第二幕:梔子―ものいはず―  肆


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 ◇

「いっ……いてて」
 体育館の裏のベンチに座り、亮は頬を押さえた。前に立ち、こちらを覗きこんでいた時也が冷めた目を向けてくる。
「何も顔面でボール受けることないと思うんだけどな」
「不可抗力ですっ! つっ……いってぇ」
 唇の端を少し切っていた。試合は一瞬中断したが、理沙に手を振って再開してもらっていた。いくらなんでも、ただの見学で試合を中断させ続けるのは気まずい。体育館の中は今も、歓声が上がっている。
「大丈夫ですか?」
 共に外に出てきたほたるが、亮の顔を覗き込んできた。黒髪が、肩口をすべる。
「びっくりしました」
「……俺も」
「よけなかったんですね」
「よけられなかったんです」
 ややむすりとして答えると、ほたるの目が瞬いた。それから、ふっと口元が緩んだ。少しだけ悪戯めいた色が浮かぶ。
「松風さんって、ドジですね」
「ほっとけ」
 呟くと――ふわっと花が咲いた。
 ほたるが、声を立てずに笑ったのだ。ぼんやり、見やる。こんな顔、するんだ。そう思った。いつものどこか抑え付けられたような表情からは、想像出来ない。ずっと華やかで、生きているという気配が強い。
 こんな顔出来るなら、絶対こっちのほうがいいのに。
「松風さん?」
「あ、いや」
「怪我の具合はどうなのさ」
 時也が割り込んできた。白い手が亮の頬に触れる。ぴりっとした痛みが走った。
「ちょっと切った程度です」
「そうみたいだね。たいした事はないけど冷やしたほうが良さそうだね。どうする、保健室の場所訊いてくるかい?」
「いや、いいっす。ンな大げさな」
 他校の保健室なんて、出来れば足を踏み入れたいものではない。たいそれた怪我でもないならなおさらだった。
「そう? じゃあ」
 時也が頷く。財布を取り出すと数枚の硬貨を取り出した。それをほたるの手に押し付ける。
「冷たいジュースでも買ってきて。ここ来る前の渡り廊下に自販機あったから」
 ほたるは自分の手のひらに押し付けられた硬貨を見下ろして、それから小さく頷いた。小柄な背中が遠ざかっていく。
「先輩」
「なぁに」
「どういうつもりっすか?」
「可愛い後輩の身を案じるつもり」
「うそこけ」
 痛む頬を抑えながら吐き捨てると、時也は小さく舌を出してそっぽを向いた。まるきり子供じみた仕草が不思議に似合うあたりが時也らしい。
「あんたの後ろにあるの、自販機じゃないんっすか?」
「自販機みたい」
「……やっぱりな」
 うめく。時也の後ろ、体育館の角のところにわずかに四角いものが見えたのだ。しかし、ほたるはここから逆の方へと走っていってしまった。
「何で気づかないんだほたる……」
「僕がここに立ってたから、陰になって見えなかったんじゃない?」
「そこまで小さくないでしょう。意外と視野狭いなぁ」
「気づいてたかもしれないけどね」
 くすりと時也が笑う。軽く睨みあげると、悪びれもなく肩をすくめた。
「僕の意図に気付いて、あえて気付かないふりをしてくれたのかもしれないでしょ?」
「だとしたらあんた悪党だ」
「やだなぁ、松風。先輩にそんな風に言うもんじゃないよ」
 楽しそうに笑い声を弾ませる時也から視線をはずし、亮はため息を吐いた。
「それで?」
「うん。僕いい事考え付いちゃったんだよ」
 満面の笑みを向けてくる時也に、言い知れない不安が募る。この笑みは、子供がとんでもない悪戯を思いついたときのそれと酷似しすぎている――
「とってもこっわーい殺人鬼のこと、いろいろ知りたくない?」
 ぴ、と指を立てて、時也が笑う。
「今なら、名花亭のセットランチで、手を打ってあげようか」
 時也にとって阿部きさらは鬼門でも、あそこのランチは別らしい。時也だけに限らず、八坂の生徒の大半はあそこのランチがお気に入りではある。それはいい。それはいいのだが――
 亮は思わず半眼になって呟いた。
「先輩、楽しんでるでしょう」
「もちろん。僕、こういうの大好き」
 返ってくるのは、当然の如く満面の笑みだ。思わず立ち上がって怒鳴る。
「いいかげんあんたの『楽しい』に、俺の平凡な時間がどれだけ奪われているのか理解しやがってくださいよ!」
「瑣末なことだね」
「俺にとっては重大ですっ」
 喚くと、時也は不服そうに唇を尖らせた。立てていた指を、亮の額に置く。つん、と押されると、たいした力でもないのにあっけなくベンチに戻された。驚く亮に構わず、その顔を少し近づけてくる。そして、囁く。
「松風はわがままだね。知りたくないの? あの子のこと?」
「調べられるっていうんですか」
「僕が、約束破ったことあるかい?」
「両手足の指じゃ足りません」
 言い切ると、時也はそっぽを向いた。「そうだっけ」とまったく反省の素振りのない呟きが流れてくる。それでも、妙な胸騒ぎがした。木立が揺れるような、ざわざわとした気配が胸の奥でくすぶっている。こくん、と喉が鳴った。知らず、唾を飲み込んでいたようだ。
「調べられるっていうんですか」
 再度の問いかけは、声が震えていた。唇を噛んで、顔を上げる。時也が振り返る。雲間からの陽光に、眼鏡が反射した。口元は、変わらず笑みの形に歪んでいる。
「信じる信じないは、君の自由」
 落ち着いた声音だった。いつもより数段トーンも低い。耳にすっと入ってくる聞きやすい音。
 時也は腰を屈め、こちらを覗き込んでくる。
 眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
 一瞬、背筋に冷たいものが走る。笑っているように見えなくもない。だけど笑ってはいない。それがはっきりと判る眼差しだった。射抜かれるようで、身動きさえ取れない。
「知りたい知りたくないも、君の自由」
 囁きが、内耳に木霊する。

 ◇

 硬貨を入れて、烏龍茶のボタンを押す。重たげに吐き出された冷たい缶を取り出して、ほたるは小さく息を吐いた。
 あの場所のすぐ近くに自販機があるのは気付いていた。それでも自分をわざわざこちらに行かせたのは、時也の考えがあっての事だろうと従った。それはいい。時也が自分を警戒しているのは身に沁みて解っていたし、そうするのが当然だとも思っている。そうでない、亮や理沙が奇妙なのだ。
 火照った手のひらに缶の冷たさが心地よい。それを感じながら、ほたるは俯いた。
 何をしているんだ。
 自分の中で、声がする。
 時はないのに。何をしているんだ。こんな風に和んでいる場合じゃないのに。今すぐにでもそれを実行しないと、結果は免れない。頭の中に、祖父の顔が浮かぶ。自分だけなら、いい。否、怖くはあるしいいとも思わないが、どうしようもないのだと諦め受け入れることは不可能ではないかもしれない。けれど、祖父がいる。使命も、ある。解っているのに。
「ほたるちゃん?」
 唐突に声をかけられ、ほたるは思わず身を震わせていた。顔を上げる。
「あ……理沙、さん」
 すぐ傍に、石川理沙が立っていた。立って、笑っていた。
 計算違いは、いくらでもある。時也もそうだし、家に泊まれと言われた事なんてのも計算違いだ。その計算違いのひとつが、彼女だった。石川理沙。松風亮の幼馴染み。
「体育館出たら、見えたからさ。ジュース買ったの?」
 屈託なく笑いかけてくる。このペースに、ほたるは慣れなかった。巻き込まれてしまう。
「え。あ、はい。あの、松風さんの……」
「あ、そっか。冷やす奴。あのバカ、ほんっとドジだからねぇ。あ、でもそれなら体育館のすぐ傍に別の自販機あったよ?」
「あ……そ、うですか。気付かなくて」
 言葉を濁して、俯く。
 苦手だった。躊躇いも警戒もなく、自分と接してくる彼女が怖かった。躊躇いも警戒もないのに、亮とは違い真実を知ろうとする眼差しが確かにあるのだ。見抜かれそうで、怖い。自分の中の使命感も、それに躊躇する弱さも、全て見抜かれていそうで、怖かった。
 くしゃり。
 ふいに、頭に手が触れた。呆然として見上げると、理沙が笑ってほたるの頭に手を置いていた。くしゃくしゃ、とかき回す。
「あ、あの。あの」
「あはは、ごめん。なんか可愛くてさ。撫でやすい位置にあるし」
 華やかに笑う人だ。笑顔が、明るくて可愛い。それは少し、羨ましくもある。
「ね。試合勝ったよ。ラスト、ゴール決めたんだから、あたし」
「え。ほんとですか? すごいです。おめでとうございます」
 理沙が、白い歯を見せた。素直に、すごいと思う。自分には何かに打ち込むようなことがない。打ち込み、それで確かに結果を出している彼女は、すごい人だと感じる。
「てなわけで、今日は亮にご馳走作らせようねー。そのためにもほら。早くそれ持って行ってやって? 顔パンパンに腫れちゃ、作れるもんも作れなくなっちゃう」
 それ、と缶烏龍茶を指され、ほたるは慌てて頷いた。確かにずっと握っていたら冷たさも奪われてしまう。
 慌てて駆け出すと、後ろから理沙の声がかかった。振り返る。
 スポーツドリンクを片手に持った理沙が、微笑んで見つめてきていた。
「ね、ほたる。今度一緒に遊びに行こうよ」
 唐突な申し出に、一瞬息が止まる。今度なんてそんなもの、あるはずがなかった。自分にはもう一週間も残されていないし、その期限の前にしなければならないことがある。それを実行すれば、彼女の大切なものを奪うことになるのだ。今度なんてそんなもの、どこにもあるはずがないのに。
 理沙が、軽い足取りで近づいてくる。思わず、身を硬くしていた。心の中で、願う。
 お願いだから。お願いだから。
 もうこれ以上、私の中に入って来ないでください――
 擦れ違いざま、理沙の手が再度ほたるの頭に触れた。黒髪の合間を指がすり抜けていく。ひと房、髪が持ち上げられて揺れた。理沙の声が、耳に届く。
「考えといてね」
 気負いのない声。それだけを残して、理沙の気配が遠ざかる。また、体育館に戻ったのだろう。暫く、動けなかった。それが数秒なのか一分なのか自分でも判らなかった。体の硬直を無理やり解いて、亮と時也の元へと走る。
 体育館の角を曲がるとき、囁き声が耳に飛び込んできた。思わず、足を止める。
 亮と時也が、何かを話しているようだった。
「本当に、調べられるっていうんですか」
 硬い、亮の声だった。
 相反するような軽い声が、それに答える。
「いいかげん、しつこいよ、松風」
「しつこくもなります」
 ほたるは息を潜めていた。タイミングが、悪すぎた。
 亮は、こちらには全く気付いていないようだった。時也はどうかは判らない。あのひとは、全てを理解しているような気がした。まさかとは思う。思うが、否定する要素が足りない。だから、怖い。理沙や亮に対する恐怖とは違う、もっと直接的な恐怖があった。
 その時也が、笑う。
「心配性。僕はね、松風。楽しいことには手を抜かない主義だからね」
 それが自分の事を指しているのだと、否応もなく判ってしまった。
「……じゃあ、お願いします」
「あれ。意外と素直」
 搾り出すような亮の言葉に、時也が軽い声を上げる。陰に隠れながら、ほたるは胸元で烏龍茶の缶を強く握っていた。そうしないと、心臓の音が外に飛び出てしまいそうな気がしたのだ。
「知りたいんだ、あの子のこと?」
「知りたいですよ」
 どこか不貞腐れたような亮の声が答える。
「このままじゃ、どうにもならないし。理沙にも迷惑かけてるっぽいし。それに」
「それに、何さ」
「……ほたるのこと、心配ですし。あいつ、いつもなんか思いつめてて、俺のことも、なんか理由あるのかなって思うし。あったからって、どうにか出来るもんじゃないかもしれないけど、俺が何にも知らないのはなんか違う気がして。知れば、もしかしたらなんか、俺に出来ることもあるかもしれないし」
 駄目だ。
 強く、思った。
 駄目だ。このままじゃ、駄目だ。心臓が、狂ったように早鐘を打っている。
 隠れながら、それでも、思う。
 あの人は、松風亮は、なんて愚かなのだろう。なんて愚かで、人が良くて、優しすぎるのだろう。優しさが時に残酷なものになるという事すら、あの人はきっと知らないのだ。昨日、時也に言われたことを思い出す。松風亮。性格は一言でいうなら頭に莫迦がつくほどのお人好し。
 全く持って、その通りなのだ。愚かなほどに、優しい。
 缶を持つ手が、震えていた。出来るなら、愚かだと罵りたい。優しさが残酷なのだと喚きたい。そんな自己勝手な真似が許されるなら、叫びだしたい。
 お願いだから。お願いだから。
 そんな風に、言わないで。
 貴方が私に出来ることは、ただひとつ。
 貴方自身が、死んでくれる事だけだというのに。
 また、祖父の顔が浮かんだ。
 両親がいなくなってからずっと、自分を育ててくれた祖父。ごつごつした手。そして、笑うと目じりに浮かぶたくさんの笑い皺。ここ数年、その皺を見ることもなかったけれど。
 そうか。ふいに、納得する。自分にとって祖父が大切なのと同じように、亮には亮の大切なものがあるのだ。理沙もそうだろうし、学校や時也も、そうなのだろう。昨日の涙の味も、忘れてはいない。時也の言葉の意味も、確かに強く感じていた。亮には亮の生活がある。生きている。それを自分は壊そうとしている。
 今度なんてないのに、約束を取り付けてくる理沙。
 出来ることなんてないのに、探そうとしている亮。
 あなたたちはなんて愚かで、優しくて、残酷なんだろう。
 笑みが、浮かんでいた。
 わたしじゃ、駄目です。心の中で、祖父に告げる。
 おじいちゃん。わたしじゃ、駄目です。彼らの残酷さを裏切るほどに残酷には、なれそうもない。
 缶烏龍茶を手に、一歩、足を踏み出す。
 亮が驚いたように顔を向けてきた。時也は、驚いた様子もない。
 ほたるは、笑みを浮かべて見せた。自分に出来る精一杯の笑みを。
「理沙さん、試合に勝たれたそうです」
 亮の顔には、戸惑いが張り付いていた。

 ◇

 泡だった食器が手を離れ、付け置きボウルの中でかちゃんと音を立てた。割れた様子はない。安堵して、亮は蛇口を捻った。水が勢いよく吐き出される。その水を見つめながら、亮はじっと考え込んだ。
 違和感が、あった。
 跳ねた飛沫が頬にかかる。腕でそれを拭いながら、自問する。
 違和感は、何だ?
 ほたるだ。すぐに自答が、返る。判っている。昼間から、ほたるの様子が何か違う気がした。それが違和感となって胸をくすぐっている。だけど、明確ではなかった。明確に判るほど、自分は彼女のことを知っているわけじゃない。
 あの後、時也はどこかに行った。今晩もこっちには来ないようだった。それはいい。時也の気まぐれなんて、今に始まったことでもない。それはもう、どうでもいい。
「亮?」
 声がした。顔を向けると、暖簾を片手であげた理沙が立っていた。
「理沙? どうした」
「あ、うん。ここにもいないか」
「え?」
 ざわりと、胸が鳴った。水を止め、手を拭く。理沙は困ったような表情を浮かべていた。
「理沙?」
「あのさ。……ほたる、見当たらないんだけど」
 その、言葉に。
 亮はエプロンをかなぐり捨てていた。駆け出す。入り口の理沙の体を押しどけた。小さな悲鳴が上がる。それも無視して、走る。
「亮!?」
 背後から、理沙の呼び声がした。構っていられなかった。玄関に置いてあったスニーカーを引っ掛けて、外に飛び出す。
 くちなしの匂いが纏わりついてきた。
「ほたるっ!」
 叫んだ。口内にとろりと入り込んでくる、くちなしの甘い香り。返事はない。ざわざわと、風が鳴っている。
 これだったんだ。いまさらながらに、気付く。違和感の正体。これだったんだ――
「ほたるっ、どこだよっ!」
 怒鳴りながら、亮はくちなしの香を割るように駆け出していた。



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