第七章『ともだち』


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 防波堤の地面が迫る。ぼくらが飛び降りた船のかけらは、ぼくらとは逆の方向に落ちていっている。
 視界の隅でそれを確認すると同時に、ひざに大きな衝撃がきた。
 自分の体と重力と飛び降りた勢い、それから抱きかかえている久野の体。全部の勢いと重さがひざにのしかかってきて、声をあげられないような痛みが走った。
 体が前に投げ出される感覚を何とか押さえつける。
 ローラーが悲鳴を上げるみたいに鳴った。勢い良く転がるローラーを必死で制御する。
 それでも、バランスはやっぱり崩れた。体が横に滑る。
 久野の頭を抱え込んで、ぼくは転がった。頬に熱い感触が時折走った。
 だけど勢いはずっとは続かなかった。
 数メートルは横滑りして――そうしてぼくの体は動きを止めた。
 同時に激しい水音が聞こえてきた。水柱が上がったのが見えた。船が落ちたんだ。
 ほっとした。
 止まっていた呼吸を再開させて、ぼくは久野の体から手を解いた。
「久野……大丈夫?」
 呼びかけると、呆然とした久野の顔がそこにあった。それがすぐ、ぐしゃりとティッシュを丸めたみたいにゆがんだ。
 ぼろぼろっと涙が零れだす。
「ひっ、久野? 怪我した!?」
 慌てて言葉をかけたぼくに、久野は思いっきり首を左右に振った。そのまま泣きながらぼくのシャツを掴みなおしてくる。
「……こわ……かった」
 ――ああ、そっか。
 そりゃそうだ。あんな体験、普通ありえない。怖くて、当然だ。
 ぼくは少しだけためらって、それからそっと久野の頭をなでた。
「もう、終わったから」
「……」
 久野は答えずに、しゃくりあげながら頷いた。体が、重い。
 夕焼けがまぶしかった。
「キィ、大丈夫?」
――今のところは
 静かに頷くキィの声と同時に、遠くからぼくらを呼ぶ声が聞こえてきた。
 こーすけとたけるが、海から何とか上がってこれたんだろう。
 ぼくは大きく息をついて、ポケットのなかの『種子』を確認した。空を見上げる。
「……何とか、なるもんだね」
 呟きが潮風に飛ばされていった。なんだか少しだけ、おかしくて笑った。

 海水でべとべとのこーすけとたけると合流して、防波堤の端に座る。
 久野は泣き顔が見られたのが恥ずかしかったらしく、泣き止んだ後はこっちを見てくれなかったけど――まぁ、いいや。
「キィ、姿、だせる?」
――少しなら
 キィが頷いたから、ぼくらはそろって目を閉じた。真っ白い光が広がる。それがなんだか、あたたかいって思えた。
 少しして目を開けた。
 白いキィの姿がそこにある。
 ぼくらはそれがうれしくて、顔を見合わせてけらけら笑った。
「な。何とかなるもんやろ?」
 こーすけが笑いながらそう言った。海水で張り付いた前髪が、夕焼けにきらきらしている。
 キィは夕焼けの中でもやっぱり白いまま、少しだけ寂しそうな顔を見せていた。
「キィ、どうしたの? ……船が落ちて、やっぱり、哀しいの? 寂しい?」
 キィの様子を見た久野が、首をかしげた。ぼくらは少しだけ笑うのをやめて、キィを見つめた。
それもある。だけど――それより、あなたたちと別れることが……寂しい
 別れる――?
 キィの言葉はぼくらから表情をぬすんでいった。どんな顔をすればいいのか判らないまま、ぼくはキィの白い瞳を見つめた。
「キィ……? 別れるって、どういうこと?」
 だってキィはここにいる。〈マザー〉だって、バックアップデータの鍵だって、ぼくが持っている。〈船〉は壊れたけれど、でも、キィは今ここにいる。別れるって、どういうこと?
 潮風が、ずぶ濡れのぼくたちをかすめていった。少しだけ寒気がした。
「キィ、どういうことだよ」
 怖くなって、キィの腕に手を伸ばした。
 だけど、ぼくの伸ばした手はキィの腕に触れることなく――すうっと、すり抜けた。
「――……」
 何もいえなくて。
 顔が強張ってかたくなるのを自覚しながら、ぼくは伸ばした手をどうすることも出来なくて、そのままキィを見上げた。
 防波堤の端、ぼくらのすぐとなり。
 夕焼けに染まることのない白い姿のキィは、静かな表情だった。
質量再生プログラムにもバグをきたした。そろそろ、お別れ
「……なんでや」
 震えるような小声は、こーすけが漏らしたものだった。
〈マザー〉に損傷が起きたから。わたしは――〈チルドレン〉はもともと〈マザー〉と同じ存在だから
「でも鍵も種子も、ここにある! 〈マザー〉もバックアップデータもあるのに!」
 思わず叫んだぼくの言葉に、キィはすっと目を細めた。
わたしがバックアップデータ側の〈チルドレン・プログラム〉だと気付いていたのね
「考えたんだ! だから、大丈夫だろ!? 鍵はここにあるよ!」
 首に下げていた鍵を引っ張り出して、ぼくはキィに見せた。
 だけどキィは、静かに首を振った。
わたしのせいで、バックアップデータそのものにバグが生じていたの
 ――その言葉に、夕焼けの町並みが急に夜になったような気がした。視界が暗くなる。
結局、わたしは本来存在しえないものだったから――こうなることは、決まっていたんだと思う
「そんな……そんなの、ない!」
 久野が悲鳴みたいな声をあげた。触れられないキィに、何とかそれでも触ろうと手を伸ばしている。
「だって、だってそんな。じゃあ、もしかしたら――〈マザー〉が壊れなかったら、キィは大丈夫だったんじゃないの? 〈マザー〉から逆にデータを上書きしたら、大丈夫だったんじゃないの?」
 キィが少しだけ目を開いた。それから、穏やかな夕暮れみたいな表情で、呟く。
亜矢子は本当に頭がいいね
 それは――イエスってことだ。
 何かに頭を殴られた気がした。
 だったら、それは――キィがキィでいられるはずだった可能性をぼくらが壊したってことになる。〈マザー〉を壊したのは、ぼくらなんだから。
 何を言えばいいのか判らなかった。声がでなくて、喉が詰まる。指先がじんじんとしびれ始めていた。
 ぼくらが、キィを壊したことに、なる――
 頭が真っ白になりそうだった。
待って。誤解、しないで。もし〈マザー〉が無事でデータを上書きできたとしても、そうなれば〈マザー〉はわたしを放っておかなかったはず。バグを修復しようとしたはずだから、結局はわたしは消えていた
 キィがなぐさめるみたいに言ってくるのが、逆に悔しかった。
 ぼくらは、何て事をしたんだろう。
 また、視界が揺らぎ始めた。
 顔が、熱い。
ひろと
「――そんな、の。いやだ。だってそれじゃあ、どうやったってキィはキィじゃいられなかったってことじゃんか。そんなのいやだ」
ひろと
「おかしいよそんなの!」
 大声で叫んで、その瞬間、また涙がこぼれた。
ひろと。結局わたしはあなたたちとは違う。数字の羅列、記号のバグにすぎない存在。確定しないものだから、いつかは消えるものだったの
「そんなん関係あらへん!」
 怒鳴ったのはこーすけだった。
 溢れてくる涙を必死に飲み込みながらみると、こーすけもぼくと似たような赤い顔をしていた。目元が揺らぎ始めているけど、でも涙は零れてない。
「関係あらへんで、キィ! おまえが何やろうと、宇宙人やろうがプログラムやろうが、関係あらへん。ともだちやろ!」
「そうだよ、キィ」
 久野は泣いていなかった。必死に涙を堪えてるみたいに、強張った顔で、だけど真っ直ぐにキィを見つめていた。
「すごい確率で、ともだちになれたんだよ、あたしたち。だからそんな哀しい事、言わないで」
「キィ、ともだちだよ! キィもこーすけもひろとも亜矢子ちゃんも、みんなともだちだもん!」
 たけるも、必死さを表すみたいに両手を振り回しながら早口で言う。
 ぼくも涙をふいた。心のどこかに落とし穴でもあいたみたいに、痛かった。
「キィに逢えて、ぼくはうれしいんだ」
 キィはぼくらを順番に見つめて――
 それから、ふっと表情を崩した。目を細めて、くちびるをあげた。
 笑った。
 キィの笑顔は……こんな自然な笑顔は、はじめてだった。
ありがとう。あなたたちは、わたしのともだちね
 そう告げたキィの言葉に、ぼくは確信してしまった。
 さよならを。
 もう、本当に――さよなら、なんだ。
 どうしようも、ないんだ――
 また涙が零れそうになる。だけど、ぼくはそれを必死に押さえ込んだ。ぼくだけじゃない。こーすけも久野も、たけるも、みんな我慢しているはずだ。
 今ぼくらが泣いちゃ、ダメだ。今ぼくらが泣いたら、きっとキィが心配する。
 だから、泣いちゃダメだ。
 キィは優しい笑顔のまま、ぼくに言った。
ひろと。最後の賭けをしない?
「賭け……?」
可能性は一パーセントにも満たないかもしれない。限りなく、低い。分が悪い賭けだけれど――
 キィはそういって、ぼくが握り締めていた『種子』を指さした。
もう一度、あなた達に逢えるように
 可能性は一パーセントに満たない賭け。
 だけど、ゼロじゃない。
 ぼくらはちっぽけな可能性にすがりつくみたいに、思いっきり頷いた。
「やるよ! 何でもやる! キィ、どうすればいいの!?」


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