五幕:決断―おもひさく―  壱


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 松風亮は、まだ、目覚めない。器が目覚めない限り、神子もまた目覚めない。
 ただ、眠り続けている。
 現から逃げると言ったのは神子だったか。
 時也は後輩の白い顔を見下ろして呟いた。
 現から逃げて見る夢は、どんな色をしているんだい、松風。

 ◇

 控えめなノックの音。少しおいてから、やはり控えめな動作で扉が開かれる。座っていた晶が立ち上がり、部屋に入ってきた二人を出迎えた。
「きさら……多田。来たんだ」
 理沙の声に、二人が同時に小さく頷いた。阿部きさらと多田徹。同級生で、亮とも仲の良い二人だ。二人は静かな足取りで寝台の傍に寄ってきた。理沙の隣に立つ時也を見て、軽く会釈する。時也も会釈で応じた。後ろで、晶が扉を閉める音がした。
「マジかよ」
 多田が低く呟く。その目は、寝台の上で眠ったままの亮を見つめていた。理沙はきさらたちから視線を外し、もう一度亮を見つめる。処置はすでに昨日終わっていた。傷口が開き、派手に血が散ったが、すぐに手当てが出来たのと傷そのものはさほど深くもなかったこともあり、それ自体の危険性はない。そのはずだ。
「理沙、大丈夫なん?」
 理沙の肩に手を置いて、きさらが囁くように訊いて来る。軽く理沙は頷いた。晶の吐くため息が耳に痛い。
「何でこんなことになったのか……まではさすがに判らなくてね。何せ当事者がこれだから」
 晶の言葉に、多田が不安げな顔を作る。
「あの。亮、大丈夫なん、ですよね?」
 確認の言葉に、けれど晶は曖昧に首を振った。
「判らないわ。医師も仰ってたんだけれど、本当なら意識を失うような怪我でもないの。ショック性のものだとしても、症状が妙でね。それなのに、目を覚まさない」
 晶の言葉に、理沙はきゅっと唇を結んだ。
 昨日、あの一件があった。その後から、亮はまだ一度も目を覚ましていない。亮も、神子もだ。肉体自体が、目覚めない。丸一日が経った。
 理沙は昨日時也に聞いた話を思い出していた。
「鬼の爪は、御魂を裂く爪なんだ。肉体にも傷を負わせるけど、そこから魂そのものを裂くことが出来る。松風の魂は一度裂かれている。そして弱ったところに、神子の魂が表に上がってきた。それを今度は、神子の魂自体が裂かれたんだ。言っている意味、判るかな」
 曖昧に理沙が頷くと、時也は微かに笑んだ。
「器に入るべき魂は本来ひとつ。けれど今は、神子の魂も松風の魂も裂かれ、力を失っている。器に定着すべき魂がなくて、不安定な状態だ。どちらかの魂が回復するのを待つしかない。ただ、そうだね。あまりに回復が遅いと、器そのものが持たなくなることがある。魂なしに器が生命活動を停止しないでいられるのはごく短い時間だけなんだ。石川さん、少しだけ、覚悟はしておいたほうがいいかもしれない」
 昨日そう言っていた時也は、今日は誰よりも早く病室を訪れていた。その後に理沙が、そして晶が来ても、時也は席を外そうともしない。ずっと変わらず、傍に立って見下ろしている。時也が待っているのは神子なのか、それとも亮なのか、それは判らない。
 病室に白い沈黙が落ちた。それに耐えられなくて、理沙は眠る亮に囁いた。
「起きなさいよ」
 出来るなら、いつものように振舞いたかった。
 日曜日に無遠慮に戸を叩いて、家に上がり込んで、叩き起こして、練習につき合わせるのと同じように振舞いたかった。
 でも、出来ない。
 亮は、目覚めない。ほたるは、知らないものに変わりつつある。
 鬼宿でも神子宿でも鬼人でもない自分は、あまりに無力だった。
 石川理沙は、ただの、人でしかないのだ。
 何も出来ない自分が悔しくて、腹立たしくて、視界が歪んだ。
 きさらがそっと肩に手を置いてくる。

 ◇

 その様子を見ながら、亮は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 見えていた。
 理沙も、晶も、時也も、今入ってきた阿部きさらや多田徹も、眠る自分の姿でさえも全てが見えていた。見えていながら、何も出来ない。声を掛けることも、瞼を上げることも、指先ひとつ動かすことも何も出来ず、ただ全てを見つめていた。自分が何処にいるのかは判らない。曖昧で、不確かで、何一つ確かなことなどないような揺らいだ状態。それが多分、今の自分だ。
 辛かった。声を掛けることも出来ないのが悔しくてもどかしくて、じれったい。叫びだしたいほどに情けない。それなのに叫ぶことすら出来ない。泣くことも出来ない。それが、辛い。
 ほたる。
 声は出ないままに呼びかける。ほたる。今どうしてる? すぐに行ってやれなくて、ごめん。伝えられない言葉を、ただ繰り返す。
 曖昧に、けれど確かに、亮は現状を理解していた。
 あの時、自分にぶつかってきた影の正体も、そしてその後自分に起きた異変も判る。
 ただ、悔しかった。判るのに、理解できるのに、今、何も出来ない。その事実がただ悔しい。
 ふいに、全てが霞んだ。
 涙でも零れたのかと、それで視界が揺らぎでもしたのかと思ったが、違う。凱風に靡く湖面のように、全てがただ揺らぎ、霞んだのだ。それは視界だけでなく感覚までも同時にだった。ほんの一瞬、自分という存在自体が消えていくかのような寒気がして、そして風が止まるように、霞も晴れていく。
 最初に目に入ってきたのは、朱色だった。
 黄身がかった赤が、鮮やかに映えている。少し目が慣れて、ようやくそれが鳥居の色だったことに気が付いた。その鳥居から少し離れた石段に、ひとりの老人が立っている。
 青褐の着物を身に纏い、手には竹箒を持っている。丁寧に一段ずつ、上から掃き掃除をしているようだ。その手が止まる。老人が顔を上げた。眉根を寄せ、睨むように空を仰いでいる。竹箒の柄を握る手の甲に、僅かに血管が浮き上がる。音のない嘆息が、口から漏れた。
 また、視界に朱色が混じる。老人の姿が消えて、鳥居が再び視界を占めた。石段とは逆側、鳥居の外に彼はいた。
 先輩。
 思わず、声にならない呟きを漏らしていた。
 時也が鳥居の外の杉の樹に凭れ、老人の姿を見つめている。
 眼鏡の奥の目に、色はない。優しさも、冷たさも、喜びも悲しみもない。そこにあるのは、虚無だろう。ただぼんやりと、虚空を眺むるように老いた男の姿を見つめている。しかし虚無の目は、亮にしてみれば淋しさと同じ場所にある気がした。
 そしてまた、全てが霞む。
 再び感覚が戻る。今度は見慣れた場所だった。四角い部屋に、同じように四角い机と椅子が等間隔に並べられている。そこにいる葡萄色の制服を身に纏った亮と同い年の少年少女たち。音は聞こえないが騒々しいはずだ。そこは教室だった。松風亮にとっての日常の場所だ。
 自分の机があった。誰かが座っている。つんつんと尖った短い髪とだらしない制服の着方ですぐに判った。三村陽介だ。入学してから仲良くなった楽観的な性格をしている彼が、亮の椅子に後ろ向きに座っている。亮の席のすぐ後ろ――つまりは三村にとっての前に、中学の頃からつるんでいる多田徹が座っていた。二人は顔を付き合わせ、何かを話しているようだった。会話は聞こえないが、二人して似合いもしない神妙な面持ちをしている。なんとなく、判った。二人の話題は恐らく、自分のことなのだろう。彼らの姿が霞んだ。消えていく。
 名花亭だった。やはり制服姿の生徒たちがたくさん居る中で、少女がひとり盆を胸に抱えて息を吐いている。阿部きさらだった。彼女もまた、自分を思ってくれているのだろうか。或いは自分のせいで沈んでいる理沙を思っているのだろうか。その阿部きさらの姿も消える。今度は、理沙の部屋だった。昔からよく出入りしていた。さすがに高校に入ってからは行く回数も減ったが、それでもそこが理沙の部屋だとすぐに判る程度には記憶も明瞭だ。何より、その部屋のベッドに理沙がいた。蛍光灯もつけず、暗い部屋の中でベッドにうつ伏せに倒れている。今は夜なのだろうか。それなのに理沙は制服姿のままだった。制服のまま、暗い部屋の中で目を開けたままうつ伏せに倒れている。手には携帯電話を握り締めていた。部屋にある明かりは、携帯電話の液晶から漏れる青白い光と、窓をすり抜けて降り注ぐ月光だけだった。ふたつの青白い光に、理沙の沈鬱な面持ちが浮かび上がる。
 ごめん。
 声にならないまま、呟く。ごめん、ごめんな。
 そうしているうちにも、理沙の姿もまた消えた。今度浮かび上がってきたのは、晶だった。自室の中で膝を抱えて座っている。一瞬、どきりとした。亮が知っている晶の顔とは違いすぎた。泣いていた。静かに、ただ静かに涙を流していた。
 胸が、痛む。晶を泣かせていることに、理沙を悲しませていることに、きさらや多田、三村たちにまで心配をかけていることに、ただ胸が痛む。時也のことも、ほたるのことも、考えれば限がない。けれどそれは結局自分の――そして鬼に関わる人間に纏わる事情なだけで、他の人間には関係のないことだ。それなのに、彼らにまで心配をかけていることが苦しい。
よくよく、人に思われておるな、おぬしは
 言葉が聞こえた。それは自分ではなく、けれど限りなく自分に近しい場所から聞こえる言葉だった。自分の魂と同居するかのように存在しているもうひとつの御魂からの言葉。神子だ。
神子
 呼びかける。神子の魂は笑ったようだった。それもまた、亮には感じられた。自分の中に宿る――すぐ傍にあるようなもうひとつの御魂。彼は確かに、微かに笑っていた。
私がおぬしよりふたつ前の器に宿っていた時のことだ。おぬしによく似た男と知り合った
俺と?
 問いかける。それは、ふたつの御魂が融け合っていないが故に必要な行動だった。少しなら、記憶も知識も共有できる。けれどふたつの御魂は完全には融合しておらず、それ故に全てを理解するには至っていない。
知りたいか。ならば、飛ぶか。その眼で見てみるか。御魂は不安定だ。故に時も場所も容易に超えられる
 また、湖面に漣がたつ。一瞬の揺らぎは、ともすれば亮と神子の境目を無くしてしまいそうな気もしたが、それはただの悪寒ではなく、同時にどこか安らぎにも似た感覚を有している。ただ、その安らぎに身を委ねてはいけないことくらい判っていた。
 感覚が戻ってくる。同時に雨音がした。ぱらぱらと零れ落ちるような零雨だ。音が聞こえる。
 朱色が見えた。今度はすぐに判る。あの鳥居だ。その鳥居の傍に、少年が立っていた。雨に濡れたまま、しかしその事を気にする様子もなく立っている。
 先輩。
 思わず呟いていた。眼鏡はかけていないが、それは確かに時也だった。何処となく幼さの残る表情で、雨に濡れて立っている。
「十夜」
 声がした。やわらかさの残る少年の声だ。その声に反応して、時也が振り返る。朱色の鳥居の奥、石段を駆け下りてくる少年がいた。時也が微笑んだ。
「真治、走ると滑るよ」
 紛れもなく、叶時也その人の声だった。けれど、いつも聞いている言葉の響きより、単純で裏がなさそうではある。思っているうちに、時也の傍に真治と呼ばれたその少年が辿り着いた。
 年の頃は、時也や自分と同じくらいだろう。少し垂れた目元のせいで、なんとなく子犬を思わせる風貌をしていた。時也と同じく、白いシャツに黒いズボンをはいていた。
「滑らなかったよ」
「そういうのむかつく」
「十夜がいつまでも俺を子供扱いするからだよ」
 真治が笑う。時也は拗ねたように唇を尖らせた。いつもと同じ顔だ。そう思うのに、いつもよりずっと子供っぽいような気もする。二人して、雨に濡れることも気にしていない。むしろそれを楽しんでいるようだ。
あれは?
 問いかけに、神子が答える。
神凪真治。神凪の鬼狩りを受け継ぐ者。あの女鬼の宿……神凪ほたるの祖父だ
 祖父。その単語と目の前の少年ではだいぶイメージが異なったが、それでも少しだけ理解できた。子犬のような目は、ほたるに少し似ている。
じゃあこれって、随分前のことか?
昭和二十七年、私がふたつ前の宿で覚醒したときだ。真治は十七だった
……先輩は、ほたるのじいちゃんと仲良いのか? それに十夜って
悪くはなかったろうな。朱鬼という名では哀れだからと、十の夜を越えた者――十夜と名づけたのは幼い頃の真治だったからの。どちらにせよ過去の話だ。真治が鬼狩りを正式に受け継いだとき、朱鬼は真治から完全に離れた
何で?
戯け。朱鬼は完全ではないにしろ鬼だ。鬼狩りの神凪の傍に居続けられる筈もなかろうが



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