第三幕:変化―おにとかす―  参


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 まだ、はっきりとしない。それでも、なんとなく感じるものがある。ここは、普通とは違う場所だ。あの朱塗りの鳥居をくぐったときから、違和感が消えない。宮司は、良い人だと思う。こんな小娘相手に飽きもせずに話し掛けてくれているのだ。ただ、逆に考えることも出来る。見られたくない場所なり人なりがいた場合、勝手にうろつかれるよりは教えてまわったほうがいいのかもしれないのだ。
 携帯電話をぱちんと閉めて、理沙は腹を決めた。だらだらと鬼のことを聞いていたって埒があかない。賭けに、出るしかない。
 笑顔を作って顔を上げる。
「ありがとうございました。友達、もうすぐで着くみたいなんで、あたしそろそろ行きますね」
「そうですか。また宜しければお立ち寄りください」
「はい。楽しかったです。ありがとうございました」
 頭を下げ、軽く駆け出す。それから、不意に足を止めてみせた。
「あ、そうだ」
 振り返る。まるで今気付いたのだというように、出来るだけ何気ない口調で言った。
「ほたる、います?」
 ざわりと、木々が鳴いた。
 神木だと教えてもらったあの松の大木に、風が吹き付ける。
 淋しい。
 ふと、思った。淋しい。とても淋しい風音だった。
 その風音の中で、宮司は微笑んだまま首を傾げる。
「さあ。私が子供の頃は、この辺りにもいたんですけれどねえ」
「そうですか。じゃあ」
 もう一度笑って、駆け出す。鳥居をくぐるときには、心臓がばくばくと音を立てていた。少しずつ、足を速めていく。途中からは、石段を完全に走り出していた。
 ここだ。
 確信に、胸がざわめいている。
 ほたる、ここにいるんだ。

 ◇

 理沙からのメールで、亮はようやく三仰河高校の前を離れた。ほたるは、帰宅生徒の中には見当たらなかった。
 かんなぎ様、と一言だけのメールで、添付画像は松の写真だった。一瞬、背中を打たれた気がした。時也が持ってきたほたるのデータは、昨晩寝ずに見ていたせいですっかり頭に入っている。ほたるの苗字と、理沙のメールの文面に書かれた単語が同じだったのは驚きだった。
 かんなぎ様。口に出して呟いてみる。この辺りに住む人は大体あそこをそう呼ぶが、そうでなくごく最近どこかで聞いたはずだ。考えて、思い至る。理沙の電話だ。阿部きさらと電話をしていた時、口にしていた待ち合わせの符号。理沙はおそらくそこからたどり着いたのだろう。
 我知らず、亮は駆け出していた。
 確信は、出来ない。不安は大いにある。けれど、ほたるに逢いたかった。あんな訳の判らないままの別れでは到底納得できない。かんなぎ様とほたるが完全にイコールで結ばれる証拠は何もないが、欠片でもいい、可能性に縋りたかった。
 八坂高校から神凪神社は近いが、三仰河高校から神凪神社はそれなりに距離がある。走っているうちに息が切れ、何度か歩みにかえて息を整えながら、それでも歩は止めなかった。
 息を切らせながらたどり着くと、朱色の鳥居の前に、理沙の姿が見えた。髪を下ろした制服姿のままだ。不意に、気まずさが浮かび上がる。昨晩の自分の散々なていたらくを理沙は見ているのだ。そして、慰めてくれた。どういう顔をして会えばいいのか判らない。
 しかし考える間もなく、理沙がこちらを見つけてきた。
「亮、遅いっ!」
 叫ぶなり、駆け寄ってきた。右手を強く掴まれる。
「理沙?」
「いいから」
 理沙は手を引っ張って走り出した。慌ててついて行く。鳥居をくぐって上がるわけではないらしい。三仰河にかかる旧い一宮橋を渡った。ここを渡ればすぐに阿部きさらの家、名花亭がある。理沙は当然の如くそこに飛び込んだ。
「いらっしゃ――って、なんやねんあんたら血相かいて」
「ごめんきさら、説明後。とりあえずアイスティーふたつ」
「はぁ、まぁ、ええけどな。そっち一番奥空いてるから座りぃ」
 制服姿にエプロンをかけたきさらが示したテーブルへと、理沙は亮を引っ張っていく。店の中はさほど混んでもいない。奥まった一角に座り、理沙はテーブルに肘をついた。顎の下で手を組み、何かを考えるかのように忙しなく目を動かしている。
「理沙?」
 真向かいに座らされ、亮は半ば呆然と幼馴染みの名を呼んだ。
「おい、理沙。かんなぎ様って」
「ちょっと待って」
 止められ、口を噤んだ。よく判らない。怪訝に思っているところへ、アイスティーの乗ったトレイを持ったきさらがやってくる。さすがというか意外と言うか、様にはなっている。きさらも怪訝な顔をしたまま、アイスティーを理沙と亮の前に置いた。
 そのきさらの手を、唐突に理沙が掴む。理沙が、顔を上げた。真剣な眼差しで、問う。
「きさら。ほたる、いる?」
「はぁ?」
 問われたきさらが、素っ頓狂な声を上げた。理沙の手を解いて、不可解な顔をしてくる。
「いきなり何言うとるんよ、理沙。ほたるってあのピカピカしとるやつか?」
「やっぱそうなるよね」
「はぁ?」
 再度、怪訝な声が上がる。当然だろう。しかし理沙は「そうだよね」を何度か呟いて、また視線をうろうろとさせていた。困惑した表情のきさらが、亮に視線を向けてくる。亮は慌てて首を左右に振った。判らない。理沙の言う「ほたる」が虫ではなくあの少女のほうだろうと説明するのは容易いが、基本的に人の名前を覚えないことでクラスでも有名な阿部きさらが、あのおとなしい少女を覚えているとも思えない。
「理沙?」
「きさら、ごめん今日キャンセル。また後日話せそうなら話す」
 亮の再三の呼びかけにも応じず、理沙はきさらを見据えていった。無視をされているようにも思えたが、不思議と腹立たしくはない。ただ疑問だけが膨れる。
 きさらは軽く苦笑だけを残して店の奥へと消えていった。ストローの袋を破り、理沙が乱暴にグラスにストローを突き立てた。琥珀色の液体を一口吸い上げて、大きく息を吐く。
「亮」
 ようやっと理沙が顔を上げた。正面から、見据えてくる。理沙らしい強い視線だった。ほたるのように神秘さを宿しているわけではなく、現実に足をつけているものの意思の強い眼差し。
「落ち着いて、聞いてね」
「落ち着いてないのはお前」
「判ってる。もう落ち着いたから。あのね」
 理沙が下唇を舐めた。戸惑うように、言葉を選ぶようにしながら、告げる。
「あの子、あそこにいる」
 きん、と耳の奥が鳴った気がした。心臓が急に鼓動を増す。
「逢った……のか?」
「ううん。違う。でも、確信はある」
 理沙の手が、亮の右手に覆い被さって来た。少し火照った手のぬくもりに、自分が微かに震えていたことに気付く。理沙はその震えを押さえようとしてくれたらしい。
「さっき、あたしあそこに行ったの。宮司さんに会っていろいろ話をしたんだ。そんで去り際に、訊いてみたの。さっききさらにやってみたように「ほたるいますか」って。なんて、答えたと思う?」
 こちらの答えを待つつもりはないようだった。理沙はそのまま、続けた。
「笑って首傾げたの。「私が子供の頃はこの辺りにもいたんですけどね」って。おかしいでしょ? 普通なら、さっきのきさらみたいに訊き返すよ。あたしは何の前触れもなく、そう訊いたんだから。でもあっさり答えられた。それって普通じゃないよ。あの人、何か隠して――」
 理沙の言葉が全て終わる前に、亮は重ねられた理沙の手を振り払っていた。駆け出す。
「亮っ!」
 背後からの声を無視して、名花亭の入り口の戸に手を伸ばした。しかし亮が戸を開けるより一瞬早く、戸が向こう側から開けられる。半ばぶつかりそうになった体を慌てて止める。止めてから、後悔した。ぶつかってやればよかった。
「何だ。やっぱりここにいたの。全く、あんな場所に僕を呼び出さないで欲しいよ」
 戸を開けたのは、時也だった。昨夜と変わらない格好のまま、そこに立っている。顔には相変わらずの笑みを浮かべていた。
 昨日の不快感が胸に押し寄せてくる。それでも、今は構っていられなかった。一度だけ睨みあげ、時也の隣をすり抜けようと足を踏み出す。その瞬間、腕を取られた。それでも亮は振り向かなかった。時也も振り向いてはいないようだった。背中越しの囁きが、耳に届く。
「何処へ行くつもり?」
「あんたには関係ないことです」
 吐き捨てるように言うと、腕の力が緩んだ。振り払う。再度足を踏み出そうとしたとき、もう一度時也の声が追って来た。
「かんなぎ様、か」
 思わず、振り返っていた。睨みあげる。時也もこちらを見つめていた。静かな、色のない眼差しだった。口元だけが、笑っている。
「ほたるのところへ?」
 一瞬にして、全身が熱くなる気がした。やっぱり、知っていた。知っていたのに、教えなかった。苛立ちが、喉を裂いて暴れようとする。それを無理やりおしとどめ亮は吐き捨てた。
「あんたには、関係ないことです」
「関係ある。あるから、わざわざこうして忠告に来てあげてるんだよ、松風」
「あんたは何をどこまで知ってんだよっ!」
 今度は、抑えられなかった。怒鳴り声を上げ、時也の胸倉を掴んでいた。涼しい、冷たいとも言える眼差しのまま時也はこちらを見据えている。驚きも、苛立ちも、表情にはない。その事が、堪らなく腹立たしかった。殴ってやれば、少しはこの顔も崩れるのか。苛立ちの中で、拳を振り上げる。その時だった。
「ええかげんにしいっ!」
 亮が上げたものよりも大音声の怒鳴り声が、割り込んできた。タイミングをずらされた拳を持て余して、振り返る。きさらが、両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
「ここはうちの店や。人の店で、喧嘩なんてせんといて」

 ◇

 夕焼けが、教室を赤く染めていた。
 西校舎三階の生徒会室は人気もなく、ただがらんとした空虚が夕映えに染まっている。
 この場所を選んだのは時也だった。亮としては、すぐにでも神凪神社に行きたかったのだが、時也はそれを良しとせず、理沙までもが直接行っても逢えないと思うと言い張った。結局、半ば二人に引きずられるようにしてここに連れて来られたのだ。
 亮も理沙も、今までこの教室に入ったことはない。慣れ親しんでいるのは時也だけだ。
 意外と雑然としている。長机が四つ、四角に囲われているのを除けば、生徒会役員の私物らしき漫画やら体操服やらがてんでばらばらに放り出してあって、まとまりはない。部屋の隅に寄せられた無機質な棚には、大きなファイルがいくつも入っている。そこもあまり整頓されている様子はなく、プリントがそのまま突っ込まれている様子もあった。
 理沙が傍の壁に背中を預ける。時也はさりげない足取りで棚へ近寄り、大型のファイルを弄んでいる。亮はその背中を、ただじっと見据えた。時也は教室に足を踏み入れてから、一言も言葉を発していない。
「どうやって、ほたるの素性を調べたんですか」
 おもむろに、亮は時也の背中に声を掛けた。ファイルに触れていた時也の手が動きを止める。隣の理沙が、小さく身じろぎする気配が伝わってきた。
 時也が、振り向いてきた。
 教室の窓から射し込んでくる茜色の光に顔を染め、微笑んでいる。
「種明かしは、前にしたはずだけれど?」
「かんなぎ様もそれで知ったんですか」
「そうだよ」
 頷いてくる時也を睨み、亮は冷たく吐き捨てた。
「いいかげん、嘘吐きすぎっすよ、先輩」
 その言葉に、時也の目がすっと細まった。亮はゆっくりと一歩、前に出る。
 時也のことは、嫌いではなかった。入学してから何かと構ってもらっていたし、嫌いだったらそもそも付き合いそのものを拒絶していたはずだ。妙な人だとは思うし掴めない人物だとも思うが、一方で子供っぽいところや頼りになるところも知っている。実際、ほたると初めて出逢ったあの時に時也がいなければ、その瞬間に自分はいなくなっていたのかもしれないのだ。その点では感謝もしている。ただ、だからこそ判らなかった。時也が何を考えているのか判らなくて、恐ろしくもある。
「嘘。僕が?」
「そうです」
 頷く。それから、ゆっくり唇を開いた。昨晩ずっと考えていたことがある。ただそれを、どうやって口にすれば伝わるのかが判らなかった。演説やら何やらの類は、生徒会長の時也と違って全く慣れていないのだ。それでも、口にしないわけにはいかなかった。ぐっと拳を握る。
「昨日のあんたの推測、いろいろ無理がありすぎるんです」
 時也はただ微笑んでいる。その笑みに負けないように、亮は視線を外さなかった。
「家が近所かどうかだって、判らないじゃないですか。ほたる、確かに何も持ってなかったけど、そのとき俺ら、鞄くらいしか取り上げなかった。ジーンズのポケットも確認しなかったんだ。ナイフとかそんな類が入るほどの大きさじゃないから。でも、自転車の鍵とか、駅前ロッカーの鍵とかくらいなら入る。ロッカーに荷物全部置いてる可能性だってあるし、自転車に鍵つけっぱなしで来てた可能性だってある」
 理沙が後ろで息を呑む気配がした。構わず、続ける。
「それに、家がもし近所だとしても、学校が近いとは限らない」
「電車には普段乗らない。彼女、そう言ったのは覚えている?」
「言ってましたよ。でも、バスにも自転車にも乗らないとは言ってない」
 時也の笑みが深くなる。
「昨日、理沙が俺の自転車乗って公園に来てた事思い出して、それでおかしいって思ったんだ。あんた色々言うわりに、自転車とかバスのこととか一切言わなかった。明らかに変だ。自転車とかバス使えば、市内の高校なら殆どどこでも行ける。三仰河、八坂、二葉に限る必要なんてないんだ。ネクタイは結べなかったけど、だからってイコール三仰河なんて、大雑把過ぎる」
「判った。僕の推測が大雑把だったのは認めよう。でも実際あの子は三仰河高校に通っているよ。これは保障する」
「そこです」
 思わず、声が大きくなっていた。後ろで、理沙が驚いている。時也の表情は変わらない。
「何でこんなくそ大雑把な推測で、きちんとほたるの素性に行き着くんですか」
「行き着いちゃったものは仕方ないじゃない。偶然だってある」
「違います」
 断言していた。
「偶然なんかじゃない。大体あんた、最初っからどっか胡散臭かった。態度に一貫性がなくて、全然判んなくて……」
 一度、言葉を切った。この先は殆ど当てずっぽうでしかない。それでも意を固め、告げる。
「だったら、こう考えたほうがずっと自然なんだ。あんたは最初っから、ほたるを知っていたって――」
 沈黙が、落ちた。まだ校舎に生徒が残っているのか、遠くからざわめきが聞こえてくる。少しして、弾けるような笑い声が上がった。時也だった。時也が、腹を抱えて笑っている。
 亮と理沙には構わずひとしきり笑うと、前触れもなく笑いを止めた。ふ、と顔を上げてくる。口元には静かな笑みを、眼差しには悪戯めいた光を宿していた。
「驚いた。意外と見るとこ見てるんだね、松風」
 涼やかな言葉と同時に、時也は傍の長机に腰をかけた。背中に、赤い夕日が眩しい。
「ただ、当たっているようで少し違う。僕は別に、彼女が誰かを知っていたわけじゃない。彼女が何か≠キぐに推測できた、ってだけさ」
「何……か?」
 いつの間にか隣にきていた理沙が、訝るような声を上げる。時也が軽く首を傾げた。夕陽に透けた髪が、さらりと揺れる。
「覚悟は?」
「は?」
 声を上げる理沙の腕を、亮は掴んだ。正面から、時也を見つめる。
「あんたが、昨日言ったことですか」
「そうだよ」
「俺が、全く覚悟なしで、あんたにこんな風に言うと思いますか?」
 時也は、また少し微笑んだ。
「合格。石川さん」
 名前を呼ばれた理沙が、軽く身じろぎした。亮はその腕を放す。
「君は出来るならここから立ち去ったほうがいい。松風は当事者だけど、君は――」
「真面目に鬱陶しいですよ、会長。いいから黙って素直に知ってること全部お吐きになりやがってください」
 理沙の真面目な口調での無茶な台詞に、時也の肩が震えた。口元を押さえ、押し殺した笑い声を漏らす。
「面白いなぁ、石川さんは」
 それから、ふっと顔を上げた。視線を、背後――窓の外へと投じる。鮮やかに赤く染まった空は、美しい。その空を見上げながら、時也が小さく呟いた。
「君たちは人を喰った事なんてないんだろうね」
 唐突な言葉に、亮は思わず理沙と目を合わせていた。叶時也に対して、亮が知っていることは多分、少ない。それでも、判ることはある。いつもどこか飄々としていて、声を荒らげて怒鳴ることなんてなくて、成績抜群の生徒会長で、けれど人をからかうのが好きで子供っぽい。人を喰った性格、と言えなくもないが――
「言っとくけど、比喩的な意味じゃないよ」
 時也が言葉を投げてくる。見上げると、彼は静かに微笑んでいた。いつもの、どこかからかうような笑みではない。やわらかく、何かを諦めたときに浮かべるような微笑み。
「現実の話さ。僕は、家族を喰ったんだよ」
 静かな言葉に、亮は何も言えなかった。ただ、時也を見据えることしか出来なかった。



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