第三幕:変化―おにとかす―  壱


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『 Time 6/24 21:17
 From 叶会長
  Sub  忠告
 
  松風と一緒にいたいのなら、ほたるとは関わらないほうがいい 』

 ◇

 その場所だと思ったのに、深い理由はない。ただの勘で、確信があったわけでもない。だからこそ、小さなその姿を認めたとき、安堵と苛立ちが同時に噴出していた。
「ほたるっ!」
 叫ぶ。視線の先で、小さな背中が震えたのが判った。その背中はすぐに、遠ざかろうと走り出す。亮は強く地面を蹴った。理沙みたいに上手くも速くも走れないことが、じれったい。それでも、何とか追いつく。細い腕に、手をかけた。引き寄せる。
「ほたるっ」
 ほたるの体が止まる。勢いあまって倒れかけた肩を抑えて、亮は大きく息を吐いた。心臓がどくどくと音を立てている。息が苦しかった。
 月が公園を照らしていた。昨日、散歩に来たくちなしの香る公園だ。ほたるはそこにいた。月光を浴びるように空を見上げ、ベンチの傍で佇んでいた。今も月明かりは清かに降り注いでいる。一本だけの薄暗い外灯と月明かりで、自分とほたるの影が、ちぐはぐに四つ伸びていた。
「どういうつもりだよ」
 荒い息の合間から、それでも言葉を紡ぐ。ほたるは、こちらを見ようともしなかった。理沙に借りていた服ではなく、初めて逢った時の服だった。やはり、どこか、怖い。目を離したら、すぐにでも消えてしまいそうな気配があった。比喩でもなんでもない。実際、追いかけてこなければほたるは消えていたかもしれないのだ。亮の前から、消えていた。
「こっち見ろよ、ほたる」
 腕を強く掴んで、揺する。それでも、ほたるは顔を上げない。俯いたまま、黒髪が夜の闇に溶けようとしているようだ。
「何で勝手に出て行くんだよ、なあっ」
「ごめんなさい」
 あえかな――掠れた声が、空気に溶ける。亮は思わず息を飲んでいた。
「何言って」
「本当は、判ってたんです。馬鹿な事だって、判ってたんです」
 ほたるは俯いたまま、静かに言葉を紡いでいた。
「でもそうしなきゃいけないって思ってたんです。そうしなきゃ、全てが終わってしまうから」
「ほたる……?」
「でもわたし、判ったんです」
 ほたるが、顔を上げた。一瞬、背中が冷えた。泣いているような、笑っているような、曖昧な表情。張り詰めた糸のような、ぎりぎりの笑顔。それはぞっとするほど、美しく――
「わたしがひとつだけ諦めればいい事だったんです。ご迷惑をおかけして、すいませんでした」
 美しく――けれど、禍々しくて。
 亮は再度、ほたるの腕を強く握っていた。今離したら、消えてしまいそうだった。
「何がだよ……」
 声が、震えていた。喉の奥が音を紡ぐことを怖がっているようだった。
「何を諦めるつもりだよ。何も言わないで、勝手に納得して、それで俺がああそうですか、で終わると思うのかよ。勝手に諦めるなよ。何か判らないが、諦める必要なんてないだろ」
「諦めるしかないんです」
「何でだよ」
 怒鳴ったつもりだった。けれど口から出たのは、情けないほど弱々しい掠れ声だった。
 ほたるの顔が、緩む。消えてしまいそうに儚く、あえかで、美しい。けれど、亮は嫌だった。こんな顔は、美しいけれど、嫌だった。生きている気配が、ない。昼間の、体育館の裏で「ドジですね」と笑ったあの顔のほうがずっといい。この微笑よりはずっと俗的で単純で、けれどずっと生きている気配が濃い、華やかさがあった。あの笑顔のほうが、ずっといい。
「ほたる」
「諦めなければ」
 ほたるはそっと、こちらの手を解いてきた。正面から、向き合う。闇夜に白く咲くくちなしの花を背に、月光を頭上に携えた少女は、ゆるやかに微笑み、そして、告げた。
「わたしはいつか、あなたを殺します」
 その、言葉が。どんな意味を持つのかなんて、深く考えていられなかった。ただ、気付くと亮は手を伸ばしていた。ほたるの薄い肩が、震えていたのだ。闇の中で独り立ち尽くし、微かに震えていたのだ。その細い肩を、放っておけなかった。手を伸ばし、引き寄せ、抱きしめる。腕の中にすっぽりと収まってしまうほど、ほたるの体は小さく、壊れそうに脆かった。
「じゃあ、その日が来るまで、俺はあんたを守るよ」
 小さく、呟く。言葉が勝手に口から漏れていた。腕の中のほたるが、驚いたように身じろぎをするのが判った。
「吊り橋効果」
 冷ややかな声は唐突に割り込んできた。ほたるを抱く腕に力を込め、亮は慌てて振り返った。
 時也がいた。
 公園の入り口、車止めの柵にもたれ掛るようにして立っていた。
 口元にはいつもの笑みを浮かべ、昼間と同じ格好のまま、手には無地の大きな封筒を抱え、視線だけは冷ややかにこちらを見据えていた。
「くだらない感傷だね、松風」
 にこりと笑みを浮かべ、時也が告げる。柵から身を離し、ゆっくりとこちらに歩いてくる。妙な不安感に、亮はほたるを抱く腕にさらに力を込めた。
「何ですか」
「君は人の意見や状況に流されやすいとは知っていたけれど、まさか雰囲気にまで流されやすいタイプだとは知らなかったな。不様だよ」
「何が言いたいんです」
 時也との付き合いは、未だほんの僅か一ヵ月半ほどだ。それでも、ここまで時也が露骨な悪意を持って言葉を発して来ることなど、見たことはおろか聞いたこともなかった。いつもと変わらない笑みを浮かべているだけに、それがやけに怖かった。
 時也はくすりと笑うと、もう一歩こちらに足を進めてくる。そしてそこで、止まった。
 笑っている。口元だけで、歪に、笑っていた。
「特殊な状況だよ、松風。突然現れた君の命を狙おうとしている女の子。その子と二日間共に過ごした。君の精神は張り詰め、緊張し続けているだろう。恐怖、猜疑心、疑問、困惑、不安……君の日常には滅多に入り込んでこない要素ばかりだ。そんな中で、ふいに彼女が見せた弱音。諦めるという単語。もしかしたら、自分は彼女を救えるかもしれない――」
 パンッ、と時也が両手を打ち鳴らした。封筒が、ばさりと無造作にその場に落ちる。打ち鳴らした手を返して、時也が肩を竦めた。
「ほら。ヒロイックに酔える要素の出来上がりってわけだ」
「俺はそんなんじゃ……!」
「ない。――そう、言い切れるかい?」
 からかうような言葉に、声が出せなかった。腕の中のほたるが震えている。否、もしかしたらこの震えは、自分のものなのだろうか――?
「あのね、松風。僕は別に、それが悪いと言ってるんじゃないんだ。その子を守りたい。大いに結構なヒロイズムだと思うよ。ただし、真実全てを知った上で、君に覚悟があるならね」
 落ちた封筒を拾いながら、平然と時也は続ける。その意味の欠片さえ、亮には判らない。
「君には覚悟がない。欠片もね。真実も何も知らない状態で、覚悟もなく口から出任せを言うのは、愚かでくだらない、恥ずべき行為だ」
 封筒を拾い上げた時也が、ふと空を仰いだ。つられて亮も空を仰ぐ。よく晴れた夜空だった。未だ少し真円には足りない月が、煌々と白い光を降り注ぎ、周りでは負けじと星たちがそれぞれに光を放っている。
「十日月夜……か。今夜は僕の夜だ」
 空を見上げながら、時也が笑んだ。どこか歪な笑みに見えた。
「僕が最初に気付いたとき、あたりは真っ暗だった。何の事はない、ただ朔月だったって話だけれどね。それから十の夜、ぼくら≠ヘ月が満ちていくのを見た」
 独り言のように紡がれる言葉。それに、何を感じ取ったのかは判らない。腕の中のほたるが身じろぎした。放すと、腕の中から一歩外に出る。それでも亮は、細い腕を掴んだ。完全に離すには、未だ、恐怖と不安が濃すぎた。
 ほたるは戸惑ったような顔を時也に向けていた。時也はこちらの動きに気付いていないのか、ただじっと月を見つめている。その横顔に、ほたるの細い声がかかる。
「あの」
「口を噤め」
 冷ややかな一言だった。鋭い声に、ほたるの体がびくりと震える。それにも構わず、時也は空を見上げたまま、告げた。
「本当に覚悟を決めたのなら、口を噤め。何も言うな。そうでないならそれこそ黙っていろ。中途半端すぎて見苦しい」
 時也の眼が、空からほたるへと移された。眼差しは、月光の鋭さを溜めたといわんばかりに冷え切っていた。
「君の目覚めは――十五夜、かな」
 少なくともそれは、十日月の鋭さではなかった。眉月よりもまだ鋭い響きだった。
「闇でさえ、君の味方にはなってくれないようだね。月が残酷な真実を闇に浮かばせることだろう。君はそれに、耐えられるかな」
 冴え渡り、冷え切り、突き刺さるその言葉に、ほたるの体が震えていた。亮の手を伝って、震えが確かに感じ取れた。
 ほたるの手が、強く動いた。
 振り払われる。
 咄嗟にもう一度掴もうとした指は、儚く空を切るだけだった。
「ほたるっ!」
 叫ぶより先に、小さな背中は駆け出していた。さっきよりもずっと速く、遠ざかっていく。駆け出そうとしたが、後ろにつんのめった。時也が、見た目にそぐわないほど強い力で亮の腕を掴んでいた。
「なっ……!」
「亮っ!」
 振り払おうとしたとき、声がした。反射的に、声のほうに顔を向ける。ほたるは、もう見えなかった。かわりに、公園の入り口に見知った顔があった。
 亮の自転車に跨った理沙が、こちらを強い眼差しで見つめていた。
「理沙……」
 その時になってようやく、時也の手がするりと離れた。

 ◇

 一枚の紙が卓の上に広げられる。取り出した封筒を無造作に横に置き、時也が腕を組んだ。その最中にも、亮は動きを見せなかった。目を開けたまま眠っているかのように、微動だにしない。時也に引きずられるように帰宅してからずっとだった。
 二人の様子を眺め、理沙は唇を噛んだ。訳が判らない。ほたるがいなくなったかと思えば、今度は亮が飛び出していった。かと思ったら時也と一緒に呆然と公園で立ち尽くしていたのだから、意味が判るはずもない。推測出来ることはほんの僅かで、その僅かでさえ確信が持てないのだからどうしようもなかった。
 ただ理沙は、自分から訊こうとは思わなかった。亮が黙っているという事は、それが未だ亮の中で整理がついていない出来事なのだろう。整理がつき、必要であれば、亮は話してくれるはずだ。その程度には、幼馴染みのことを信じていたし、信じられているとも思っている。
 時也が広げた紙を手に取った。声に出して、読み上げる。
「神凪ほたる」
 それはほたるの素性が書かれた紙だった。どういう経緯で調べ上げたのかは知らないが、良くまぁこんな探偵じみたことをするものだと呆れもするし感心もしていた。
「三仰河高等学校普通科一年五組所属。帰宅部。六月三十日生まれの十五歳。小さい頃から知能レベルは高かったようだね。一学期の中間結果もそこそこらしい。ピアノを習っていた経緯もある。祖父と二人暮らし。今部活に入ってもいないのはそのせいかな。身体的にはかなり小柄だね。正確なデータまでは手に入らなかったけど、まぁいいでしょ」
 紙を見下ろし、理沙は小さく息を吐いた。
「よくまぁこれだけ調べましたね」
「うん。僕すごいでしょ」
 微笑まれるが、理沙は気味が悪いとしか思えなかった。亮は未だに反応しない。理沙は鼻から息を吐き、手にした紙を卓に放り出した。
「どーやったんっすか、こんなストーカーまがいのこと」
「失礼だね、君は」
 時也が頬を膨らませる。そして放り出された紙を手元に寄せた。封筒に入れ、亮の前に置く。
「簡単だったよ。君たちだってちょっと頭を使えば判ることなのにね」
「はあ?」
「だってあの子、自分の素性べらべら喋ってたじゃない」
 時也の言葉に、思わず眉根が寄った。理沙がほたるの名前を知ったのさえ今朝のことで、それ以外のことは全く判らなかったのだ。
 時也は簡単な手品を明かすかのように手のひらを示して、軽い口調で言った。
「最初の段階で近所だって判ったでしょ?」
「判りません」
「判ろうよ。だってあの子、お金持ってなかったんだよ? 定期も小銭もなし。自転車の鍵も入ってなかった。徒歩圏内って事じゃない」
「……誰かに送り迎えしてもらったとかは?」
「殺人補助? ありだけど。携帯も小銭もなしでどうやって連絡取るつもりだったんだろうね」
 そう言われれば、反論も出来なかった。理沙は口を噤んで、時也を見る。満足げに、時也は微笑んだ。
「素直。それで少なくとも近所だって判る。そしてあの子、君たちに年齢を聞かれたとき、高一って答えたでしょう。学校に通ってないと、こんな言い方はしないはずだ。それから、今朝のことだね。彼女、電車内でなんて言ってたか覚えてる?」
 理沙は首を振った。日常会話なんて、いちいち覚えてない。時也は「そう」と軽く頷くと、卓に肘をついて顎を乗せた。
「あの子ね、電車って久々に乗ります、そう言ったんだ。聞こえてなかった?」
「……そんなこと言ってました?」
「言ってた」
 ぼそりとした声は、亮だった。驚いて見るが、じっと卓を睨んだままで、動きはなかった。けれど亮が聞いたということは、確かに言っていたのだろう。時也がふふ、と笑った。
「そう。つまり家は近所で、電車通学でもない。学校も近所になるだろう? この近辺で、徒歩圏内にある学校は三校だけだ。八坂、三仰河、二葉。八坂はまず除外だ。僕や君らが顔も見たことがなかったんだからね。残りは二校。三仰河か二葉――ここまで来たら、簡単でしょ?」
「何がだ」
 思わず、うめく。理沙はストーカー予備軍でも探偵でもない。いちいちそんなこと考えていられない。その返答がお気に召さなかったのか、時也はまた不服そうに唇を尖らせた。
「莫迦」
「バカでもアホでもいいですから。何で判るんですか」
「君が解いたに近いのにね」
「は?」
 時也は卓についていた肘を伸ばした。すっと、部屋の隅を指す。ほたるに貸していた服が、一式まとめて畳んでおいてあった。
「服だよ。彼女、ネクタイ結べなかったでしょ」
「――あっ」
 思わず、声を上げていた。そうだ。二葉高校は男女共に制服ではネクタイを結ぶ。二葉の生徒が、ネクタイを結べないはずがない。だとしたら、三仰河でしかない――
 時也が、にっこりと微笑んだ。
「ね? 簡単でしょ。ここまで来れば、後は直接行けばいいだけだったよ。一年生でほたるって名前の小柄な女の子だ。三仰河の生徒会とは繋がりもあるし、調べるのは難しくもなかったさ。まぁ日曜だったから、部活とかで学校に来ている人にしか話は聞けなかったけどね」
「はぁ」
 理沙は間の抜けた声を上げていた。感心していいのか呆れていいのか判らなかったのだ。ただどっちにしろ、今のこの状況では何の意味も持たないのは確かだった。ほたる自身が、いないのだから。
 理沙は横目で亮の様子を伺った。相変わらず難しい顔のまま、じっと何かを考えている。
「まぁ」時也が亮を再度見つめた。
「どうしても逢いたいんなら、行ってみればいいさ。逢わないほうが君の為だと思うけどね」
 とん、と人差し指で封筒を指す。その音に反応するように、亮が顔を上げた。一瞬、理沙は息を呑んだ。
 射抜くような鋭い目で、亮は時也を睨みつけていた。怖いほど強い眼差し。亮との付き合いは幼稚園から続いているが、それでもこんな顔は見たことがない。大体普段はどこか気の抜けた顔をしているのだ。怒るより先に諦めてしまうことが多いからか、本気で怒ることなんて滅多にないのに。
「ふふっ、いい顔」
 嘲るように時也が笑った瞬間、理沙は力任せに卓を叩いていた。
 破裂音に、一瞬場が静まり返る。時也も目を丸くしていた。低く、呻く。
「帰れ」
「……は?」
 怪訝な時也の声には構わず、理沙は立ち上がっていた。時也の腕を引っ張り上げる。
「ちょっと」
「いいから黙ってさくさく歩きやがってください」
 時也の背を押し、廊下を抜け、玄関の戸を引いて外に放り出す。
 靴を辛うじて引っ掛けただけの時也は、当然のように不服そうな顔を見せていた。
「何するのさ」
「帰ってください」
 玄関の引き戸に手をかけたまま、理沙は言い切った。
「亮にあんな顔、させないでください」
 ひんやりとした夜気を頬に受け、理沙は時也の顔を正面から見据えた。薄暗い外灯に照らされた時也の顔から不服が消え、口の端にふっと笑みが浮かぶ。
「石川さん」
「何ですか」
「君は、松風のことが好きなの?」



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