六幕:浄化―きよしなる―  参


戻る 目次 進む


 ◇

 頭上には月が、身のすぐ傍には常盤草たる松が、そして眼下には鬼に喰われかけているほたるの姿がある。
 心臓がどくんと胸を押し上げる。傷の痛みは今は意識の外にあった。放っておいても死にはしないだろう。今は内部を突き上げて来る神子の力のほうが怖い。
 ほたるが松に触れた。鬼門――鬼の通りやすい方角。ぼんやり、思う。そう言えばこの神社自体も市の東北に位置していた。それもまた鬼門に位置しているからなのだろうか。
 正中を封じられ、弱った身体を癒すためだろうか、鬼門に縋るようにほたるが這い上がってくる。鬼の力を削ぐ松は、しかしほたるの体を弾きはしなかった。理屈は、判る。この場所に追い詰め、狩る為の樹だ。上手く弾かずに力だけを削ぐようにしているのだろう。
 ほたるが、登ってくる。
 亮はゆっくりと息を吸い込んだ。この場所なら、神通力は使えない。ほたるも、そして神子のものもだ。全くではないだろうが、かなり弱まるはずだ。
器を替われ。そなたも死ぬぞ
「嫌だ」
 焦るような神子の声に、けれど強く拒否する。少し、後ろにさがる。さすが大振りな樹だけはある。枝の端のほうまで太く頼もしい。ほたるが、登ってくる。ずるりと音を立てて。
 内部から、何かが突き上げてくる。
 神子だ。その力に、歯を食いしばって耐える。視界がぐらりと揺れた。それでも、松に縋りついて必死に耐える。まだだ。まだ、替われない。
 ほたると、目が、合った。
 血に染まった目。同時に手が伸びてくる。立ち上がる。ひとつ上の枝に手を掛けて、何とか身体を持ち上げた。右腕を伸ばした。
「――ほたる」
 手を掴む。ひやりとした感触に背中に泡が立つ。それでも、離しはしない。離したりしない――あの夜のようには、離さない。
「ほたるっ!」
 ほたるの腕に力が加わった。振り払われそうになるのを左手も添えて阻止する。鬼の爪が頬を裂いた。不安定な足場故に避けることもままならない。夢の中で感じたものと似た、自分が消えそうな悪寒が走る。
 ――まだ、駄目だ!
 胸中で、叫ぶ。
 震える腕で、ほたるを引き寄せた。風が吹きぬける。抱きしめる。鬼が叫びを上げる。
 刹那――
 今までになく強烈な御魂の反発が、内部から突き上げてきた。弾け飛ぶような感覚に、亮はふっと口元を綻ばせた。
 これを、待っていたのだ。
 意識が薄れていく。そして。
「――母上っ!」
 悲鳴にも似た叫びが、松風亮の口からほとばしった。

 ◇

 神子の叫びを、亮は同じ場所で聞いていた。
 そうだ。それでいい。俺はこれを、待っていたんだ――
「母……上」
 弱々しい言葉が、自らの口から漏れる。けれどそれは亮の言葉ではない。神子のそれだ。ほたるを抱きしめている腕の感触は、亮も確かに感じていた。それでも、今器を所有しているのは神子だ。鬼を抱く手を解かないのも、神子の意思だ。
 鬼の身体が、びくりと脈動する。閃きかけていた爪が、力なくしな垂れる。月明かりに、黒髪が柔らかく光を流す。
「はは……うえ。ははうえ、ははうえ、ははうえ」
 壊れた蓄音機のように、寄る術を無くした幼子のように、自らの唇が震えてただその言葉だけを繰り返す。強く、強く、鬼の身体を抱きしめる。鬼はもう、反発の術も持たずに力なくそこにあるだけだ。神子が、鬼を抱きしめながら顔を下に向けた。小さな背中に流れる、艶やかな黒髪。その先に、地に、三つの顔が見えた。時也。真治。そして、理沙。
「人身御供……のこども……」
 彼女は呆然と呟いた。その囁きが耳に入ってくる。
 それぞれがそれぞれの表情で、こちらを見上げてきている。しかし神子の目は、彼らを映してはいないようだった。その姿を認めているのは、神子ではなく亮だけだ。神子はただ、幼子のように呼びかけを繰り返している――
神子
 邪魔はしたくなかったが、いつまでもこうしていたところで鬼は解き放たれない。亮は小さく神子を呼んだ。
「……判っておる」
 自分の声で、神子が囁く。そして、より一層鬼を抱く腕に力を篭めた。
「母上」
 捩れた四肢を優しく抱き、耳元に囁く。
「もうお止めください、このようなことは」
 風が吹いている。穏やかに松に吹く風が鬼の髪を揺らしている。
「誰よりも、鬼の呪の悲しみを、苦しみを感じているはずの貴女が、百年後までもの貴女の子らを苦しめてどうなるというのです。このような負の輪廻を繰り返しても、浮かばれはしない」
 頬が濡れていた。神子が、泣いているのだ。
「確かに鬼も神凪も貴女を苦しめました。けれどこれでは、あまりに酷すぎる」
 神子が転生を繰り返していた理由を、亮は判っていた。
 それは、ただひとつだ。神凪の女鬼を――強いては自らの母親の御魂を浄化するため。
 けれど神子は知らなかった。母上と呼びかけることも、語りかける言葉も持ちえてはいなかった。神子の御魂が亮に鬼の知識を教えてくれたように、神子に語りかける言葉や呼びかけを教えたのは亮だった。
 ひとつの器を共有しているが故に出来ることだった。
「もう、穏やかにお眠りください、母上。正しい輪廻の渦へとお還りください」
 神子が、囁く。
「たとえ鬼の子だとしても、私は貴女に産んで頂けたことに感謝しているのです」
 その言葉に――鬼の身体から完全に力が抜けた。どさりと、重みが圧し掛かってくる。それを受け止め、神子は微かに笑んだ。
 鬼の子を身篭ったとき、けれど母はすぐに死を選びはしなかったのだ。そのことの感謝の意を述べることなど、今までしたこともなかったけれど――
 視線を動かす。
 松の月影の中によく見知った鬼人の顔を見つける。彼は微笑んだ。その微笑を合図に、神子は鬼の身体を抱えたまま、飛んだ。――下へ。
「我が衣手に」
 鬼人の声。同時に、ふわりと宙で身体を受け止められる。衝撃もなく地に降り立ち、そして神子は鬼の身体を離した。
 月下にざわめく松を前に、鬼と対峙する。母の血に染まる眼を見つめる。
 そして呪を、口にした。

 ときのまに あさけのゆめはきえかへる
   よはのうつつは こころもとなし――

 夜明け前の夢は僅かな間に消えてしまうというのに、夜の現は夢ともつかず、はっきりとせずじれったくて。
 けれど今貴女が私に微笑んでくれていることは、確かな現と信じていよう。

 ――願いに。
 神子の力が迸る。鬼に突き進んだそれは彼女を包み、弾けた。月下にありながらも月よりも清かに白銀の光は放たれる。
 眩い、光。
 それが薄闇に溶けて、鬼宿の身体がゆっくりとくずおれていく。
 その身体が地に付く寸前に。

 松風亮は神凪ほたるを、抱きとめた。

 ◇

 月明かりに似た白い素肌には、もう蠢く血管もない。四肢も全て元に戻っていて、鬼の姿は何処にもなかった。
 ほたるの長い睫毛が、ぴくりと動く。
 全身に掛かる気だるさを振り払うように、亮はゆっくりと微笑んだ。
 ほたるの瞼が持ち上がる。
 一度、二度。瞬きをする目はもう血の色はしていない。月明を反射する、やわらかな黒瞳。
 その目を覗き込み、亮はずっと望んでいた言葉を口にした。
「おかえり」
 ほたるの目に、みるみる涙が満ちてくる。ひと粒零れ落ちたそれを指で掬うと同時に、ほたるの腕が首に巻きついてきた。
 抱きしめられる。
「松風さん……!」
 名を呼ばれ、深く安堵の息が漏れた。ほたるの艶やかな黒髪をそっと撫でる。
「松風さん、松風さん、松風さん……!」
 泣くほたるを抱きしめて微笑む。理沙や時也、真治の寄ってくる足音がする。それに掻き消される前に、亮はもう一度はっきりと告げた。
「おかえり、ほたる」
 そして、もう一言。言っておかなければならない言葉がある。
「誕生日、おめでとう」
 ほたるの目が、驚きに見開かれる。
 ざわりと、風が鳴る。
 吹きつけた松風は、夏の香を含んでいた。



戻る 目次 進む