第二幕:梔子―ものいはず―  弐


戻る 目次 進む


 ◇

 食器を洗っている最中、時也が寄って来た。理沙は学校へ向かい、少女は客間でじっとしているようだ。
「散歩に行かない?」
 時也が囁く。スポンジを水で洗い、亮は顔をあげた。明り取りのための台所の小窓からは、明かりらしい明かりも入ってきていない。
「この曇天にですか」
「あの子も連れて」
 スポンジを元の場所へ戻し手を洗う。エプロンを壁のフックかけて、亮は時也に向き直った。
「何考えてるんですか」
「楽しいこと」
 時也の笑みに、亮は眉間に皺を寄せた。低い声を漏らす。
「あんたの『楽しいこと』が俺にとって良かったことだったのって、皆無なんですけど」
「心が狭いね、松風は。いいじゃない。先に準備してるからね」
 言うなり、台所を出て行ってしまう。足音は客間のある二階へと進んでいる。何を考えているのか判ったものでもないが、半ばどうにでもなれという自棄な気持ちで息を吐く。理沙も理沙だが、時也も時也だ。ああなったら、反対したところで意味が無い。
 結局、亮と時也、そしてあの少女の三人で外に出る羽目になった。時也に連れられる格好でゆっくりと道を歩く。五月雲の空は散歩に向いているとは言い難く、薄暗い。たどり着いた近所の公園も人の姿は疎らだった。良く晴れた日曜なら親子連れの姿も見えるのだが、今日は子供達が数人鬼ごっこをしている程度だ。
 空気に混じっているのは土の匂いと埃の匂い。近く、雨がやってくるだろうと確信させる匂いだ。そしてそれらを包むように広がる甘い芳香がした。匂いの元が気になって視線をめぐらす。「あそこ」時也が顎をしゃくった。滑り台の奥に白い花を咲かせた植木がある。
「くちなしだね」
 時也が僅かに口元を綻ばせた。ブランコの隣のベンチに腰をおろして、目を閉じる。
「いい匂い」
「先輩?」
 覗きこむ。穏やかな表情のまま、時也が口を開いた。
「松風、珈琲飲みたい」
「は?」
「珈琲。買ってきて」
「買って……って」
 公園内に視線をやるが、やるまでも無く知っていた。この公園に自動販売機は無い。それどころかこの近くには無いのだ。一番近いコンビニエンスストアでさえ、大通りに出ないとない。
「くちなしの匂いに包まれながら、珈琲を飲みたいの。買ってきてよ。お駄賃あげるから」
「ね」と微笑まれる。強情だ。隣で少女がぽかんとしていたが、こうなったら諦めるほか無い。ひとつ息を吐いてポケットを探る。財布はある。公園の砂を蹴って歩き出す。
「え、あの。松風さん」
 細い声に呼び止められて振り返る。昨日見た、捨てられた子犬の目で少女が見ていた。亮は頭をかいて、ベンチを指す。
「座って、待ってろよ。すぐ戻る」

 ◇

 面倒くさそうな足取りで亮の姿が遠ざかっていく。まだ昼前なのに薄暗い五月闇さつきやみに、次第に後姿も溶けて行った。見送って、時也はもう一度目を閉じる。視覚が遮られると、鼻腔に柔らかな芳香がより強く広がる。隣で気配が動いた。座ったようだ。それを確かめてから、時也は姿勢を正した。目を開く。鬼になったらしい子供が高い声をあげて走り抜けていく。
 風が流れる。湿気った風は、くちなしの匂いを流す。土の匂い。埃の匂い。雨の降る前の匂いは、好きだった。
 暫く、その風に身を委ねた。くちなしの香りは強い。ずっと此処にいたら酔ってしまいそうだ。走り回る子供達は、とうに酔っているのかもしれない。そんなことを、考える。口を開く。口内にも、交じり合った香りが飛び込んできた。
「松風亮」
 その言葉に、隣の少女が震えるのが判った。無視して、続ける。
「八坂高等学校一年二組所属。園芸部に籍は置いてるけど、実質帰宅部。クラスメイトに頼まれて名前を貸しているだけのようだね。中肉中背。一学期中間テストの成績は見事に全て平均点。運動は苦手みたいだね。特技は料理のようだ。学校で仲が良いのは幼馴染の石川理沙。その友人の阿部きさら。クラスメイトの多田徹、三村陽介。家族構成は両親と姉の四人。でもほとんど一人暮らしみたいだね。性格は一言でいうなら頭に莫迦がつくほどのお人好し」
 そこまで告げて、唇の端に笑みを浮かべた。顔を向け、眼鏡越しに少女を見やる。薄い山吹色の服の上に乗った顔は、強張った表情をしていた。
「松風亮自身には、正直殺すような価値も何も無いね。殺されるような過去があるとも思えない。さて、その上で君に問うよ。君は何故、松風を狙う? 君は何者? それとも」
 時也は笑みを消した。すっと、少女の目を正面から捉える。夜に似た大きな双眸。
「君が用があるのは、松風亮ではないのかな?」
 少女の顔から表情が消えた。図星だな。時也は内心で呟く。表情は消えたが、無表情ではない。無理やり感情を抑えるために貼り付ける色の無い表情は、無表情とは言わない。
 暫く、見つめあった。否、睨みあったと言う方が正しいだろうか。少女が立ち上がる。背中を向けた。薄い肩が、小刻みに震えている。
「わたしにも、事情があるんです」
 か細い声に気が触った。平時は出さないようにしている不快の表情を、そのまま表してしまう。とはいえ、少女は今背を向けている。誰にも見られはしないだろう。
「事情? 人を殺そうとするのに事情があったからといって、許されることかい?」
 少女は答えない。
「君に何があるのかなんて、狙われてる側にしてみればどうでもいいだろうね。君が松風のことを何も考えていないのと同じようにね。松風には松風の生活がある。くだらない、一般的な、高校生活だよ。幼馴染みがいて、クラスメイトがいて、学校がある、平凡で当たり前のね」
 風が強く吹く。雨雲を流してくるだろう。ひやりと、冷たい。
「それを君は壊そうとしている。君の事情とやらで。君にとって、松風の事情はどうでもいいんだろう。それと同じように、松風にとっても君の事情はどうでもいいはずさ」
 ふ、と時也は言葉を切った。レンズ越しの視界の中で、少女の小さな背中は数瞬前と変わらず強張ったままそこにあった。その背中に向かって、吐き捨てる。
「松風亮には、ね」
 薄山吹の小さな背中が、跳ねるように震えた。

 ◇

 何かを話しているようだった。
 三つの缶が入ったビニール袋を右手に持ったまま、亮は我知らず足を止めていた。公園の入り口だ。先ほどまで走り回っていた子供達も、場所を移したのか崩れそうな空色を見て帰路についたのか、姿が見えない。ベンチのところに時也と、あの少女の姿が見えるだけだ。
 立ち尽くしていた少女の背が、跳ねるように震えた。思った次の瞬間、亮の耳に悲鳴に似た叫びが飛び込んできた。
「貴方に……貴方に、わたしの気持ちなんて判りません!」
 思わず身が竦んだ。ビニール袋の中で、缶がぶつかりあって音を立てる。木々がざわめいていた。ベンチに腰を下ろしていた時也が立ち上がる。ふと、手が挙がる。
「松風」
 呼ばれている。状況が理解出来ないまま、亮は止まっていた足を動かした。傍による。時也はいつもと変わらず、静かな笑みを浮かべていた。そのまま、手のひらを向けてくる。亮は慌てて珈琲を取り出した。手渡す。その間も、少女はこちらを見ようとはせず、時也も一言も言葉を発しなかった。浮かんでいる笑みも、いつもとは違うような違和感がある。
「先輩?」
「松風、良い機会だから覚えておくといいよ」
 時也の細い指が、プルタブに掛かる。ぷし、と軽い音がした。芳ばしい香りが薄く溶ける。
「僕がこの世で一番嫌いなのはね」
「え?」
 時也の手が霞んだ。茶色の飛沫が飛ぶ。短い悲鳴。くちなしの匂いをかき消す強い匂い。少女はその場にしゃがみ込んでいた。黒髪を濡らし、雫が垂れる。その小さな姿を見下ろし、時也は唾棄した。
「自分だけが悲劇のヒロインだと思い込んでる莫迦だよ」
 時也の手から、空になった缶が転がり落ちる。目の前で起こった出来事についていけなくて、亮は呆然と二人を見やるしか出来なかった。時也が踵を返す。
「気分を害した。散歩しなおしてくる」
 背を向けたまま、いつも通りの軽い口調で言ってくる。ひらひらと、手が振られた。亮が呆然とするうちに、後姿は公園を出て行った。
 暫く、動けなかった。何が何だか判らない。間抜けに開いた口を閉じることも忘れて、遠ざかっていく後姿を見つめるしか出来なかった。くらくらするほど、珈琲の匂いが漂っている。
 掠れた声が耳朶に触れる。泣き声だ。そう理解して、慌てて振り返った。頭から珈琲を浴びた少女が、しゃがみ込んだまま掠れた泣き声を漏らしている。
「ちょっ、うわっ。ごめん、大丈夫か?」
 少女の薄い肩に触れる。恐怖心は無かった。ただ、慌てていた。抱えあげベンチに座らせる。
「とりあえず座ってろ」
 水飲み場に走り、ハンカチを濡らした。軽く絞ってベンチに戻る。少女の頭をそっと拭う。驚いたのか、小さな手が振り払ってきた。その手を、掴む。細い手首だった。低く、囁く。
「じっとしてろ」
 再度の抵抗は無かった。亮の指に、細い髪の毛が纏わりつく。綺麗な髪だ。ただ今は、濡れそぼって哀れにしか見えない。小さな、小さな少女。恐怖心なんて、沸きようも無かった。
「家、帰るか。風呂入れるよ」
 答えはなかった。少し膝を屈めて覗きこむ。俯いたまま、声も出さず、少女は泣いていた。いくつもの涙粒が伝っては落ちている。
 亮は大きく息を吐いた。空を仰ぐ。分厚い雲の下を、薄い黒雲が流れている。すぐにでも、降り出すだろう。そう思いながらも、ベンチに腰を下ろした。
「時也先輩に、何言われた?」
 出来るだけ、隣は見ないままに口を開く。ざわりと風音がした。この公園は、春には一面桜色に染まる。公園内の樹木の殆どが桜なのだ。八重桜も染井吉野も糸桜もあり、濃淡の桜色が広がる様は壮観だ。今は、青葉の時期だ。夏に向けてより一層色を濃くしていく緑の葉も、今日のこの天気では少しばかり覇気のない色を見せている。その覇気のない木々が、湿り風に吹かれて哀れな鳴き声をあげている。珈琲の匂いが薄まった先に、強く雨の匂いがした。
 隣からの答えはない。
 やっぱりな。そう感じながらも、亮は少しばかりの淋しさを覚えた。虚しさかも知れない。答えのない問は、行き場を無くす。それはやはり何処かもどかしく、虚しく、淋しい。思っていると、頬に雨滴が落ちてきた。ひやりと冷たい。降って来たな。家にいる夜なら、雨音は嫌いじゃない。だけど、濡れるのは別だ。立ち上がろうとしたとき、ふいに声がした。
「貴方には、貴方の事情があると」
 小さな、細い声だった。それでも、もう掠れてもいない。弱くもない。音は確かに、意思を含んでいた。驚いて、首を捻る。少女は、顔をあげていた。顔をあげて、亮を見据えている。真摯な表情だった。泣いた瞼は赤く腫れていたが、力は失っていない。澄んだ夜の双眸は、殺意より深い何かを確かに奥に宿している。その瞳が、見据えてきていた。
 背筋に、ひやりとした感触が走る。ひと粒ふた粒だった雨滴は次第に細く糸のように空から流れ出し、亮の身体を冷やしていく。背筋を走った感触は、その寒さだったのか。
「あの方は、そう仰いました」
 糸のように張り詰めた言葉に、ふっと短く息を吐いて立ち上がる。
「先輩がそう言ったわけか」
「はい」
「たいそれた事情なんてないけどな」
 思わず苦笑を漏らしていた。亮自身は、平凡で幸せな暮らしをしていると思っている。このご時世で、親の離婚やらいじめやらにも殆ど関わらず過ごして来られたのだ。たいした事情なんて持ち合わせてもいない。苦笑を浮かべながら、少女の手を引いた。存外素直に、軽い身体は持ち上がった。少女が立ち上がる。それでも交わる視線の位置は、低い。
 糸雨が、少女を濡らしている。黒髪が、濡れそぼって艶やかに流れている。
 綺麗だな。
 ふと、思う。恐怖や猜疑心、同情など欠片も関わらない胸の奥で、その言葉が漏れた。強い眼差しを――張り詰めた眼差しを持つ小柄な少女が、全身を雨に打たれながら見据えてくるその姿を、ただ綺麗だと思う。
「それでも、貴方は生きています」
 小さな唇が、音を紡いだ。良く、綺麗な声を鈴のようなと称するけれど。と、亮はぼんやりと否定していた。この声は、綺麗だけれど鈴じゃない。鈴のように高音でも、冷たくもない。近いのは――考えて、思いつく。琴だ。祖母が生前好んでよく弾いていた、あの張り詰めているのにやわらかい生の音に似ている。
「生きてるな。それで?」
 問いに少女は口を噤んだ。ふいに気付く。決して答えまいとして口を噤んでいるわけではなさそうだ。答える術をもたずに言いあぐねている。それだけのようだ。糸雨の音が、染み渡る。
 亮は少女の頭をぽん、と軽く叩いた。歩き出す。
「帰るぞ。風邪引く」
 雨は暫く止みそうもない。やはり散歩に向いた陽気ではなかったのだ。誘った本人は何処かへ行ってしまったが、まぁ気まぐれに帰ってくるなりなんなりするだろう。彼の家も、さして遠くない。ゆっくりと、歩を進める。
「どうして、逃げないんですか?」
 背後からの声に、足が止まった。振り返る。少女は先刻と変わらず雨に濡れて立ち尽くしたまま、亮を見上げてきていた。不思議と、薄い山吹のパーカーが目に染みる。
 一、二度、目を瞬いた。口を開く。
「あんたは、何で殺そうとしない?」
 少女は目を大きく見開いた。少しだけ苦笑いを浮かべ、亮は身体ごと再度少女に向き直った。少し身を屈めて、目線をあわす。
「殺そうと思えば、いつだって殺せるだろうし、今だってそうだろ? 特に今なら、多分俺を庇ってくれるだろう先輩も理沙もいない。ついでに人通りも少ない。あんたにとっては都合がいいことだらけだろ」
「でもそれは……フェアじゃ、ないです」
「殺す殺されるにフェアもアンフェアもないと思うけどな」
 軽く、笑い声が漏れた。くだらない問答だな、と思う。くだらないと思えるほど、現実味が薄い。それなのに、少女は確かに何かを思いつめている。
「今逃げても、どうせ後で追いかけてくるなりするんだろ?」
「それは」
「今月中、だっけか。後一週間は、逃げたとしてもびくびくしなきゃならないんだったら、無意味だろ」
 少女の頭に手を置いて、さらに深く覗きこむ。夜の瞳。戸惑いと困惑の表情の奥には、何がしかの決意らしきものが見える。そんな気がする。決意、あるいは意思、知性。殺すと口にすることは、人を殺めようとすることは、知性があって出来ることなのか。否だとするなら、何故狙うのか。殺めようとする意思と、相反するような知性や決意。何故それらが同時に存在しているのか。そしてそれが、何故自分に向けられているのか。それは、単純な興味だ。好奇心に過ぎない。亮は認めていた。自分の中にある、単なる野次馬根性に過ぎないのだ。
 十六まで生きてきて、たいそれた事情も持ち合わせてはいない。誰にも譲れない唯一の何かなんてものも持っていない。戦争やら災害やら地雷原やらに怯えるような生活もしていない。平凡でぬるい生活だろう。そんな中に飛び込んできた異質な現状に、ただただ好奇心が疼いているだけなのだ。知りたい。その欲求は、子どもが庭石をひっくり返して虫を探すのと大差ない。自虐的に、自覚する。それでも、知りたかった。
「あんたにも、何かありそうだしな」
「え?」
「だからっておとなしく殺されてやるつもりもないけど。ただ、話くらいは聞けるけど?」
 少女の視線が揺れた。俯いて、唇を噛む。答えない、その仕草だ。亮は頭に乗せていた手をどけた。踵を返す。
 不発の好奇心は、疼いている。それでも、たいしたことじゃない。言いたくなれば、話すだろう。話された時自分がどうするのか、そんなことはその時になってみなければ判らないのだ。
 雨脚は、次第に強くなってきた。



戻る 目次 進む