第三幕:変化―おにとかす―  肆


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「君たちが関わろうとしているのは、そういった非日常だ」
 言うなり、時也は長机から降りた。棚により、下の段から古い本を一冊引っ張り出してくる。それを無造作に机に放り出した。随分長いことしまってあったのか、埃が覆っている。
「これは?」
 舞い上がった埃にむせながら、理沙が訊ねる。時也は軽く本を叩いた。埃が再度舞う。
「郷土史。本当ならこれを読んでもらいたいところだけど……ま、読んだって全部は載ってないし、君たちにはちょっと退屈かな。座りなよ、二人とも。少し、昔話をするから、長くなる」
 微笑まれる。覚悟は、していたつもりだ。ただ、あまりに唐突過ぎる単語のせいでいまいちついていけない。勧められるまま、亮は理沙と傍のパイプ椅子に腰を下ろした。それを確認してから、時也が呼びかける。
「石川さん。君は、神凪に行ったのかい?」
「え? あ、はい。神社なら」
「宮司に会った?」
「はい。色々話を聞かせてもらったけど……」
「そう。なら、少しは楽かな」
 時也は軽く頷いて、自らもパイプ椅子に腰を下ろした。長机に肘をつき、顎を乗せる。
「他愛もない昔話だよ。昔々、今の一宮と呼ばれる辺りにひとつの集落がありました。ところがその集落は、時の朝廷に反発していたのです。そしてついに、集落は朝廷に対しての反乱を起こしたのです。首謀者は集落の中心にいた七人の男たちでした」
 唐突な話に、亮は眉根を寄せていた。ただ、口を挟めはしなかった。他人事のように話すくせに、時也の顔が何故か少し、自嘲気味に微笑んでいたのが気になるのだ。
「彼らは当然の如く捕まり、処刑されました。首を落とされる間際、彼らは言いました。「死んでもなお、朝廷には屈しない」――その後、朝廷に相次ぐ不幸がありました。それを民や朝廷は、恨みから鬼と化した彼らの仕業だと恐れました。仕方がないので、朝廷はその集落の場所に神社を作り、丁重に厚く彼らを葬り祀ったのです。祟り神よ、怒りをお鎮め給え、とね」
 そこまで言うと、時也は軽く肩を竦めた。
「ま。ここまでは割りとどこにでもある民話のパターンだし、陳腐な怪談だ。石川さん、そこまでは宮司も話したでしょ?」
「はい。鬼をお祀りしてる神社だって」
「そう。でもここで、ひとつ抜けていることがあるんだ。集落はどうしたんだってこと」
 とん、と時也が本の表紙を叩いた。
「残った集落の人間は朝廷に対してどんな気持ちを抱くだろう? 素直に屈服するかな」
「……しない、と思います」
「うん、そうだね。小さな集落で七人が殺され、その殺された七人は死してなお屈服しないと言い残したなら、残された人間もそう考えたって推測するほうが自然だ。そこに、鬼の仕業と噂される朝廷の不幸が聞こえてきたら?」
 見つめられ、亮は戸惑った。よくは判らない。判らないが、曖昧に口を開く。
「う……うれしい、ですか?」
「うん。嬉しかったと思うよ。朝廷に対しての災いは、そのまま集落の人にとっての幸福になる。そこで集落の人々は、鬼とされた七人を祀ったんだ」
「えっ?」
 理沙が、声を上げた。目を見開いて、早口でまくし立てる。
「鬼を祀ってるのは、かんなぎ様ですよね? じゃあその集落の人がかんなぎ様を……って、あれ? かんなぎ様は朝廷が?」
「落ち着きなよ。急いでは事を仕損じる。よく言うでしょう」
 呆れたように呟いてから、時也は本を捲った。付箋がしてある。黄ばんだ紙には、細かに文字が書かれていた。その一文が目に飛び込んでくる。鬼神様のこと。
「神凪神社を管理したのは朝廷だよ。けどそれとは別に、集落も彼らを神として祀ったんだ。自分たちを守ってくれる氏神うじがみ……この土地の神だとして、ね。同じ氏神を祀る集落を、氏子うじこと呼ぶんだけれど、その集落は鬼氏子と呼ばれた。鬼を祀る、異端の集落だったからね」
 時也の指が、すっと一文を撫でた。見るが、字や言い回しが難しいのもあって亮にはよく判らなかった。それでも、氏神という文字だけははっきりと判る。
「そして鬼氏子の中でも特に、処刑された七人の血筋を鬼筋と呼んだ。鬼の血が流れる筋、鬼筋おにすじとね。そして、異変が起きたんだ」
 唐突に、時也は本を閉じた。不要になったものを扱うように、大雑把に長机に放り出す。パイプ椅子に背を預けて伸びをした。きい、とパイプ椅子が鳴る。
「会長?」
「ここから先は、記録には殆ど残ってない。ま、残せなかったとは思うけどさ」
 どこか拗ねたような口調に、気味が悪くなる。亮は小さく「先輩?」と呼びかけた。少しの沈黙の後、時也が身を正した。再度机に頬杖をつく。
「鬼筋の子供たちに、鬼が降りたんだ」
「……は?」
 亮は思わず声を上げていた。時也はつまらなそうな口調で続ける。
「鬼だよ、鬼。降りた、というか、変質しちゃったというか。ようは鬼になっちゃったの。殺された七人と同じようにね。それで、またまた朝廷に襲い掛かったわけだ」
 突然、話が民話から逸れた気がして違和感があった。だが、嘘でしょうというべき唇は震えてものにならなかった。妙な胸騒ぎに、嫌な汗をかいていた。
「ま、鬼筋の子が全部鬼になるわけじゃない。どういう理屈かは不明だけどね、鬼を宿す子供たちを鬼宿きしゅくと呼んだんだ。その鬼宿ってのは、つまり鬼が降りるわけだけど、言い換えれば鬼に喰われちゃうんだ。十夜かけて鬼に自我を喰われつくして、それからさあ改めて、って感じで朝廷を襲おうとする。まぁ、これに怯えたのが朝廷だよ。ちゃんと祀ったのにってね。神凪は神凪で、神社の名落ちだ。で、どうしたか。神凪が鬼を狩るようになった」
 相変わらずつまらなそうな口調で続け、お手上げだという風に時也は軽く手を上げた。
「で、質問ね。君たち、アメリカ嫌い?」
「はぁ?」
 亮は、理沙と同時に声を上げていた。話が、とんでもない。話自体もとんでもないが、話が飛ぶ方向もとんでもない。理沙と顔を見合わせ、曖昧に首を振った。
「別に、嫌いじゃないですけど」
「あたしも。マックとか好きだし」
「だろうね。でもちょっと前まで、鬼畜米兵やっつけろー、なんて言ってた時代があるでしょ」
「戦時中……えっらい古い話じゃないですか」
「そ。それとおんなじ」
 時也が、にっこりと笑った。
「神凪が鬼を狩るようになってから暫くたっても、鬼筋には相変わらず鬼宿が生まれていたんだ。今度困ったのは鬼氏子のほうだよ。いくら神様と祀っていたって、何代も前の恨みなんて薄れていくに決まっている。それなのに呪いは消えない。荒唐無稽な話だよ。でも、そういう現実があった。鬼氏子も困っていた。けれど同時に、その頃になると神凪も困っていた――というか疲弊していた」
「疲弊、ですか?」
 亮の言葉に、時也が頷いた。
「そう。鬼宿に宿る鬼は、ようは首謀者七人の魂だろうけれど、御魂はね、変質するんだ。朝廷を狙い続けていたうちに、それを阻止してくる神凪を狙うようになってしまった。それまでは阻止だったのが、防護に変わっていく。これはね、思っているよりきついものらしい。殺人犯を止めようとしているか、殺人犯に狙われようとしているかの違いだからね。そこで、安政四年、神凪と鬼氏子は手を組んで一計を案じた。それがまた原始的な方法で笑えるんだけど」
 ふふ、と時也が笑った。いつもの、笑い方だ。それなのに亮は、背中に立った鳥肌を確かに感じた。怖い。怖い、けれど――哀しい――?
「人身御供――生け贄を立てたんだ」
「いけにえっ?」
 理沙の甲高い声が、教室に響いた。その声に僅かに顔をしかめ、時也がうめく。
「そうだよ。神凪の巫女を鬼に捧げたんだ。古来、神に人を与えるのは最上の献上物だったから別に珍しくはない。だけどね」
 時也が、鼻を鳴らした。
「儀式自体が莫迦だったんだよ。少し考えれば判ることだ。鬼とは、恨みからなるもの。さて、生け贄にされた巫女は?」
「……え、まさか」
「そのまさか。鬼になって、神凪の血に鬼宿を呼んだ」
 一瞬にして、重い沈黙が落ちた。ややあって、理沙がうめく。
「あ、ありえない……さいっこー矛盾。ひっどい悪循環」
「僕もそう思うよ」
 言うなり、時也が立ち上がった。放り出してあった本を手に取り、棚へと戻す。
「先輩?」
「僕の話はこれでおしまい。信じる信じないは君たちの自由」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ! その昔話とほたるが何の関係――」
 言い切る前に、口を噤んでいた。振り返った時也が、ぞっとするほどの笑みを浮かべていたのだ。壮絶な笑みに、言葉が掻き消える。
「全てを言わなきゃ、判らない?」

 ◇

 外に出ると夕陽はとうに沈んでいて、薄暮の空が広がっていた。空にはうっすらと月がかかっている。昼間の暑さを和らげるように吹く夕風が、木々を撫でていく。旧い家々の軒先にぶら下がった風鈴が、ちりんちりんと重なり合うように鳴っていた。影が三つ、長く伸びている。
 ゆっくりとした足取りで、理沙は亮の後ろを歩いていた。生徒会室に教師が来て追い出されてから、また亮は口を開いていなかった。そのまま、旧い一宮橋を渡る。名花亭を過ぎると、自然と三人の足が止まった。朱塗りの鳥居がひっそりと立っていた。亮は背中をこちらに向けていて、表情までは窺い知れない。ただ、判る。今すぐにでも、行きたいはずだ。だけど、もし、そうもしも時也の話が真実なら、ほたるがそこにいる保障はない。いたとして、自分たちに出来ることは何もない。真実なら、の話だ。
「先輩」不意に、亮が声を発した。亮の隣の時也は、平坦な声で応じる。
「何、松風」
「さっき言ったこと、もし本当だとして」
 亮は、空を見上げた。否、違う――鳥居の奥、木々に囲まれ見えない神社そのものを見上げている。青々とした松や杉に、夕風が冷たく吹き付けている。微かな緑の匂いが、土の匂いが流されている。その向こうに、神凪神社は建っているのだ。
 亮の背中が、哀しかった。薄明の、淡い藍色の空を刳り貫くように浮かび上がる亮の背中が、淋しかった。その背中が、声を発す。
「どうして、俺が狙われるんですか?」
 その言葉と同時に、青嵐が吹いた。悲鳴のように、木々が鳴く。そして、影が見えた。
 理沙の目には、影にしか見えなかった。
 小柄な、歪に捩れた人影。それがまるで風そのもののように、亮にぶつかる。
 刹那、亮の体がびくんと派手に跳ねた。紅が、飛散する。
「亮ッ!」
 理沙は思わず声を上げていた。
 目の前で、幼なじみが倒れていく。その上を、黒い影と風が嬲るように吹き抜けた。
 薄く淡い月明かりの中で、ただ流れ出る血だけはあまりに鮮やかな猩々の緋色をしていた。
 時也が、腕を振った。何かを、叫んでいる。でも、聞こえなかった。全ての音が遮断されたようで、何も、聞こえなかった。黒い影が、亮の傍を離れる。そして、跳んだ。藍色の空に、赤が跳ねる。
 影は動物か何かのように、跳んで、消えた。闇へと溶けてしまうようで、その先なんて追えなかった。それよりもただ、叫んだ。亮。亮。亮。
「亮ッ!」
 聴覚が、戻った。ざわりと耳障りな木々の音が、場違いに穏やかな風鈴の音色が戻ってくる。時也の荒い息遣いも、聞こえた。理沙は亮のすぐ傍にしゃがみこんだ。胸元が赤く、染まっている。触れた指にどろりとぬるい液体が絡んでくる。生臭かった。心臓が、痛い。
「何よこれっ、何なのっ、返事してよ、亮!」
 目を閉じたまま、亮は身動きをしない。強く揺さぶる。何度も、馬鹿みたいにただ叫ぶしか出来ない。自分の叫び声の合間に、理沙の耳に時也の掠れた声が届いた。
「莫迦な」
 声は、震えていた。掠れ、震えていた。
「莫迦な――月はまだ満ちていないはずだ!」

 ◇

「理沙っ」
 自分を呼ぶ声。同時に、きつく抱きしめられた。不安と安堵が、同時に膨れ上がる。頼りなく震える手で、理沙は抱きしめてくれた人物の背に手を回した。
「あっちゃん、あっちゃん……っ」
「そうよ。理沙、どうしたの。何があったの」
 強く、けれど責めるわけではなくしっかりとした口調で訊いて来る。理沙は大きく息を吐き、顔を上げた。
 目元は、亮に良く似ている。けれど彼女は女性で、そして年上だった。女性にしては背が高く、中性的な雰囲気を醸し出す要因である短い髪が、ロビーの無機質な光に照らされている。
 松風晶。亮の七つ年上の姉だ。会社から直接来たのか、パンツスーツ姿だった。
「判んない……判んない、よ。なんっ……」
「傍にいたの?」
 問いかけに、頷く。それくらいしか理沙には出来なかった。涙を抑えることも出来ない。
「泣かないの。泣かないのよ、理沙。あの馬鹿なら、絶対大丈夫だから」
「松風くんのお姉さんですか」
 横手からの声に、理沙にまわっていた晶の手が緩んだ。晶が顔をそちらに向ける。
「ええ。あなたは?」
「八坂高等学校の生徒会長を務めています、叶時也です。下校時、一緒だったので」
「そう」晶が頷いた。理沙を放し、時也を見つめる。
「亮は?」
「病室です。処置は終わっていて、見た目は派手ですがたいした怪我ではないそうです。まだ目は覚めませんが、ショック性の貧血か何かだろうから、じきに目覚めると」
 時也の言葉に、晶が大きく息を吐いた。晶の手が軽く、理沙の頭を叩いた。
「そんな大げさに泣かないでよ。心臓止まるかと思っちゃったじゃない」
「あっちゃん、でも」
「うん、心配してくれたのね。怖かったでしょう、ありがとう」
 微笑まれると、少し安心した。幼い頃よくしたように、理沙は晶の手を掴んだ。
 エレベーターに乗り、亮の病室に向かう。
「あら。あなた、怪我を?」
 晶が、時也の腕に目を留めた。時也の腕にも包帯が巻かれている。
「ええ、まぁ」
「何があったのか、教えてくれる? 理沙がこれじゃ、事情が全然判らないわ」
「僕も判りません。通り魔、なのかな……。人影がすれ違ったときには、松風くんが倒れてたんです。僕は慌てて近寄って、そしたらこの様です」
 時也の口からすらすらと出てくる話に、理沙は口を噛んで俯いた。嘘ではない。嘘ではないが、真実でもないだろう。ただ、時也がいてくれて本当に良かったと思った。あの時自分はただパニックになっていただけで、救急車ひとつ満足に呼べなかった。救急車を呼んだのも、晶を呼ぶように指示をしたのも、警察の応対も、全部時也がやってくれたのだ。自身も怪我をしているのに、警察には理沙はまだ混乱しているから少し待ってくれと伝えてくれたらしい。ありがたかった。何よりいくらたいした怪我ではないとはいえ、時也がいなければ亮がどうなっていたかも判らない。
 エレベーターを出て亮のいる病室へと入る。白く清潔な個人部屋の寝台の上、亮は先刻と変わらずまぶたを閉ざしたままだった。晶が息を呑む。
「……この馬鹿」
 うめく晶の声を聞きながら、理沙は目元をこすった。さっきから泣き続けで、アイメイクも全て落ちているだろう。多分、ひどい顔だ。
「松風さん」病室の戸が開けられ、看護婦がひとり顔を出した。
「あ、よかった。ご家族の方ですね?」
「はい。姉です」
「お時間よろしいですか?」
 晶が頷いた。一度亮の頭を軽く撫で、理沙に微笑んでくれる。
「理沙、平気?」
「うん。あっちゃんが来たらちょっと落ち着いた」
「そう、良かった。わたし、医師とお話してくるから少し席を外すわね」
「うん」
 晶は、理沙の頭も撫でた。くしゃりとかき回してから、しっかりとした足取りで病室を出て行く。背中を見送ってから、時也が短く息を吐いた。理沙の傍に、椅子を置く。
「少しは落ち着いたみたいだね」
「……すいません迷惑かけまくりで」
「いや。泣き止まなくてどうしようかとは思ったけれどね」
 気まずさに俯くと、軽く肩を押された。椅子に座る。
「会長?」
「あれだけ泣いたら結構疲れたでしょ。飲み物買ってくるよ」
 止めるまもなく、ひらひらと手を振って時也が出て行った。変な人だと、思う。優しいのか気味が悪いのか、怖いのか冷たいのかさっぱり判らない。息を吐いて、理沙は亮を見つめた。
 眠っている。
 きつくまぶたを閉じて、静かに浅く、息をしている。ただ、見慣れた亮の顔色でないのは確かだ。いつもより随分、青白い。
 何が起きたのか、判らなかった。黒い人影が、亮にぶつかった。理沙に判るのはそれだけだった。時也は、それでいいと言う。それ以上は、判らなくても仕方ないと。警察に訊かれた時はそれだけを話せと言う。ただ、理沙は知りたかった。亮が何故倒れたのか。
 あの人影は、なんだったのか。
 不安が、胸中で黒く渦巻いている。あれは、あれは何だったのだ。人影。本当に、人の影か。だとしたらあの小柄な影は、何故ああも歪に捩れていた? 何故闇に溶け消えるようにどこかへ跳んでいった? そんなことが、人に可能なのか。可能だとして、誰の仕業なのか。
「……りょう」
 小声で、呼びかけた。同時に、亮のまぶたが動いた。思わず、息を呑む。
 亮の目がうっすらと開かれた。焦点を合わせるかのように、数度、ゆっくりと瞬きをする。
「……亮!」
 叫んでいた。立ち上がり、覗き込む。安堵と歓喜に、笑みが漏れ――そこで、止まった。
 違和感が、あった。
 亮は目を見開いた状態で、じっと虚空を見つめている。
「どう……したの?」
 声が震えていた。亮は、答えない。理沙を気にも留めずに、ゆっくりと上半身を起こす。
「あっ、こらっ。まだ起きちゃ駄目だってば、あんた怪我してるんだから」
 押さえようとした手が、払われた。
「……え?」
 思わず、声が漏れていた。払いのけられた手を持て余す。亮は上半身を起こした姿で、じっと虚空を見据えている。表情すらないままに。
「亮……?」
 自分の震える声が、耳障りに響く。少しの間、音も何もなかった。沈黙が、耳に痛い。シーツの音すら立てず、亮は上半身だけを起こしている。
「石川さん」
 声と同時に、戸が開かれた。反射的に振り返る。ジュースをひとつ持った時也が立っていた。
「かい、ちょ……」
 時也の顔から、表情が消えた。亮と同じだった。その視線は自分を通り越し、寝台の上で身を起こしている亮に注がれている。
 間に挟まれ、訳が判らないまま理沙は再度亮に目をやった。
 亮は緩慢な動作でゆっくりとこちらへ――否、時也へと顔を向ける。そして、口を開く。
「久しいな」
 亮の頬に、似つかわしくない皮肉めいた笑みが浮かんだ。
 理沙は両手を握り締めていた。胸騒ぎがする。不安が、鼓動の音で警鐘を鳴らしていた。
 時也が、ふと息を吐いた。口を開く。
「久しぶりだね。――神子みこ



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