第三幕:変化―おにとかす―  弐


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 突然の問いかけ。理沙は口を一文字に引き結び、じっと時也を見つめた。
 笑っていない。口の端は確かに笑みの型を模してはいるが、眼鏡の奥の目に笑いの気配は見えなかった。からかっているわけではない。そのことに、気付く。
 理沙は腹腔に溜まっていた息を吐き出した。耳を澄ます。居間から亮が動く気配はなかった。
「好きです」
 時也の目がすっと細まる。それには構わず、理沙はじっと時也の顔を見据えていた。
 好きだった。いつから好きになったのかは、あまり良く覚えていない。小学校のころは別の男子を好きだったこともある。それでも、いつも亮はどこか別の感覚で意識していて、それを恋愛だと認識したのは多分、中学に入ってからだ。
 亮のどこが、とは自分でもよく判らない。別段格好いいわけでもないし、身長が飛びぬけて高いこともない。頭がいいわけでも、気が利いて優しいということもさほどない。優しいのは優しいが、男としての優しさというよりは人間としての優しさだ。それでも、亮の傍にいると安心できた。飾らないでいられた。無理をしないでいられた。それが、多分全てなのだ。
 ごまかす必要も、嘘を吐く必要もない。だからこそ、理沙は正直に答えていた。
 時也が、薄く口を開く。
「そう」
 曖昧な頷きの後、笑んだ。理沙は少し驚いていた。いつもの、胡散臭い笑みではなかった。力が抜けたときに浮かんでくるような、そんな笑み。
「僕の入れたメール、見てくれた?」
 ゆるやかな言葉に、我知らず眉間が寄る。
「あの悪趣味なメールですか」
「悪趣味。そうかな」
 亮が慌てて出て行ってすぐ、携帯電話にメールが入っていた。あのメールの意味は、よく判らない。それでも不快感だけは確かに生んでくれるメールだった。
「あのメール、何考えてるんですか」
「別に何も。書いてあることそのままさ」
「意味が判りません」
「だろうね。それでいいんだ。ただ君が松風のことを好きだというなら」
 時也はふいに背を向けた。
「あのメールの通りにしたほうがいい」
「会長」
「もしかしたら、手遅れかもしれないけれどね。――そのときは僕を恨んでくれてもいいよ」
 言うなり、門へと歩き出す。
「ちょっと会長!」
「帰れって言ったのは君でしょ」
 ひらひらと、背中を向けたまま手だけを振ってくる。のんびりとした足取りで、それでもすぐに背中は夜の町へと消えていった。暫く見送ってから、もう一度息を吐く。胸の奥に疼いていた不快感を吐き出したかったのだ。代わりに新鮮な夜気を胸いっぱいに吸い込み、理沙はぴしゃりと戸を閉めた。
 居間に戻ると、亮は相変わらずじっと座っていた。視線は封筒に落ちているが、封筒は開けられていなかった。「亮」声をかけてみても、背中は反応しなかった。下唇を噛み、理沙は台所へと足を向けた。
 勝手知ったる他人の家、だ。幼い頃からずっと来ていれば、大体の物の場所も判る。冷蔵庫を開け、冷やしてあった麦茶をコップに注いだ。それを持って、再度居間へと向かう。
 本当に時間が経過したのか疑いたくなるほど、亮は少しも動いていなかった。その前に、注いだばかりの麦茶を置く。
「亮」聞こえていないかもしれない。それでも、声を掛けずに入られなかった。
「あたしは今のあんたに、何があったのかなんて訊く気はない。でもね」
 卓を挟んで亮の正面へと回った。座って、身を乗り出す。
 俯いている亮の顔を、両手で挟んだ。
 ぱちん、と軽い音が響く。そのまま、亮の顔を持ち上げる。亮はどこかぼんやりした顔で、それでも目に理沙が映っていることは確かなようだった。微笑んでみせる。
「しっかりなさい、男の子」
「……りさ……」
 掠れた声に、もう一度笑う。外が見えれば、大丈夫だろう。亮の頭を軽く撫でて立ち上がる。
「あたし帰るね。明日また来るからさ」
 居間を出る直前、視線だけ振り返ると、のろのろとした動きで亮の手が麦茶へと伸びているのが見えた。それでいいと思った。

 ◇

 明るい陽光に照らされて、校舎から生徒たちがぞろぞろと出てくる。期末考査準備期間のため、この時期は部活もない。どことなく気楽で、それでも目前の期末考査には気楽になりきれずにいる生徒たちは、各々のペースで校門を出て行く。
 三仰河高等学校。
 市の中心を縦に走る三仰河沿いに建つこの高校は、普通科と英語科を併せ持つ進学校だ。その校門前に、他校の制服を着た人物が立っていれば否応なく、目立つ。
 葡萄えび色のネクタイとズボン。
 八坂高等学校の制服を身に着けたまま、少年――松風亮は校門前に佇んでいた。
 何人かの生徒が向けてくる興味の視線にも反応せず、ただ静かに佇んでいた。

 ◇

「りーさっ」
 呼びかけと同時に、頭に軽い衝撃がきた。振り返る。
「きさら、痛い」
「あはは。どーしたん、元気ないやん?」
 下校のざわめきが教室内を埋めている。掃除も終わり、期末考査前のため部活もない生徒たちは、、それぞれに帰宅の準備をしていた。理沙も例に漏れず、鞄の中に教科書を詰め込んでいる最中だったのだが、後ろからクラスメイトのきさらに軽く殴られた。
 きさらとは同じクラスで、阿部と石川で出席番号が近かったこともあり、入学早々仲良くなった。屈託なく明るく、大雑把で忘れっぽく、どこか子供っぽいところもあるきさらといると楽しかった。ただ、時折聡い。亮に対する気持ちも、早々と見抜かれてしまっている。出会って二ヶ月ほどだが、そうとは思えないほどに親しくなっていた。
「元気ないって……そう見える?」
「見える。朝からずっとやったやろ」
 断言され、理沙は軽く肩を竦めた。
 今朝、一時間目が終わると同時に、亮の教室である二組へと足を運んだ。亮と中学のときから仲の良い多田という男子生徒を捕まえ、亮が来ているかどうかを聞いてみたのだが、亮は登校していないようだった。失敗した、と少し思った。やっぱり朝、亮の家に寄って一緒に登校するべきだったのかもしれない。ただ、そこまで付きまとうのは気が引けたのだ。
「あ、ねぇきさら。今日会長見た?」
「いや、来てへんみたいやよ。クラスまで行ってみたけどおらんかったし」
「……二年の教室まで行ったんだ」
「うん、日課」
 断言に、少しだけ時也に同情を覚える。きさらは軽く微笑んで、理沙の机に腰を掛けた。
「松風くんが休んでるんと時也先輩の欠席って、なんか関係あるん?」
「……なんであたしに訊くのよ」
「あんたがなんか知ってそうやからね」
 微笑まれ、理沙は口を噤んだ。相変わらず、聡い。直接関係あると言い切れるわけでもないが、全くないと言えば嘘になるだろう。
「何かあるんやったら、話ぐらい聞こか? 嫌やったら別にええけど」
「うー……」
 うめく。どこまで話していいのか判らないし、話したところで信じてもらえる気もしない。実際理沙だって殆どよく判らないままなのだ。それでも、きさらはほたるとも一応は面識がある。人の名前をあまり覚えないきさらが、殆ど言葉を交わしてもいないほたるの名前を覚えているかどうかは不明だが、どちらにせよ一人で悩んでいたところで埒があかないのは確かだ。
 一度、時也に会うべきだろう。亮は家だろうか。もしかしたら、三仰河高校へ向かってみるべきかもしれない。それらを考えて、黒板の上にかかっている時計を見上げた。
「うん、じゃあ軽く話聞いてほしいかも」
「あいよ」
「でも、実際あたしも理解してるわけじゃないから、ごたごたになるかもだけど、いい?」
「構わんよ。話すだけでも整理になるやろ」
 微笑まれて、理沙はほっとした。きさらのこういうところはありがたいと思う。
「ありがと。ただ、あたしちょっと行きたいところあるから時間もらっていい?」
「ええよ。うちもなかじ先生に訊きたいことあるし」
 言って、手にしていたファイルをひらひらと振る。数学の教師、中嶋に用事があるらしい。
「うーん、じゃあ……五時くらい、かな」
「おっけ。じゃあ待ち合わせはいつものかんなぎ様の前でええ?」
 きさらのその言葉に――
 理沙は思わず手にしていた鞄を落としていた。ファスナーをしめる前だったせいで、中の教科書やら手帳やらがばさばさと床に広がった。
「うわっ、ちょっ、理沙何しとんっ」
 きさらの声が遠く聞こえる。
 待ち合わせ場所は、いつも大体決まっている。きさらの家からも近く、学校にも近い場所。朱色の鳥居の前。ただ、今日は別の意味を持っていた。
「かんなぎ様……」
 理沙の脳裏に、昨晩時也が持ってきた紙が蘇る。
 あの紙に書いてあった名前が蘇る。

 神凪ほたる――

 ◇

 神凪神社は市の東北にあたる一宮にある。旧い町並みの中にひっそりと朱色の鳥居が立っていて、その鳥居の先からは小高い森になっているのだ。
 実のところ、ずっとこの町で暮らしていながらこの鳥居の先に足を踏み入れたことはない。子どもの頃から少し気味悪く思っていたところもある。朱塗りの鳥居の先に足を踏み入れると、その先には異界が広がっているような、そんな薄気味の悪さがあるのだ。
 理沙はじっと鳥居を見上げてみた。軽く頷く。
 ゆっくり、鳥居をくぐった。
 鳥居の先は石段になっていた。真っ直ぐ、上に伸びている。石段の周りは木々で覆われていた。木々がざわざわと音を立てている。杉が多い。松もあるようだ。それらの音を聞きながら、ゆっくりと歩を進める。肌が粟立っていた。不思議な違和感がある。石段は長く続いていた。暫く進むと、やがて終わりが見えた。最後の段を上がり、顔を上げる。違和感は消えない。
 また、鳥居があった。
 ただし今度の鳥居は、下にあったそれとは趣を異としていた。下の朱塗りの鳥居は見るからに神社というどこか装飾した雰囲気もあったのだが、今見上げている鳥居にはその気配はない。
 木、だろうか。素朴な、そしてどことなく大雑把な造りの鳥居だった。朱色に塗られてもいない。形も少し違うようだ。その鳥居も、くぐる。
 そこから先は、真っ直ぐに石畳の道が伸びていた。意外と広い。正面に神社の社殿らしきものがあり、右手の奥に大きな松の木があった。注連縄がかけられているところを見ると、神木か何かのようだ。その近くには小さな小屋が、左手には手を洗う場所のようなところもある。
 理沙は少し迷ってから、右手の小屋へと足を向けた。窓口のような場所もあるが、木の戸がしっかりと閉められていた。辺りを見回してみる。近くに石碑を見つけた。近づいてみる。
「……おにがみさまのこと?」
 石碑に書かれた文字を、声に出して読んでみる。
「かつて、朝廷に反発していた集落あり。集落、反乱を起こすが、これ失敗せり。首謀者七人、首を討ち取られるもののなお朝廷に屈服せず。後に朝廷に相次ぐ不幸ありて、恨みから鬼と化した彼らの仕業と民多く恐れるなり。朝廷これに恐れをなして、怒れる魂を鎮めんと神社を作り手厚く葬ることとなる……?」
「ご興味が?」
「ひぁっ!?」
 背後からの突然の声に、理沙は思わず飛び上がっていた。慌てて振り返る。
 着物を着た老人が立っていた。
 こちらの反応に驚いたのか、少し目を丸くしている。きれいに白い髪は短く風に揺れていた。
 まだばくばくと音を立てる心臓あたりを押さえながら、理沙は問いかけた。
「あ、あなたは……?」
「え? ああ、すいません。私はこの神社の宮司です」
「へっ?」
 思わず、間の抜けた声を上げる。それから慌てて頭を下げていた。
「す、すいません勝手に入り込んで!」
「いえいえ、神社は全ての方にひらかれた所ですから。尤も、あまり来られる方もいらっしゃらないので、ご覧の通り淋しいものなのですが」
 老人が笑いながら告げてくる。少しほっとして、理沙も頭を上げた。
「石碑を読まれていらっしゃったので、思わず声を掛けてしまいまして。驚かせてしまったのなら申し訳ない」
「あ、いえいえ、こっちこそ」
 両手を振る。老人は穏やかに笑んだ。少し考えてから、理沙は口を開いた。
「あの、これって何のことなんですか?」
「ああ、ここの……神凪神社の成り立ちです」
「へ? 神社ってお稲荷様とかを祀ってるんじゃないんですか?」
「それは稲荷神社ですね。ここは御霊ごりょう信仰……鬼神様をお祀りしております」
 言われても、理沙にはよく判らなかった。そもそも寺と神社の違いも知らないのだ。ただ、何かが引っかかっていた。勘としか言いようのない、胸騒ぎに近いものがある。
 老人――宮司が、軽く微笑んだ。視線を理沙に合わせてくる。
「お時間が大丈夫なら、ご案内しましょうか?」
「えっ、あ、は、はい! お邪魔でなければ!」
 思いっきり頷いてから、慌てて付け足す。
「友だちと待ち合わせしてたんですけど、向こうが遅れるとか言ってきたんで、ちょっと時間、余ってたんです。それでここにはじめて上がってみて」
 口から出任せだ。ただ、なんとなく迷い込んだということにしておきたかった。まだ何も判らないのだ。宮司は疑う素振りもなく、「そうですか」と笑っていた。
「では、暇つぶしにでも爺の戯れにお付き合いください」
 宮司は自分で言うほど年老いているようにも見えなかった。六十後半から七十前半といったところだろうか。髪は見事に白一色だが、動きに老いた様子はない。体も割りとがっしりとしていた。ただ、目元が子犬のようで愛嬌があり、威圧感はない。
「お参りはなさいますか?」
「あ、はい。じゃあ」
 とりあえず頷いておく。宮司について歩き出す。すぐに、手洗い場らしきところに着く。手水舎ちょうずや、というらしい。洗い方の作法なんかも教えてもらいながらぎこちなく一通りこなした。それから社殿へと向かう。
「あ。申し訳ない、もうすこしこちらにお寄りください」
「え、はい」
 頷いて、少し宮司の傍に寄った。見上げると、説明してくれる。
「参道の真ん中は正中と言いまして、神様が通られるところですから、あけておくのです」
 ここにくる石段は堂々とど真ん中を歩いてきたが、いけないことだったらしい。それから、参拝の作法も教えられた。見様見真似で何とかこなす。その最中にも、考えは纏まらないままぐるぐると渦を巻いていた。
 ここは、この神社は。
 ほたるとなんらかの関係があるのだろうか。
 かんなぎ、という名前だけでここまで来たが、確信はない。ただ、どうしても気になっていた。宮司に訊ねるのは直接過ぎるのだろうか。
 参拝を済ませ、宮司の元へ戻る。
「すいません。何かいろいろ教えてもらっちゃって」
「いえいえ。お若い方が足を運んでくれるだけで、鬼神様もお喜びになられるでしょう」
 再度歩き出した宮司について行きながら、理沙は訊ねてみた。
「あの、さっきからちょっと気になってるんですけど、おにがみさまって何ですか?」
「ここでお祀りしている神様のことです。先ほど、石碑をご覧になられていたでしょう?」
「あ、はい。何か反乱がどうとかってやつですよね?」
「はい。ここは、その時に処刑されてしまい鬼となった七人の方を祀っているのです」
「えっ!? じゃああたしが今お参りしたのって鬼ですか!?」
 思わず声を上げると、宮司は軽く笑い声を上げた。
「驚きますか?」
「え、いやだって、鬼ですよ? 桃太郎とかのやつですよね。わるもんじゃないですか」
 思ったままを口にすると、宮司は再度笑い声を上げた。
「確かに、そう言われる方は多いですね。でも、日本では古来神というのは善の存在ではなかったんですよ」
「はへ?」
「邪であり、聖である。それが神様のお姿です。判りやすいのは、雷神様でしょうか。落雷は被害をもたらせるでしょう。けれど、雷光のことを稲妻と言う」
「稲妻?」
「漢字では、稲の妻と書くでしょう? 昔は雷が畑に落ちて稲と交合することで米が出来ると信じられていたんです。これは、雷の善の側面です。そんな風に、ひとつの神様が邪であったり聖であったりするものなんです。鬼神様も同じで、お力が強ければ災いを齎せることはあるけれど、丁重にお祀りすれば、逆に力になってくださる。そう考えたんですね」
 丁寧な説明に、理沙は感嘆の息を漏らしていた。
「なんか、面白いですね」
「そう思っていただけたなら嬉しいです」
「でも、鬼って想像の生き物ですよね?」
 問いかけてから、理沙はしまったと口を押さえた。何も、鬼を祀っている神社の宮司に直接訊くことじゃない。考えずに言葉を発してしまうのは理沙の悪い癖だった。が、宮司は気を悪くした素振りもなく、軽く考えるように首を傾げた。
「どうでしょうね。ここに祀ってある御神体は鬼の木乃伊ミイラですけれど」
「え」
「鬼の木乃伊ミイラとされているもの、ですかね?」
 微笑まれ、理沙は気まずくなって曖昧に笑った。
「昔は今よりもずっと、祟りや怨霊、鬼が身近だったんですよ。祟りは絵空事ではなく、身近な恐怖だった――だからこそ、鬼を恐れたんでしょう」
 そう言って、宮司は足を止めた。理沙も足を止める。すぐ前に、あの大きな松の木があった。
「これは、御神木です。樹齢三百年を超えるクロマツなんですよ」
「三百!?」
 驚いて見上げる。太い松は枝を天に伸ばしていて、深い緑の葉が天蓋のようにも見えた。圧倒されるほど、力強い。
「すごいですね。これ写メっていいですか?」
「しゃめ?」
「あ、写真です。メールで送りたいんですけど」
「ああ、はい。いいですよ、どうぞご自由にお撮りください」
 許可を得てから携帯電話を構える。大きすぎてなかなか画面に入らなくて苦労したが、何とか一枚撮り終えた。それを添付画像にして、メールを打つ。写真は、目の前で携帯電話を取り出すことへの口実だった。宛先は、二つ。時也と亮だ。今長い文を打つこともない。ただ一言、かんなぎ様、と送った。この符号で、二人は気付くだろう。



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