Chapter7. 裏切りものども - 4



 雨の中、時を待った。明け方近くなって、センポアランの空気が動いた。見張りの交代のようだった。素早くアロンソ・ヘルナンデス・プエルトカレーロが動いた。声を出させずに捕らえる。陣営に引きこむと素早く尋問し、敵軍の配置を吐かせた。センポアランは一度滞在した街だ。兵の告げた場所はコルテスもアギラールもよく理解できた。ナルバエスは、あろうことか神殿に陣を構えているという。コルテス軍は先発隊を送り込むことにした。そして――夜明け前の藍空に決めていた合図が、放たれた。
「立ち上がれ、裏切り者どもよ!」
 一斉に合図が駆け巡っていった。叫びが広がると同時にコルテス軍はセンポアランの中心を抜け神殿を駆け上がった。すでに先発隊は剣を振るい始めていた。あちらこちらで怒声が上がった。合図の言葉と剣戟の音が響きあう。乱闘だった。否――あるいはそれは虐殺に似ていた。センポアランの兵も含めれば圧倒的な戦力差だった。その中で神殿に火が放たれた。センポアランは事前に友のためならばと許諾していた。暫くして絶叫が上がった。その悲鳴こそが、ナルバエスのものだった。目をやられたのか、這々の体で神殿から逃げ出してきたところをコルテスが捕らえた。
「降伏せよ、愚か者ども!」
 コルテスの怒声に、ナルバエスもその部下も平伏した。それはコルテス側の完全なる勝利を意味した。
 いつしか雨が上がっていた。空気が温まり始めている。アギラールはほっと息をついた。
「終わりましたね」
「ああ。それほど面倒にならずにすんで何よりだったな」
「早く、帰りましょう」
「……、まぁ、何を考えてるかは判るがな」
 呆れたようにコルテスが苦笑する。アギラールは肩を竦めてみせた。
「開き直りましたので」
「あー、はいはい。うざったいな」
 しっし、と手で払われて苦笑いしか出て来なかった。
「預けてある問いがあるんです」
「問い?」
「答えが知りたいんです」
 センポアランの各地には大砲や騎馬も配置されていたがそれらは押収された。だが、コルテスはナルバエスを殺しはしなかった。ナルバエス自体はキューバへ送り返すことにしたが、その部下の中で希望するものはコルテスの麾下に入ることを許可したのだ。この地の豊かさは判っていたのだろう――ナルバエスの部下の多くはそれを飲んだ。黒人の奴隷などもいたが、帰る選択肢を選びはしなかった。
 一旦の体制立て直しが行われた。ナルバエス軍の吸収で、コルテスの軍は兵力を増した。いくつかの隊は各地へと派遣し、地方を固め始めることとした。本隊はテノチティトランへの帰還準備を終え、最後になったアロンソとサンドバルの率いる隊がベラクルスへ帰還するのを見届けようとした矢先だった。テノチティトランからの報せが届いた。
 エスパニャ軍がテノチティトランで孤立し、アステカの民が包囲している。
 ――それは思ってもいない凶報だった。



 一方的な虐殺だった。しかしすぐに、反撃が始まった。マリンチェたちは傷を負いながらもなんとかアシャヤカトルの宮殿へと逃げ込んだ。だが、追手は続いた。アシャヤカトルの宮殿は、広大な中庭を持つ。エスパニャ兵は宮殿内部に住んだが、トラスカラの兵は中庭で野営を行なっていた。コルテスたちに付き従わずに残っていたトラスカラ軍も攻撃の対象となった。彼らもまた必死で対抗した。アステカの民は怒り狂っていた。だがマリンチェは当然だ、と思った。何の意図もなく唐突に殺されたのだ。祭事を邪魔され、神を否定され、ただ殺された。寛大な対応など、出来るはずがない。
「マリンチェ様」
「私は大丈夫」
 傷を負ったマリンチェの腕を治療しながら、テクイチポが泣きそうな声を上げた。マリンチェは硬い声で頷く。
「私は、大丈夫です。……申し訳ありません、テクイチポ様」
「いいえ。いいえ。マリンチェ様、謝らないでください」
 マリンチェは下唇を噛んだ。少し、苦い。ただひたすらに悔しさがこみ上げてくる。
「何故あんな真似をしたの」
 噛み締めた歯の間から、マリンチェは声を絞り出した。叩きつける。
「何故あんな真似をしたの!」
「間違っていたとでも?」
「そう思わないの!? 皆怒っているわ! 囲まれた、もう周りは敵だらけよ!」
「見ろ! 元々俺たちを殺そうとしていた証拠だ!」
 マリンチェは絶句した。本当にこの目の前の男が話しているのがエスパニャ語なのか、一瞬判らなくなる。自分のエスパニャ語が通じていないのか。そうとさえ思えてしまった。言葉ではなかった。言語はただの道具で、道具では人の心にまで手は届かなかった。
 道は閉ざされた。周りはアステカの怒り狂った民であふれている。トラスカラ兵の懸命な抵抗の声が響いていた。テノチティトランへ続く堤道の橋も落とされ、市は閉まり、非常時のために用意していた船も焼かれたようだった。もはや完全に孤立状態だった。食料の調達もままならなかった。
 ひたり、ひたりと。足音を立てて迫り来る絶望に、マリンチェは必死に抗うしかなかった。
 ふと、アギラールの顔が浮かぶことが多くなった。食事も水もつき、ただじりじりと疲労するだけの意識の中で彼の顔が不意によく浮かんできた。陽色の髪。空と同じ色の瞳。強く握ってくれる手に。
 ――逢いたかった。



 胃がちりちりと焦げていくような焦燥感があった。急行軍だった。馬を早駆けさせ、昼も夜もなくテノチティトランへと向かった。アロンソとナルバエスも今回はついてきた。通る街々に人影は少なく、気味が悪いほどだった。途中一泊した街も、首長はいなかった。
「良くないな」
 コルテスが低く呟いた。軽い食事を口にしたが、いくらも入らなかった。
「おいアギラール。食っておけ」
「――判っています」
「大丈夫だ」
 死なせてたまるかよ、とコルテスが皮肉じみた笑みを浮かべた。待ち伏せがあるだろうと考え、一度目にテノチティトラン入りした時に使用した堤道は避けることにした。早る気持ちはあったが、助けに行けなくては無意味だとのコルテスの説得に応じた。テスココ湖の北側を大きく周り、別の堤道から入ることにした。ここは、いくつかある堤道の中でもテノチティトランへの距離が一番短かった。
 守りを堅め、テノチティトランへ進む。だが、抵抗は一切無かった。
 テノチティトランに人影は殆ど無かった。街の人々が息を潜めているのが判る。馬上のコルテスがはっ、と短く笑った。
「チョルーラだな」
「……ええ。判っていて入っていくのは、中々気持ちの悪いものですね」
 それでも進む以外に道はなかった。
 アシャヤカトルの宮殿に入るとすぐ、異変に気付いた。中庭のトラスカラの兵達に、死者が出ていた。宮殿内へ駆け込んだ。一番広い部屋へ駆け込んだ時、アギラールはたまらず悲鳴をあげていた。
「マリンチェ……ッ!」
 部屋の隅。壁にもたれかかるようにして瞳を閉じた少女がいた。美しかった黒髪はぱさついている。頬もこけていた。隣には同じような様子の幼い少女――テクイチポもいた。互いの手を強く握り合っている。
 抱き上げる。うっすらと瞼を持ち上げたマリンチェが微笑んだ。生きている。安堵した瞬間、細い腕が首にかかった。
「マリ」
「おかえりなさい」
 かすれた声で、マリンチェが言った。