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 時計の針がくるくる廻り
  明日の足音掻き消して
 昨日がも一度今日になる
  そんな魔法を教えよう

 ――そんな魔法を、教えよう――







 闇。
 溢れかえるほどの星明りだけが花穂の瞳に浮かぶ涙を照らし出していた。
 満面に咲き誇る夏白雪の中で、僕は花穂の肩を強く抱いた。花穂の柔らかい栗毛の髪は、甘い花の香りがする。
 震える花穂のぬくもりを腕の中に確かに感じながら、僕は泣きじゃくる花穂に囁いた。
「花穂」
 耳元で名を呼ぶと、花穂の体はびくんと震え、縋るような瞳を僕に向けてくる。
「花穂、ごっこあそびをしよう」
 僕の言葉に、花穂は涙にぬれた瞳で疑問符を投げかけてきた。
 きょとんと見上げてくる花穂の手の中に蹲っていた懐中時計を取りあげる。
 金色の、懐中時計。
「ごっこ、あそび……?」
「そう、ごっこあそび。時間をとめようね、花穂」
 僕の言葉に、花穂は震える声で訊いて来る。「どうするの」――?
「こうするの」
 懐中時計の硝子を開く。露になった文字盤に、その時計の針に、僕は手をかけた。
 時計の針をひとまわし。
 ひとまわし。
 ひとまわし。
 逆さにまわして。
「一回り。これで花穂はひとつ時間をさかのぼる」
「……?」
「君は少しずつ、戻っていくんだ。花穂」
 くるり。くるり。くるり。
「僕が一番大好きだった君にね」
 くるり。くるり。くるり。

 花穂はもう何も言わなかった。

 くるり。くるり。くるり。
 時を戻そう。
 僕らが一番、お互いを大切に思いあっていたあの日へ。
 そしてそこで時を止めよう。
 そう。これはそういう、「ごっこあそび」――

 それは、昭和十七年。僕は十歳。花穂が十二の頃だった。





 セミの声がした。
 顔を上げると真夏の太陽が視界いっぱいに飛び込んできて、あわてて僕は手でひさしを作った。青い空の中に一匹、セミが飛び立っていく。吹き抜けた風が前髪を揺らした。風は涼しくて、火照った僕の体から体温を微かに奪って行ってくれる。
 ふぅ、と息をついた。
 セミの姿が見えなくなってから、ゆっくりと伸びをする。遊覧船のようにのんびりとした白い雲はふかふかで、寝転ぶことができればさぞ気持ちいいだろう。
「――って、行くかあ」
 ぼんやり現実逃避しかけた思考を戻すために呟く。じいちゃん家まで、後二十分ほどは歩かなきゃいけない。着替えやらなんやらがたっぷり詰め込まれたスポーツバッグをよいしょと抱え上げて、僕はゆっくりと歩を再開させる。
 夏休みに入ってすぐ、僕は新幹線と電車とバスを乗り継いでここまで来た。北海道旭川市。
 この土地にまだ夏は来ていない。 涼やかな風は、東京と同じ七月とは思えないくらいだ。
 つくづく日本は縦に長い国なんだと実感する。
 それでもこの重さのバッグを持って歩いていればそれなりに汗もかく。休憩を時々挟んで、最寄のバス停からさらに三十分強歩かなければつかないじいちゃん家までの道を行く。
 正直、すごく田舎だ。
 JRの旭川駅周辺はそれなりに大きくて開けてもいたのだけれど、そこからローカル電車、バス、となるともうこれでもか、と言わんばかりの田舎っぷりを発揮してきてくれる。建物同士の間隔はどんどん開いていって、僕が歩いているこの道はもう、申し訳程度に舗装されているだけで、両脇には野草が生い茂ってる始末だ。リゾート、で来るならともかく暮らすにはほとほと向かない場所だろうと思う。そもそもスーパーらしきものがなかなか目に付かないんだから。
 それでも、僕はこの土地が嫌いじゃない。
 小さい頃から毎年、夏になると両親に連れられてきていたせいだろうか。夏の間の二週間ほど、僕らはいつも、家族全員でじいちゃん家で過ごす。ばあちゃんは僕が四つのときに亡くなっていて、じいちゃんは馬鹿でかい屋敷で一人暮らしをしている。そのせいか、僕らが行くと毎年嬉しそうに迎えてくれる。
 ただ、今年はいつもと違っていた。
 父さんの単身赴任。妹は部活動の練習。で、母さんも来られなくなって、結局今年は僕だけになった。それでもじいちゃんはたぶん歓迎はしてくれるだろう。
 田舎の道をとことこ歩いて、ようやくじいちゃん家にたどり着く。
 古い西洋風の建物で、家というより屋敷と言ったほうがしっくりくるでかさだ。夏の陽射しに、白い壁面はきらきらと輝いてた。
 門を開けて庭にまわる。じいちゃんはいつも、ここで日中を過ごしている。
 シロツメクサが敷き詰められた広い庭で。
 ほら――今日も。
 庭に出したデッキチェアに腰をかけて、じいちゃんは細い目をさらに細くさせて空を見上げている。
 さわさわ、と風が吹いて、じいちゃんの足元にあるシロツメクサの花を揺らした。
「じいちゃん」
 呼びかけると、じいちゃんの年老いた体が小さくぴくりと反応した。細い目を開けて、穏やかな瞳で振り返ってくる。
「誠一か。いらっしゃい」
 しわがれた声で、だけどしっかりと耳に届く声で、じいちゃんが笑った。毎年、同じ台詞。
「うん。こんにちは」
 答えながら――僕ははっきりと認識した。
 ああ、夏が来る――って。
 このじいちゃんの言葉から、毎年僕の夏は始まる。


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