Chapter3. 犠牲と覚悟 - 5

「――何ですって?」
 アギラールも思わず声を低くしていた。そもそもコルテス軍はキューバのベラスケス総督の指示を受けて、新大陸探索に乗り出したものだと聞いていた。もちろん、あの地獄を抜けだしてこの軍に拾ってもらった時にコルテス本人がそう告げたのだ。それが、嘘だというのか。
「俺たちは第三次探検隊だ。最初はコルドバだな。奴がこの地を発見した。ベルナル・ディアスはその時もいたらしいが。二回目はグリハルバ。そいつが、ここに金が大量にあるらしいと知らせを持って帰ってきた。で、本格的に探索に乗り出そうと第三次探検隊が組まれることになった。出資者はベラスケス総督だ。指揮官はいろいろ考えた末、俺が選ばれた」
「選ばれたんじゃないですか」
「ああ。だが、いざ出航って時期に怖気づいた」
 コルテスは太い指で自身の髭を弄んで笑った。
「まぁ、元からベラスケス総督とは色々あったからな。俺に不信感を抱いているのは気がついていた。だが、俺以上の適任者は見当たらなかったんだろう。渋々選んだ。しかし、出航が目に見えてくると、ああだ。愚かしい。わざわざ港まで来て、延期しろと言い出した」
「無視をしたんですね」
 コルテスが笑みで答えた。肯定だろう。
 ベラスケス総督を無視したとなれば、それは国王の許可を得ていないという事にもなる。しかし、アギラールはそこには眼をつぶるしかなかった。あの時期にマヤの地に来てくれていなかったら、アギラールはまだ地獄のただ中にいたことになる。
「だからまぁ、なかなかこの軍は不安定だぞ、アギラール。総督側についてる者も少なくはない。怯えて、キューバに帰りたがっているものもいる」
「アロンソ殿の言っていたのはそれですか」
「ああ。あいつは俺寄りだ。信頼していい。だが、抑えきれなくなっているようだな。ここらでひとつ手を打ちたい。俺は外に力を使いたいんだ。中でもめていたら勿体無いだろう」
「判りました。それで、先のことというのは?」
「ここに市を作る」
 あっさりと告げられた言葉にアギラールは目を瞬いた。
「市……ですか」
「ああ。市会を作る。議員、議長を定める。で、俺はいったんベラスケス総督の命じた第三次探検隊司令官を降りる」
「降りる? 何故ですか?」
「市議の議長から、新たな司令官に指名してもらえればいいのさ」
 これにはさすがにアギラールも呆れ返った。
「悪知恵働きますね」
「だろ? もっと褒めて」
「……」
「つれねぇなぁ、部下一くん」
「アギラールです」
 答えながらアギラールは嘆息した。なるほど、と思う。そうすることでベラスケス総督の指令下から脱することになる。もちろん、ただの形式上は、だが。しかしこの手法は昔から植民地を得るためには行われていたものだ。本国に報告したところで今更それを拒否もできないだろう。おそらくコルテスはそこまで踏まえて、これを決めたと見えた。
「今のところ市議長にはアロンソを置こうと思う。ここは拠点になる。絶対の信頼を置けるものを残したい。いささか、もったいないとは思うがな」
 アギラールは頷いた。それからふと、気になる。
「マリンチェはどうします?」
「どうしたい?」
「……どうしたいって。貴方がアロンソ殿に渡したんでしょう」
 妻にしてもいい、妾にしてもいい、そういう意味合いで分配したのだろう、と告げるとコルテスが大声で笑った。
「忘れてたわー。あったなぁ、そんなの」
「……あのですね」
「まぁ、どっちにしろ、どうしたいお前?」
「どうするもこうするも……通訳としてはいるでしょう。まぁ、それ抜きにして、こんなところで決めていいものでもないでしょうが」
「そうか?」
「自分のことは自分で決める、といいそうです。彼女は」
 アギラールの言葉に、コルテスの動きは早かった。天幕を出ると、繕い物をしていたらしいマリンチェに声をかけた。が、エスパニャ語だ。マリンチェはやや怪訝な顔をしながらもなんとか耳を傾けている様子ではあったが、アギラールの姿を見つけると短く息を吐いた。
「何言ってるの?」
「……今後、どうしたい、と。ここでアロンソ殿を置いて行かれるらしいんだが……」
「え?」
「ここを市にするらしい。その議長として、アロンソ殿を選ばれるらしいんだが……お前は一度、アロンソ殿に渡されただろう」
「ああ」
 マリンチェは少々不満そうに鼻を鳴らした。
「ここにいろって? アロンソの女だから?」
「どうしたいか、と訊いているんだ。決めたわけじゃない」
 マリンチェがきょとんと首を傾げた。時折見せるそういう仕草は年頃の少女らしく、愛らしく見えた。
「私に決める権利を?」
「与えている。お前のことだろう」
 マリンチェが二度、三度瞬きをした。それからふわりと笑みを浮かべる。
「じゃ、簡単ね。ついていくわ。貴方たちがここにきて、モクテスマと交流を持ちたいって言うならそれを見届けたい」
 アロンソにそのことはすぐに伝えられた。彼自身考えるところもあっただろうが、生真面目に頷いた。その日から市の建設が始まった。市を、ベラクルスとコルテスは名付けた。――ラ・ビリャ・リカ・デ・ラ・ベラ・クルス。正十字の豊かな街、という意味だった。
 中央広場を定め、教会や議会庁なども設けられた。ささやかではあったが、オルメード神父の歌声とともに記念式典も開いた。そういう形こそ、今は必要に思えた。
 市の建設が行われる間、アギラールはマリンチェにスペイン語を叩き込んだ。恐ろしく飲み込みが早く、アギラールは驚いた。と、同時に納得もした。彼女はこうして言葉を得ることで生き残ってきたのだろう。そしてそれは多少、自分の境遇とも似ていた。
 市の建設は滞りなく進んでいった。懸念していた食糧も、センポアランの民が運んできてくれた。ただ、アギラールには別の懸念が芽生え始めていた。事あるごとに、アロンソが呼び出してくるようになったのだ。
「また、ですか」
「お手間をとらせます」
 不満たっぷりに言ったはずだが、アロンソはただ微笑むだけだ。人気の少ない海岸の端で、彼は手にしていた二本の剣の一本を差し出してくる。
「何度も言いますが、私は神に仕えるものです。兵ではありません」
「ええ。存じてます。ただの戯れだとお伝えしているでしょう」
 剣の手ほどきをしてくるのだ。迷惑だと幾度となく訴えてみたが、聞く耳は持ってくれない。
「私はこの軍を離れます。貴方は通訳としてコルテス殿の傍にいることになる。お守りする義務が生じますよ」
「……コルテス殿は兵の訓練を受けておいでと聞いています。私などがお守りする必要はないでしょう」
「アギラール殿」
 有無をいわさず、アロンソはアギラールに剣を渡した。構えて、笑った。しかしいつもは細まっている目は鋭かった。
「後悔するときには遅いんですよ。その時が来たときに、道を切り拓けるようにしておきなさい」