第一幕:邂逅―めぐりあふ―  弐


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 ◇

 だしの味を味醂で調えながら、亮は肩に挟んだ携帯電話の向こうからの声に耳を傾けていた。
 呆れたようなため息が流れてくる。多分実際に、呆れかえられているのだろう。
『あのね、松風。君は本当に脳みそが足りないの?』
「そんな棘のある言い方しなくても……」
『いくらでも棘を含んであげるよ。本当に莫迦だね。救いようがない』
「そんなこと言われたって……気になったんだから仕方ないじゃないっすか」
 味見をしてから落し蓋をした。弱火にする。後は暫く煮込めばいい。その間にさっき取り込んでおいた洗濯物を畳もうと居間へ移動する。時也の冷たい声は耳元でやまない。
『あのね。理解してないならもう一度言うけど、君は殺されそうになったの。判る?』
「判ってますよ。さっきから散々聞きましたよ。助けてくれてありがとうございますっ」
 口を尖らせる。結局家まで送ってもらう羽目になったのだが、その道中に聞かされていた。鈍いだの莫迦だのと罵られながら、だ。
 洗濯物を畳む。耳元では再度、大きなため息。
『判ってない。判ってるんだったら普通、あの子何があったんですかね、なんて聞いてこない。殺人未遂の人間に同情する被害者は普通、いない』
「どうせ俺は普通じゃないですよ」
『いや、悲しいくらい君は普通なんだけどさ』
「どっちだよっ」
『普通の人間だよ。ただ、きちがいな程にお人好しだって言ってるの』
 言われて、唇を噛む。お人好し。それは理沙にも、姉にも、クラスメイトにもしょっちゅう言われている言葉だ。度をこすと、褒め言葉でもなんでもない。
 確かに時也の言うことも尤もだろう。狙われた人間が狙ってきた人間を気に掛けるのは、道理違いだ。判っている。それでも気になってしまう。目に焼きついた、少女の思いつめた瞳。
「だって俺、あんな子に狙われる覚えなんてないし……先輩だって、知らない子なんでしょ?」
『あれは君狙い。名前確認してたじゃない』
「心当たりないんですってば」
 本来なら警察に行くべきなんだろうと思う。ただ、亮は気乗りがしなかった。時也が何かを言うかとも思ったが、それもなかったので結局うやむやのまま一一〇の番号は押さずにいる。
『心当たりがなかろうが、狙われたのは事実。現実。判る?』
「判りますけど」
『だったら、相手に同情なんてしない。そんなことしてたら、命がいくつあっても足りないよ?』
 時也は笑ったようだった。苦笑、かも知れない。
『とりあえず暫くは周囲に警戒することだね。死なないように』
「シャレにもなりません……」
 うめく。それから二、三言交わしてから通話を終えた。大きく、息を吐く。
 亮自身理解している。馬鹿な考えだと判っている。それでも、気になるものは気になるのだ。
 普通、あんな目をするだろうか。何故狙われたのかは判らない。けれど、人を殺そうとする人間の目ではない気がした。殺意や憎悪といったものは感じられなかった。瞳に篭められていたのは、もっと違う別の感情だ。
 少しの間、手を止めて考えた。考えれば考えるほど判らなくなって、結局今度は考えないようにしきりに体を動かした。洗濯物を畳んで、料理をみる。火を切ってから暫く置いておくのが煮物のコツだ。その間に風呂掃除もすます。家の事は殆ど、亮ひとりでやっていた。別に片親家庭だとかそんな事情があるわけじゃない。両親は健在で、姉も一人いる。ただ、両親は仕事上夫婦そろって海外を飛び回っていて、姉はこれ幸いとばかりに彼氏の家に入りびたりでなかなか帰ってこないため、結局一人暮らしとあまり変わらない状態になっているのだ。
 松風家は日本家屋の一軒家だ。気に入ってはいるのだが、日本家屋の広さは一人暮らしには向いていない。理沙に言わせれば『すうすうする』そうだ。その感覚は、確かにあるのだ。
 七時過ぎに、理沙がやってきた。『すうすうする』ことを嫌ってなのか、食事はひとりでとるものではないと思ってなのか、それとも単純に亮の手料理にありつきたいがためなのかは知らないが、家が近い理沙はよく松風家にやってくる。そしてたいてい、夕食を共にする。ひとり分も二人分も作る側としては大して変わりないので、亮もこばむことはない。
 冷えた煮物を一度温めなおして食卓に出す。味は、我ながら美味いと思う。薄味の筑前煮と、冷奴。大根の味噌汁。やや濃い目に味付けした作り置きのひじきの煮物はご飯にあう。実際理沙の箸は進んでいる。けれど、亮の箸は進まなかった。
「どしたの? 全然食べてないじゃん」
 向かい合っていた理沙が首を傾げた。私服の理沙は、いつも髪を下ろしている。ポニー・テイルに結うのは部活の時だけだ。肩口までの髪が、さらりと揺れた。
 ぼんやり、理沙の姿を観察する。白と黒のボーダーシャツに、カーゴパンツ。白と黒。色彩は同じなのに、夕方逢ったあの少女のような消えてしまいそうな気配は微塵もない。どうやら彼女に抱いた印象は、衣服のせいだけではないらしい。
「おーい。ちょっと亮? 何かあった?」
「え? ああ、いや。その……期末のこと考えて欝になってた」
 咄嗟に、嘘を吐いていた。理沙を巻き込みたくないと考えたのと、事のあらましを話した後に警察に行けと強要されることが嫌だったからだ。ただ、幼稚園からの付き合いの理沙に、こちらの嘘がばれないとは思えない。案の定、理沙の目がすいと細められた。視線から逃れるように、味噌汁の椀を持ち上げて啜る。理沙が、ふっと息を吐くのが判った。
「ったく。やめてよね、ご飯中に期末の話とかさ」
 ばれないですんだのか、それとも追求しないでくれただけなのかは判断できなかったが、亮は言葉に乗ることにした。冷奴を切りながら、口を開く。
「んなこと言ったって、七月頭からだし、後十日ちょいじゃねえか」
「やめいっちゅーに。あたしはそれより明後日の試合なのっ。期末はその後!」
「試合?」
「隣町の花総との練習試合。一年同士の顔合わせ的な試合もあってさ、出させてもらえることになったのさ。まぁ、メインは二、三年の本チームの試合のほうだけど」
「へぇ、すごいな」
「ふふ。理沙さん有力選手ですからね」
「言ってろ」
 突然、懐かしい音楽が流れた。中学の頃に習った気がする。和風のこれは――
「……なんで荒城の月」
「あ、ごめん。きさらからの電話だ。ちょい待って」
 携帯電話をカーゴパンツのポケットから取り出して、理沙が通話ボタンを押す。春高楼の花、で荒城の月はぷちりと終わった。どうでもいいが、着メロにしては渋すぎる。
「もしもし、きさら? うん。ああ、判った。いいよ。八時半でいい? うん。じゃ、いつものかんなぎ様のところで。え? ばっか、違うよ。うん、あはは、はーい。じゃねー」
 電話はすぐに終わった。携帯電話を今度は卓の上に置いて、理沙はもう一度箸を持つ。
「待ち合わせか?」
「そ。明日、あたしもきさらも部活だから、一緒に行こうって」
 来週からは、テスト週間前になって部活動も休止になる。その前にあがきたい部はバスケ部ばかりではないらしい。
「ところで理沙、荒城の月ってどういう選曲だよ」
「えー? きさらのご要望。好きなんだってさ」
「……渋いな」
「うん。あたしもそう思う」
 からからと、理沙が笑う。理沙の笑いは、時也の笑みと違って裏がなくてほっとする。そのおかげか、止まっていた箸も何とか進んだ。食事があらかたすんだところで、チャイムが鳴った。食後のお茶を啜っていた理沙が玄関を振り返る。
「お客さん?」
「こんな時間にか? 回覧板か何かだろ。最近ごみ出しのルール守ってない奴がいるからなぁ」
「主夫ー」
「どやかましい」
 理沙の頭を軽くはたいて玄関に向かう。その最中、もう一度チャイムが鳴る。
「はいはいはい、少々お待ちくださいなっと」
 言いながら玄関の引き戸を開け――
 次の瞬間、全力で戸を閉めていた。派手な音が響く。かまわず、鍵を閉めた。
 さあ、っと血の気が引いていく。
 今のは、何だ。
 どくどくと心臓が高鳴っている。今見たものが、信じられなかった。
 玄関の前、薄暗い外灯に照らされて立っていたのは、回覧板を持った向かいのおばちゃんではなかった。小柄な少女だった。黒く長い髪。白い肌。不思議な色をたたえた瞳。
 夕方の、少女だった。
 ふいに、胸が痛んだ。いまさら、恐怖が押し寄せてくる。地面に落ちたナイフ。一瞬過ぎて何が起きたのか理解はしていなかったが、今なら判る。時也がいなければ、あれは確実に自分の腹に刺さっていただろう。そして時也は今、ここにいない。
 あの思いつめたような両の瞳だけが、扉のすぐ向こうにある。そして自分を、狙っている。
 死んでください、と。
「ちょっと亮、何? すっごい音したけど――ってちょっとマジ何ー!?」
 のほほんと廊下を歩いてきた理沙を引っつかみ、奥の部屋へと戻る。引きずられる格好のまま、理沙が悲鳴を上げた。それもまた無視して、家の一番奥、寝室へと飛び込む。襖を閉めて、理沙の肩を正面から掴む。
「理沙っ」
「な、なに。気持ち悪いな」
「どうしよう」
「何がっ!?」
 理沙が声を荒らげる。その間にも、玄関からはチャイムの連呼が響いていた。その音が、びくりと背中を震わせる。
「あ。あああ」
 意味のない呻きを漏らして、亮はうろたえた。可哀想なものでも見るかのような理沙の視線が痛い。チャイムが鳴り続ける。開けろというように。死んでくださいと、何度も叫ぶかのように。ぞっとした。チャイムが鳴る。死んでください。死んでください。死んでください――
「……殺されるっ」
「って、こらあっ、状況説明しなさいよっ! ちょっと、何電気消して……蒲団出してあんた何やってんの!? ばっかじゃないのっ、坂本のおばちゃんに殺されるわけ!?」
「何で俺が坂本のばばあに殺されなきゃならん!」
「回覧板だったんでしょ!?」
「回覧板が俺を殺すのかっ」
 支離滅裂だ。亮自身、判っていた。電気を消して蒲団を被って理沙に怒鳴って、一体何がどうなるものでもない。判っているのだが、混乱した頭では正常な判断もつけられなかった。
「もー、何なのよ。誰が来たの?」
「玄関に行くなっ」
 遠ざかる理沙の気配に慌てて蒲団から顔を出した。理沙の足を掴む。掴まれ、しゃがんだ理沙が冷たい目を向けてきた。呆れられている、らしい。そのまま、ばさりと蒲団を被せられた。
「怯えるなら怯えてなさい。玄関には行かないわよ、居間に行くだけ。すぐ戻ってくるから」
 言うなり、こちらの返答も待たずに理沙が遠ざかっていく。玄関に行ったらどうしよう。止めなきゃならないけど。と考えるうちに、すぐに戻ってきた。ほっとする。
「ねぇ亮、どうでもいいんだけど暗くて歩きづらいんですけど。電気くらいつけていいでしょ」
「だめだっ、居場所が割れるっ」
「割れるも何もあんた玄関開けて応対してたじゃない」
 冷たく言い捨てるなり、理沙は電気をつけた。
「ああ、あああ」
「うるさい、亮。ちょっと黙っててよ。今助っ人呼ぶからさ」
 理沙は携帯電話を軽く振る。どうやら居間にこれを取りに行っていたらしい。携帯電話を操作して、耳に当てる。
「あ。会長?」
「時也先輩かよっ」
 亮が思わず声を上げると、うるさいと睨まれる。そのまま、いつも通りのテンションで理沙は話し始めた。
「どーもー、石川でっす。……え? あっは、残念。一生来ないですねぇ、そんな日は。じゃ、なくて。ええと、なんか亮がおかしくて。……おお、さすが会長。物分りが早くていらっしゃる。そうです、亮の家。じゃ、待ってますー、はいー。ちょっぱやでよろしくです」
 理沙が電話を切った。一瞬、沈黙が落ちる。それで気付いた。チャイムが鳴り止んでいる。玄関の方へと視線をやっているうちに、理沙が蒲団を畳み始めた。
「ねぇ、っていうか誰なの、玄関の人?」
「や、俺も知らないんだけど」
「はあ? まぁいいや。会長、すぐ来るってさ」
 理沙の言うとおり、時也はすぐに来た。再度鳴ったチャイムと同時に、玄関から聞きなれた声がする。
「松風、僕だよ。来てやったよ、早く開けなよ」
 理沙と顔を見合わせ、恐る恐る玄関に近づく。
「あ、開けていいと思うか? もういないかな。大丈夫かな」
「亮、あんたビビりすぎ。小心者め。会長が玄関にいるんだから平気でしょー?」
「先輩のまねをしてるだけだったらどうするんだよっ」
「時計の中に隠れて独りで惨劇を目の当たりにするがいいさ七匹のこやぎめ」
 冷ややかな理沙の言葉に傷つきながら、玄関の戸を開ける。
 いつも通りの笑みを浮かべた叶時也がそこに立っていた。
 片手に、あの少女を抱えた状態で。
「ちょ……っと待てえええっ!?」
 思わず上げた亮の悲鳴は、家中に響き渡った。

 ◇

「だって僕が来たら君んちの前でこの子が独りで立ち尽くしてるんだもん。気になるじゃん」
「だからって何で抱えあげてるんですかっ」
「軽かったから。何、松風。紐が良かったの? 意外とSだったりするの?」
「論点ずらしまくらんでくださいっ」
 部屋に入った後も、時也はいつも通り時也で、驚きだとか恐怖だとかとはまったく別次元に生きているようだった。
 少女は立ったままの時也の腕の中でじっとしている――のか、せざるを得ないのか、動きはない。時也は軽そうに持ち上げているが、意外と力があるのかもしれなかった。居間の中で、出来る限り距離をとりながら亮は彼女を見つめていた。俯きぎみの顔は、蛍光灯の人工的な明かりのせいで影が出来ていて良く見えない。
「亮がビビってたのって、この子?」
「やあ、石川さん。連絡ありがとう」
「別に会長に礼を言われることじゃない気がします」
 あっさり言うと、理沙は時也の前に歩いていく。少女の顔を見つめた。
「理沙、おい。危ないぞ」
「何がよ。うわー、すっげー可愛い子。お人形みたい。何で亮がビビってんの、この子に?」
「殺人犯未満なんだよ、この子」
 時也の答えに、理沙はからからと笑う。まったく信じた様子がない。理沙の腕を引っ張って、とりあえず遠ざける。胃に痛い事はやめてもらいたい。
「この子ね、夕方松風を襲おうとしたんだよ」
「うえ、マジっすか。ひゃー、積極的っ」
「理沙、違う。違うそれ違う」
 前に出ようとする理沙を必死で繋ぎとめながら呻く。そういう意味ならどれだけ良いことか。
「先輩。危ないっすよ、またなんか持ってたらどうするんですか」
 時也は器用に片手で少女を押さえ込んだまま、肩を竦めて見せる。単に抱えているのではないのかもしれない。上手く動けないようなことをしているのだろうか。
「何も持ってないよ。さすがに僕もそれくらい考えるさ。玄関、見ておいでよ。この子の持ってたポーチ放り出しておいたから。持ってるのはそれだけだったみたい」
 理沙がぱたぱたと玄関へと走っていく。時也が亮を見上げた。
「ねぇ松風。この子、放していい? さすがに疲れちゃった」
「い? え、や」
「なにもしません」
 囁くような声が割り込んできた。俯いたままの少女が、呟いている。「なにも出来ませんから」の声に、亮は躊躇った後、ゆっくり頷いた。時也が手を放す。
 少女はどさりと畳に落ちた。黒い長袖ブラウスと細いジーンズ。夕方逢ったときと同じ格好のまま、座り込んで俯いている。
 まだ、心臓は痛い。それでも、武器がないことはありがたかった。少しは冷静に対処できそうだった。廊下から、理沙の足音が聞こえてくる。
「何で」
 いつの間にか、亮は少女の前にしゃがみこんでいた。怖い。怖くはあるが、直接凶器がないのなら、さすがにこの小さな女の子に自分が負けるはずもないだろう。その余裕が、彼女と正面から向き合うことをさせてくれた。
「何で、俺を狙う?」
 理沙が居間に戻ってくる。視線をやると、夕方見たあのポーチを片手に持っている。あの中には凶器か何かがあるかもしれない。時也もそう考えたのだろう。すっと動くと、理沙の手からそれを奪った。いきなり少女が動いたとしても、理沙ならともかく時也の手から奪い返されることはないだろう。少女もそう考えたのか、ふっと小さく息が吐かれる。
 顔が、上がる。
 昏い、大きな瞳が蛍光灯の下に曝される。夜に似ている、と思った。ただの黒じゃない――目を凝らしてみれば、何かが蠢いているのがはっきりと判るような、不安定な黒い瞳。
 小さな紅い唇が動いた。
「今月中に、貴方を殺さないといけないんです」



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