五幕:決断―おもひさく―  弐


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 雨が降る。その雨が、次第に雪に変わっていった。音もなく、静かに、白いものが舞う。朱色の鳥居にも微かに降り積もっていく。純白の雪。はらはらと降る、息を潜めていなければ消えてしまいそうな細雪。
 黒木造りの鳥居があった。神凪の社殿も見える。神木の松も。その全てに、はらはらと雪が落ちる。神木の傍に、男がいた。髪には多く白髪が混じり始めている、五十路ほどの男。それが真治だと、亮は何故か判った。
 彼は刀を手にしていた。細雪の降る神社にはとても似合わない大仰な刀を、真一文字に払う。緋色が散る。散ってから、初めて亮は気付いた。神木の上に鬼がいた。人の姿を僅かに留めながら、けれどすでに人ではなくなっている哀れな鬼。その鬼が、声もなく叫びをあげる。
 血華が雪に落つ。鬼狩りだとすぐに判った。真治が、受け継いだもの。
真治もまた、よくよく人に思われる愚かなほどに人の好い男だった。それ故、鬼である朱鬼を狩りもせず、狩りそのものも最初は随分と嫌っておったようだがな。しかしあれの息子夫婦も、鬼狩りの最中に死んだ。今度は孫娘が鬼宿とは……な
 神子が静かに呟く。
 不意に、視界が揺れた。また朱色の鳥居が戻ってくる。雪に覆われた鳥居の下に、時也がいた。老いもしていない、いつもの姿のままだった。唇を引き結び、ただ静かに鳥居の先を眺めている。その先で起きている鬼狩りを、見ようとしているかのように。
先輩……
 雪が再び雨になる。叩きつける雨に、松の葉が揺れる。松雨の中、掠れた声が聞こえた。
 泣き声だ。理解すると同時に、亮は堪らず叫んでいた。
ほたるっ!
 ほたるがいた。
 松の大木の上、太い枝に座り幹に縋りついている。ほたるだった。ほたるの姿のままだった。けれど、判る。鬼に喰われ始めている。喘ぐように泣いている。喰われながら、泣いている。
 泣き声が聞こえる。そして、思いまでもが。心の中の言葉すら、亮には聞こえた。それは耳ではないのかもしれない。耳ではない場所で、御魂そのもので聞いているのかもしれなかった。
 ほたるが、嘆いている――

 両手が、血を含んでいる。
 泣いていた。御神木に縋り付いて、ただ、泣いていた。
 松風さん。松風さん。松風さん。
 ただ、名前を繰り返す。
 十の夜を過ぎるまでは、鬼宿の魂と鬼の魂は同居する。だからこそ、ほたるは見えていた。二度も死にかけた亮を見ていた。他でもない。手を下したのは、自分なのだから。
 神子は降りた。自分は助かるかもしれない。けれどそんなものに、価値など見出せなかった。
 あのひとの、少し弱気に笑む顔はもうない。神子が降りれば、神子宿本来の御魂は、器には残らないのだ。鬼宿と同じように。神子が降りたと言う事は、松風亮はもういないのだ。
 そんな命に――あのひと自身がいなくなって、その上で生きる命に、何の意味があるのだ。
 それならいっそ、鬼に喰われ尽くす前に、ただ、死にたい。

 それは不思議な感覚だった。亮にはそれを表せる言葉がなかった。判るのは、聞いているだけでも見ているだけでもないことだ。ほたるの中に飛び込んでいるかのような、奇妙な感覚。ほたるの嘆きも悲しみも痛みも、全て自分のもののように感じられた。だからこそ、辛かった。
 行かなきゃ。
 強く、思った。ほたるが泣いている。行かなきゃいけない。
助けたいか、あの娘を
 神子の問いに、亮は強く頷いていた。
ああ。助けたい
ならば眠れ
何だって……?
眠れ。そして器を私に譲れば良い。さすればあの娘は助かるだろう
 事実だ。直感的に、理解する。神子の言うことは恐らく事実だろう。神子の力を持ってすれば、ほたるを助けることが出来るはずだ。考える。けれど亮は、どうしても首肯することは出来なかった。意を固め、告げる。
いやだ
救いたくないのか?
救いたいよ。でも譲れない
何故に?
 神子の問いは、ある意味で馬鹿げたものだったのかもしれない。それはつまり、何故死にたくないのかと問いかけているのと同じだった。生死を肉体で見るならともかく、御魂で見るならば器を譲ることはそのまま死を意味している。死を恐れないほど亮は馬鹿ではない。ただ、恐らく神子は判っているのだ。亮が単純に死を恐れて拒んでいるのではないことを。
 亮はゆっくりと言葉を紡ぐ。
約束したから
……契り。鬼宿とか。何と?
 その問いに答えるには、少しばかり勇気が要った。
 時也に言われた言葉を、忘れたわけではなかった。あのくちなしの香る公園で時也の言った言葉。「君には覚悟がない」。全くその通りだと、今なら思う。鬼に纏わる事情も、ほたるのことも、そして自分のことですら何も知らないままに吐いた台詞は、あまりにも無責任で軽いものだ。雰囲気に酔っていた。そうなのかもしれない。けれど、それだけでないことも事実だ。あの状態を脱して全てを知る今になってもなお、亮の思いは変わらなかった。
ほたるが俺を殺すまで、俺がほたるを守るって
 強く、言い切る。それは音ではない。神子との対話に声音はない。あるのは意思だけだ。自らの身体と言うものすらないこの次元では、言葉に込められるのは唯一思いのみだ。
 その思いに、神子は一瞬言葉を失くしたようだった。ややあって、静かに問うてくる。
目覚めたいと言うのか
 意思のみで、頷く。
しかし私はもう目覚めた
 神子の思いも強かった。それを正面から受け止める。思いを安易にかわしたりはしない。
器はひとつ。御魂はふたつ
 神子の言うことの意味は、判っていた。それはつまり、選択だ。ひとつの器には、ひとつの御魂。それが正常だ。器はひとつしかなく、御魂はふたつある。どちらかがあぶれるのは必至だ。そしてほたるを救いたいのなら、それが出来るのは亮ではなく神子だ。それは判っている。それでも、どうしても器を譲るとは言えなかった。
神子
出来ぬな。私にも使命がある
 あっさりと切り捨てられ、けれど亮は縋っていた。自分を退け、無理やり器へと入ろうとするもうひとつの御魂を必死に繋ぎ止めるかのように、叫ぶ。
神子!
私の使命も、おぬしの望みも、私が器に入れば全て事足りるであろう。諦めが悪い
違うんだ。あんたじゃ駄目なんだ
 亮は、思いの限り叫んでいた。
 松雨に紛れて、ほたるの嘆きが聞こえてくる。その嘆きを止めたかった。そして、笑って欲しかった。ほたるですと名乗った時のように、ドジですねと言った時のように、微笑でも、俗的な笑いでもいい。ただ、笑って欲しかった。思いつめたあの瞳を、不安げに揺れる夜の瞳をもうして欲しくなかった。あの目は、美しいと思う。張り詰めた糸のような微笑もまた美しいと思う。けれど、見たくはない。亮が見たいのは、もっと素直で単純な、ただの笑顔だった。
 ほたるの笑顔が、見たかった。
約束をしたのは、俺だから。あいつが俺を殺すまで、俺があいつを守るって、約束したから。あんたじゃ駄目なんだ。約束したのは、俺だから。俺が行かなきゃ、いけないんだ
 あの言葉を勝手に吐いたのは自分だ。何も知らないままだったときの自分だ。それは神子の言う契りとは程遠いものなのかもしれない。それでも、告げた以上は約束だった。
 今ここで自分が足掻くのをやめて素直に神子に器を譲れば、ほたるは助かるかもしれない。
 けれど、ほたるの嘆きは止められないだろう。ほたるの笑顔も、見ることは出来ない。
 それは、約束が違う。ほたるを守ると言ったのは亮であって神子ではないのだから。
 自分が行かなくてはいけない。
 ふと、気付く。そこにはもう、松の大木もほたるの姿もなかった。何も見えない。何も聞こえない。何も匂わず感じない。白いわけでも黒いわけでもなく、ただ何もない虚空だった。その中で、神子の言葉だけが届く。
私が消えては鬼は浄化できない。おぬしが望むことをしようとすれば、ひとつの器にふたつの魂があることになる
 判っている。そう頷いた。
私が神通力を使えば鬼は浄化できるが、私も消えない。魂が器に定着する
 それも判っていると頷いた。
 神子の言葉が、届かなくなった。無の中に放り出される。少しか、暫くか、それも判らなくなる頃また神子の言葉が聞こえた。
それが意味することを、おぬしは判っておるのか? 理解してなお、それを望むか
 静かな問いかけだった。神子の問いの意味が、沁みるように理解できた。神子が魂を通じて知識を送ってきているのだろう。
 それでも亮は、はっきりと思いを告げていた。
望む
 神子が微かに笑った。
――よかろう
 音が戻ってきた。雨音だ。さらさらと耳を濡らすように音が降っている。無の中に音だけが蘇って来る。
 少しだけ、自分に安堵を許した。雨音に身を委ねる。ゆるやかな雨音がこれほどに安らぐものだったことに、亮は初めて気付いた。雨音は次第にひどくなり、ざあざあと騒々しくなる。やがて雨音に紛れて神子の言葉が聞こえてきた。
私が何の為に輪廻を繰り返しているのか
 雨音がする。
もうそなたには判るであろう

 雨音がやがて遠くなり、そして、松風亮は目を開けた。



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