挿話:昔時―かつてあり―


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 走っていた。逃げていた。ずっと、ずっと、ずっと。
 月は満ちていく。朔月から二日月へ。蛾眉がびへ、四日、五日、六日、七日の月を越え、まだ満ちていく。
 月が満ちる。灯りが降る。闇が味方でなくなると、眼に痛い猩々の緋色が飛び込んでくる。
 また、逃げた。逃げながら渇望した。切望した。熱望した。

 だれか、ぼくを、たすけて。

 知っていた。
 助けてくれることが出来るのは、この世でただ一人、神子みこのみだと。
 知っていた。
 助けてくれることが出来るはずの神子は、もうこの世にはいないと。
 知っていた。
 どちらにせよ、十の夜を過ぎれば、鬼は鬼宿を喰らい終えるのだと。
 知っていた。
 完全に喰らわれずとも、十の夜を過ぎれば人にはもう戻れぬのだと。
 それでも、願った。

 だれか、ぼくを、たすけて。

 上弦の月を過ぎ、八日月を過ぎ、九日月を過ぎ、それでも、願った。
 十の夜を、過ぎた。
 十日月夜に、彼は鬼と溶け合った。

 神子を、恨んだ。



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