
 何もない、明るい、白い空間だった。
 振り返ってみたけれど、久野は来ていない。ただ銀色の壁がそこにあるだけだ。
 教室ぐらいの広さ。眩しいと感じるほどに白いのは、床と天井、それからさっき入ってきた場所以外の壁が全て白かったせいだ。天井の高さは今までと同じくらいで低い。そこから、太陽と同じくらい眩しい光が降り注いでいる。
「ひろと!」
 ふいに聞きなれた声がして、ぼくは左を向いた。
 どすっとタックルするような勢いで、何かがぼくの体にぶつかった。小さな頭と大きな目。
 ――たけるだ。
「たける、よかった。無事か?」
「うん!」
 ぎゅうっとたけるがぼくにしがみ付いてくる。ほっと息をついた瞬間、後ろから肩を捕まれた。
「っ!」
「あたしよ」
 思わずぎょっとすると、すぐにそんな声がかけられた。振り返ると、むすっとした表情の久野がそこにいた。ぼくと同じように壁を抜けてきたんだろう。
「――勝手に行かないでよ」
「……ごめん」
 あの場所に置き去りにして、怖くなったのかもしれない。追いかけてきたんだ。
「亜矢子ちゃん!」
「あ。たけるくん。大丈夫ね、よかった」
 たけるは久野にも抱きついた。久野は軽くたけるの背中を叩いて、すぐにはなす。それから、ゆっくりと部屋を見渡した。
 ぼくもつられて視線を部屋中にめぐらせる。
 改めて見ても白い何もない空間だった。唯一転がっているのは、たけるの手提げかばん――登校日だから、ランドセルじゃないんだ――くらい。
 あとはただ、目の前の壁に緑色の文字のような何かが、少し浮いている。そのぐらいしか色はない。
「何でいきなりこんなとこで捕まってたの、たけるくん」
「わかんない。学校からかえろうとしたら、白い光がきてね。目が覚めたらここだったの」
 後ろで話している久野とたけるを無視して、ぼくはその緑色の光がある壁に近付いた。
 緑色の光は、文字のように見えた。もちろん、日本語でも英語でもないのだけれど。ちょうど黒板と同じくらいの広さに、端から端まで書かれている。時々、思い出したみたいにぴかりと光った。
「ちょっと。何見てるのよ片瀬。早く戻るよ」
 キィの言っていた〈チルドレン〉撹乱時間は、もうほとんどないはずだ。あせっているような久野言葉もあたりまえといえばあたりまえだ。
 だけどぼくは、その緑色の光にまるで取り付かれたみたいにそれを見つづけていた。
「片瀬!」
 じれたみたいな久野の声。だけどぼくはそれを無視して、その光る文字に手を伸ばした。

あなたたちは、何故〈チルドレン〉を連れて来ない?

 唐突に響いた声に、ぼくらは一瞬にして固まった。伸ばしかけた手が、空中で行き場をなくして止まる。
 文字が、まるで何かに答えるかのように点滅した。
何故、一緒ではない?
 久野とたけるが走りよってくるのが判った。ぼくはそっちを振り返らないで、伸ばしかけていた手を自分の胸元にもっていって握り締めた。何となく、そこにこの夏休み中いつもあった鍵を思い出したけれど、もちろん今そこに鍵はない。手の汗を自分のその手で擦り合わせようとしたけれど、手袋に包まれて汗は蒸発もしなくて気持ち悪いだけだった。
 こくん、と喉が鳴る。心臓が痛いほど、ぎゅうっと締め付けられた。
「〈チルドレン〉って――」
 音がかすれていた。くちびるをなめて、視線を緑色の文字に据えたまま、ぼくは言い直す。
「〈チルドレン〉って、あの海賊……というか、いちごパフェというか……あれのことだよね」
 どこまで言葉が通じるのか判らなかったけれど、通じることを祈って呟いた。けれどその響いた声は、すぐにぼくの言葉を否定した。
定義としては間違っていない。あなたたちの想像している『海賊』が〈チルドレン〉であることは、そこの知的生命種の記憶と照らし合わせてもあっている。だが、違う
「違う?」
わたしの言う〈チルドレン〉は――あなたたちの言う『キィ』だ
 キィだ。
 ぼくの服のすそを、後ろからたけるが握って来た。心臓がやっぱり、おかしくなりそうなほどにドキドキいっていた。
今この船内に他〈チルドレン〉がいないのは、あれが自分を追わせるようにプログラムの優先順位を撹乱したからだろう。同じ〈チルドレン〉の属性をいかして
 同じ〈チルドレン〉の属性をいかして。
 ついさっきから繰り返されている〈マザー〉とか〈チルドレン〉とか――そう言った言葉が、ぼくたちにはやっぱりよく理解できなくて。ただ、いくつか想像できるのはキィが〈チルドレン〉――あの海賊たちと同じだっていうことだとか、この声はきっと〈マザー〉なんだろうということだとか、その程度だ。
「片瀬、時間ないよ。早く逃げよう」
 後ろから久野が、小声でささやきかけてきた。だけどぼくは、久野の手を振り払って、一歩前へ踏み出した。
「片瀬!」
こちらが許可をしない限り、外へ出ることは出来ない
 静かな〈マザー〉の声に、久野が黙り込んだ。
 不安げに、たけるがぼくをにぎる手に力をこめてくる。だけどぼくは――ぼくは何でかは判らないけれど、やっぱりな、って思った。
 この〈船〉の壁は、まるでぼくらを受け入れるみたいにゆがんだ。それまでは、扉なんて見当たらなかったのに、だ。そして、ぼくらが中に入ったあとも、光が道しるべのようになっていて、けれど外へ行くための扉は閉ざされていた。
 何かがおかしいてことくらい、ぼくにも判る。
「かた……」
 片瀬、って呼ぼうとしたんだ、たぶん。だけど音になりきってない声で呟いて、久野はぼくの腕を掴んできた。
 大丈夫、なんて言葉はもう言えなかった。だけどせめてと思って、ぼくは久野とたけるの手を強くにぎった。
「〈マザー〉」
 呼びかけに、緑色の光は何の反応も示さなかった。
「――ぼく、判らないんだ。いろいろ、判らない。だから教えて欲しいんだ」
 心臓のどくどくが、指先まで広がっていくみたいだった。だけどぼくは、少し声は震えていたけれど、言わずにはいられなかった。聞きたかった。
「あなたは……〈マザー〉は、何者なの? キィは? 〈チルドレン〉ってどういうこと?」
 まるでたけるがうつったみたいに、ぼくは「なの?」をぶつけていた。
「どうして――」
 本当は、これが言いたかった。最後の問いかけを、ぼくは久野とたけるの手を強く握りなおしてから、口にする。
「――どうして、キィを消そうと、しているの?」
 緑色の光が、一瞬揺れるみたいに点滅した。
それは――

それは、わたしが〈チルドレン・プログラム〉のバグにすぎないから

 声は、思いもかけない方向から聞こえてきた。
 真後ろ。
 ぼくと久野とたけるは、弾かれるみたいにそっちに向き直って、それから三人一緒に驚きの声をあげていたんだ。
『キィ……!?』
 ぼくと久野が入ってきた、銀色の壁。その前に立って、真っ白い姿の彼女は、静かにたたずんでいた。
 白すぎる肌と、きれい過ぎる顔立ち。折れそうに細い腕の中には――こーすけが、眠ったまま抱かれていた。
 青白い顔と、きつく閉ざされたまぶた。イヤホンは外されていたけれど、肩口から二つコードが落ちている。
「こーすけ!」
 ぼくらはあわてて叫んで、それからキィとその腕の中のこーすけに向かって走っていく。
 キィはそっと床にこーすけを横たえた。
「こーすけ、こーすけ」
大丈夫。少し眠ってもらっただけ
 ぺちぺちとこーすけの頬を叩く久野に、キィはそう囁いた。たけるは混乱したように目を丸くして、キィを見上げた。
「キィ……どういうことなの?」
 たけるのお得意の「なの?」に、キィは静かにたけるを見つめるだけだった。何も言わずに立ち上がって、緑色の光が点滅する壁――〈マザー〉へと歩き出す。
「キィ! 待てよ!」
 ぼくはとっさにキィの腕を掴んだ。やわらかすぎる感触。だけどそれだって、もう慣れた。だって、この夏休み中、ぼくらはずっとキィと一緒だったんだから。
 ぼくはキィの前に回りこんで、正面からキィの両腕を掴んだ。
「どういうことだよ、これ! キィ!」
……
 キィは答えない。ぼくのほうを見ようともしなかった。ただ静かに、緑色の光を見据えている。
「キィ!」
 再度ぼくが名前を――そうだ、名前だ。ぼくがつけた、キィの名前だ――呼ぶと、キィは静かにぼくの腕を払った。
 それはそんなに強い力でもなかったのに、ぼくはキィの腕を掴んでいられなくて、ずるっとローラーを滑らせてしまった。転ぶことだけは何とか耐えて、振り返る。
「キィ――」
〈マザー〉
 ぼくの声を遮って、キィは静かに言葉をこぼした。
 それが日本語だったのは、もしかしたら――もしかしたら、だけど、ぼくらに聞かせるためだったのかも、知れない。
わたしは、帰ってきました。あなたのもとへ。プログラムの修復に、抵抗はしません
 静かな声に、緑色の光は反応しなかった。
ですからひろとたちを。――わたしの友達たちを、彼らの住むべき場所へ、帰してあげてください
 シン……と、その白い空間は静まり返った。空気まで白くなるかのような、そんな雰囲気で。
「あかんっ!」
 だけど、その空気はすぐにかき消された。
 少し苦しそうな、しぼりだす必死の叫び声。振り返ると、こーすけが上半身を起こしていた。まゆげが額の中央に集まっている、苦しげな顔でキィを見つめている。
「こーすけ、よかった」
「あかんで、キィ!」
 久野の呟きを無視して、こーすけが怒鳴る。肩口に落ちていたイヤホンを、わずらわしそうにポケットに突っ込んで、大声で怒鳴る。
「何でこんなことしてん! 逃げ切れたのに。なんでわざわざ――!」
無理なの、こーすけ
 キィが振り返って、こーすけに言った。
〈マザー〉から、わたしが逃げ切れることはない。出来ればと、願ったけれど。あなた達にかけてみようかとも、思ったけれど。でも、無理なの
「無理ちゃう! お前が消えたらなんも意味あらへんやん。またみんなで遊ぼうや。今度はアキオたちも誘てさあ!」
こーすけはいつもからは考えられないくらい、真剣だった。いつもふざけててにやにやしているのに、茶色の目には真剣さだけが宿っていた。
「そ……そうだよ、キィ! ダメだよ!」
 久野が、つられるみたいに叫んだ。だけどキィは、寂しげな表情を見せるだけだ。よくみると、その白い手の中に金色の鍵が握られている。
わたしの願いは、ひとつの星の――たくさんの想いを、消してしまう。わたしの存在自体が、星の想いを消してしまう
「わけ判らん! 何があかんねん!」
それに
 こーすけの叫び声を無視して、キィは続けた。
わたしは、あなたたちに、あの町で笑っていて欲しい
「キィも一緒がいい」
 ぼくは、気付くとキィを見上げてそう言っていた。
「キィも一緒がいいよ、ぼくたちは。ねぇ、どうして――」
 ぼくは振り返って、緑色の光を――〈マザー〉を見た。
「どうして、キィを消そうなんて、言うの。プログラムのバグって、どういうことなの?」
 〈マザー〉の沈黙は、一瞬だった。
 それから、緑色の光は強く瞬き始める。強く、強く、強く。
 そして、〈マザー〉の光は白い空間を、キィも、ぼくらも一緒くたに飲み込んだんだ。


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