序幕:宿命―さだめなる―

戻る 目次 進む

 松の音が響いていた。
 境内を震わすように続く雨音の中、風に煽られた神木の松がざわざわと悲鳴を上げている。
 淋しげだと感じる。感じると同時に、ほたるはその感傷を打ち消した。
 淋しげなのは響く松の音でも雨垂れでもなく、目前に座する祖父の双眸だ。
 祖父は青褐の着物を身に纏い、平時と変わらず背筋を伸ばして座っている。
「水無月が、間も無く終わる」
 水無月、松風月、風待月。呼び名はいくらでもあるこの六月は、あと一週間もすれば終わろうとしていた。それはほたるが十六の誕生日を迎えることを指していて、同時にその命の灯火も消えようとしていることを指していた。
 拝殿の中は外の風雨など物ともせずに静まり返っていて、祖父の言葉だけが、ただ耳に痛い。
「ほたる」
「はい」
「生きたいか」
 この上なく端的な祖父の問いかけ。その言葉に、ほたるは躊躇いもなく頷いていた。
「はい」
 返答に、祖父は目を細めた。ふっと眉間に皺が寄る。深く低い息が口をついて漏れた。ともすれば不機嫌に、あるいは怒っているようにも見えるこの顔が、この老人の苦悶の表情だと判るのは身内くらいのものだろう。そして身内は、もう孫であるほたるしか残っていない。
「助かる術は、ひとつ」
 そう言って祖父が差し出したものは一枚の写真だった。
 大人しそうな、平凡な顔立ちの少年が写っている。
「この男の御魂を弱める――『殺す』のだ」
 外で、また激しく風が鳴いた。ほたるは写真を持ったまま、祖父を見上げる。老いてなお強い眼差しは、その言葉が決して虚偽でも戯言でもないことを強く物語っている。
 助かる術はひとつ。
 この男を殺すこと。
 ほたるは一度深く息を吸い込み、それからゆっくりと唇を開いた。
「この方の名は?」
 祖父もまた同じくゆっくりと唇を開く。
 風が、鳴いていた。
「松風亮――」



戻る 目次 進む