◆
じいちゃんは、シロツメクサの花が好きだ。
東京だとあのぼんぼりみたいな白い花の部分はもう枯れていて、クローバーの青々とした姿しか見ることが出来ないけれど――そして、正直シロツメクサ自体を見られる場所のほうが少ないけれど――この土地はまだ涼しいせいか、シロツメクサが咲き誇っている。
その花を、じいちゃんはいつも目を細めて見つめている。僕を見るのと同じような目で。
だから、僕はシロツメクサに少しだけ嫉妬したりもする。
「あれ? じいちゃん?」
お風呂から上がってリビングに入ってみると、じいちゃんの姿がなかった。濡れた髪をタオルで拭きながら、庭に続くガラス戸を開ける。ああ――やっぱり。
予想したとおり、じいちゃんは庭にいた。デッキチェアに腰掛けて、いつもみたいに目を細めて、シロツメクサを見下ろしてる。
「じいちゃん、風邪引くよ?」
七月とはいえ、夜風は冷たいんだから。
僕がそういうと、じいちゃんはそうだなぁと笑った。だけど、その場所を動こうとしない。僕は小さくため息をついて、じいちゃんのそばに歩み寄った。
北海道の星空は、東京とは桁が違う。
馬鹿みたいに溢れかえっていて、零れそうなほどにきらきら輝いている。じっと見上げてると星に飲み込まれる錯覚を覚えるくらいだ。僕が隣に立つと、じいちゃんは笑みを深くした。それから、ゆっくりシロツメクサから目を離して溢れかえる星空を見上げる。
「誠一」
「なぁに?」
「今日は、何日だったかな」
「七月二十三日。なんで?」
僕の「なんで?」にはじいちゃんは答えなかった。ただ何度か日にちを転がすように呟いて、また視線を星空からはずした。今度は手のひらに落ちた視線は、じいちゃんが握っている懐中時計にあった。
金色の懐中時計だ。随分古い代物なんだろう。少しだけ錆びてさえいる。じいちゃんは文字盤をじっと眺めていた。細いチェーンが、じいちゃんの皺だらけの指に絡まっている。時計はもう動いていない。だけどじいちゃんは飽きることもない様子でその時計をじっと見ていた。
「じいちゃん、その時計もう動いてないよ」
「そうだなぁ」
「なんでそんなにじっと見てるの?」
僕の言葉に、じいちゃんは懐かしそうな色を目に浮かべた。視線がまた動いて、今度は星明りの下で囁くようにゆれているシロツメクサへと移る。
「じいちゃん?」
「時間を見てるんだよ、誠一」
ゆっくりと――何か、大切なものを口にするように、じいちゃんは言った。
動いてもいない、懐中時計を見て。
じいちゃんは、時間を見ているんだと言った。
じいちゃんの見ているものは時計の時刻ではなくて、時間なんだ――よくは、判らないけれど、でも。僕はそれを確かに感じた。
風がなる。
空には、溢れかえるほどの星。足元には、微笑むようにゆれている満開のシロツメクサ。月明かりはなくて、ただ部屋から漏れているオレンジ色の光だけが、薄く庭に広がっている。鼻の奥に沁みるようなつんとした風の匂いの中に、僅かだけれど甘い香りと埃っぽい土の匂いが交じり合っている。
「さて。じいちゃんも風呂に入ってくるかな。気持ちええだろうが、あんまり風呂上りに外にいると誠一こそ風邪を引くぞ」
そう言ってじいちゃんは懐中時計をデッキチェアに置いた。ゆっくりした足取りで、部屋に上がっていく。
置いていかれた僕は手にもっていたタオルを首にかけた。濡れたうなじを風が吹き抜けていって心地良い。
さわさわさわ、とシロツメクサが鳴いた。
時間――って、なんだろう?
デッキチェアに置かれた懐中時計を手にとって、僕はチェアに座った。じいちゃんがそうやっていたのと同じように。
時間って、なんだろう。
時計は同じ感覚でカチカチ動いて、それで時間を教えてくれるけれど、でも時間ってやつは普通は眼に見えるものじゃないはずだ。ただ、僕は最近思う。時間ってやつは同じように動いてるはずなのに、実は加速してるんじゃないかって。中学に入ってから、毎日が過ぎるのが早くなったと思う。不思議だけど、そう思う。小学校のときの五年と六年の二年間に比べて、中一と中二の二年間は、何か違う気がする。何が違うかって、それは僕には上手くいえないけれど、でも早くなったなぁって感じる。六年の夏休みは、五年の始業式の日なんて遠いことに思えてた気がするけれど、でも今は中学の入学式は近いことのように思える。もしかしたら、この先もどんどん加速していくんだろうか。よくは、判らない。
だけど、じいちゃんは時間を見ていた。
それもよくは判らない。だけど――なんだか、痛い言葉に聞こえた。哀しい響きに聞こえた。
時々、不安になるのはこういうときだ。
じいちゃんは、僕とは違うものをたくさん見ている気がする。だからある日突然、いなくなりそうにも思える。小さい頃から、時々そんなことがあった。シロツメクサを見つめる目もそれと同じだ。
手のひらの中の懐中時計は金属質の冷たい感覚を伝えてきているけれど、ほんの少しじいちゃんの手のぬくもりが残っている。
じいちゃんは、何を見ているんだろう。じいちゃんの時間は、普通の大人たちのように加速していたりするんだろうか。しないんだろうか。
それは、そんな微かな好奇心だった。僕はじいちゃんの懐中時計を開いていた。
パチン。
軽い音がして、文字盤のガラス面が開かれた。
もう動いていない針が僕の悪戯を見ているような気がして、少しだけどきっとした。文字盤のガラス面が開くなんて、思っていなかった。
耳を澄ませた。
虫の鳴く声と、風の音。それから、水音が聞こえた。じいちゃんが風呂に入ってる音だ。つまり、ここにすぐはやってこない。
そう考えて、僕は少しだけ息を吐いた。
時計の針に指をかけた。
どうして、そうしたのか。それは判らない。だけど――
ただ、そうすることが当然のように、思えた。
くるり。
時計の針を、逆さに回した。
どくんと、血液を全身に送り込む心臓の音が聞こえた。
くるり。
シロツメクサが笑うように風に揺れた。
くるり。
シロツメクサの、真っ白な色が視界を覆い尽くしていきそうだった。
白い、白い、シロツメクサの真っ白な――
白い、世界があった。
真っ白なシロツメクサの色が視界と意識を包み込んでいって、僕は白い世界へと堕ちた。
全てが、純白だった。
◆
白い世界の中に、彼女はいた。
風に踊るように揺れる栗色の髪。日本人のはずなのに色素をどこかに忘れてきたみたいな白い肌。僕より二つほど年上に見えるけれど、顔に浮かぶ表情はそれよりずっと幼い。白い世界の中で、笑みの形に歪んでいる瞳が、その奥に宿る光が、僕を惹き付けていた。
その子が誰かなんて、僕には判らない。
僕には、判らない。でも。
――僕は、判った。
花穂だ。
逢いたかった。
心の奥のどこかで、そんな声がした。それは確かに僕の声で、でも僕じゃなかった。だけど、それがどうしたというんだろう。花穂だ。花穂がいる。そこに、いる――
知らずに僕は手を伸ばしていた。
そんな僕を見て、花穂は笑った。
夏の陽射しのように白い世界の中で。シロツメクサのように白い世界の中で。真っ白に、輝いていた。
「圭ちゃんだけ壊れないなんてずるいよ」
花穂が笑った。
向日葵のように無邪気に笑っていた。
「壊れないなんてずるいよ、一緒に壊れてよ」
無邪気な言葉だった。
花穂は、いつも、そうだ。
僕の手は花穂には届かなかった。
伸ばしても、伸ばしても。
だけど。
「ねぇ、圭ちゃん?」
――けれど君は、必ず僕の腕の中に収まるんだ。
白い光が、満ちてくる。
花穂の向日葵のような無邪気な笑みを覆い隠すように、夏白雪がすべてを包み込むように。
白い光が、満ちてくる。
そして僕は、僕であることを忘れた。