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 七月二十三日。
 目の前の暦を眺め、僕は小さく唇に笑みを浮かべた。
 僕が君から離れる日。
「圭一さん」
 戸口からの呼びかけに、僕はすっと笑みを消した。
 呼びかけ?
 ふと、心のどこかが疑問符を投げかけてくる。けいいち。
「圭一さん?」
「はい」
 だけど僕は躊躇うことがなかった。その名が僕を呼んでいるのは確かだと感じていた。
 白い西洋風の屋敷だった。去年の空襲をこの家は免れた。旭川の中心地は爆撃を受けたらしいが、郊外なのが幸いしたのだろう。大東亜戦争の爪あとを、北海道というこの地は確かにまだ色濃く残しているが、僕がこれから帰る東京の惨状はどんなものなのか、想像もつかない。北海道でこの有様だ――根室なんて酷い有様だったと聞く。東京なんてもっとだろう。
 そこまで考えて、ふと僕は眉を寄せた。
 僕は一体どこでその知識を手に入れた――? 学校だろうか。否、僕は疎開してから先学校には通っていない。
 疎開。その単語に僕自身は違和感を覚える。違和感の正体は判らない。
「――圭一さん? どうかしたのですか?」
 いつまでたっても出てこない僕を訝ったのだろう。戸口が開かれて髪を結わえた女性が顔を覗かせる。大人しそうな顔立ちの中年の女性だ。薫子さん。花穂の実母であり、僕の叔母だ。
「何でもありません。薫子さん」
 僕は笑顔を取り繕う。
 どうでもよかった。薫子さんに対して僕は何の感情も抱けなかった。僕も――そう、僕も、だ。
 一年間世話になった橘の家だ。出る事に対してそれなりの感慨は付きまとうはずだろうが、しかし僕の中の感情というやつはそういったものを排除して出来ているようだった。叔父の家である橘も、離れてしまえばただそれだけだ。
「いいんですか?」
 共に歩きながら、不意に薫子さんは口を割る。
「何がですか?」
 玄関を出て、門へと手をかける。ふと横目に見た庭には夏白雪が風に踊っていた。
 ああ、夏白雪よ。
 その名の通り、儚く散り行けば良い。
 花穂が名づけたその名の通り、夏に咲きゆく白雪ならば、溶けて穢れて美しく、儚くもって散り行けば良い。
 胸中で謳うその言葉を察したのか否か、薫子さんが遠慮がちな声で割り込んできた。
「花穂のことです。……いいのですか?」
 ――花穂。
 薫子さんはまるで僕の視線から逃れるように俯いている。彼女は知っているのだ。僕が従姉である花穂を愛していることを。
 ――この肉体が。この記憶である僕が。花穂を愛していることを僕は知っている。僕が知っているのと同じように、薫子さんも気付いている。
 だけど僕は知らぬふりをして微笑んだ。
「まだ眠っているのではないですか? 挨拶のために起こすのも可哀想でしょう」
 僕の言葉に、薫子さんは曖昧に微笑むだけだった。
 真実は残酷だ。そして残酷であるが故に美しい。しかし人は残酷な美しさは見ないようにするのが常だ。そう、薫子さんもまた、そんな当たり前すぎる反応をするだけの人間だった。
 風がさざめくように吹き抜けて、そして違和感を運んできた。

 甘い花の香りの中に紛れ込む、咽るように不快な鉄の香り。

 門にかけた手に知らずと力が入った。
 その匂いが何なのか、僕は咄嗟には思い出せなかった。だけど僕は、それを知っていた。僕の中の僕は知らないのだろうが、僕は知っている。
 ふと見ると、隣の薫子さんは顔色を青くさせていた。
 女は良く知っているはずだ。月に一度、必ず世話になるであろう不快な匂い。月経の匂いと同じであろう。交じり合う不快な異物を含んだ、鉄の匂い。
 血の匂い。
「なに……」
 薫子さんの困惑した呟きが僕の内耳に触れた途端、駆け出していた。
 僕の鼓動はさして驚きに跳ね上がることもなかったけれど、僕は確かに驚いていた。僕は知らない。僕は知っているのかもしれないけれど、僕は知らなかった。僕はそれが血の匂いだと気付けなかったのだから。僕はたいした怪我をしたこともない。せいぜい微かに記憶にある血の匂いは口中を噛んでしまった時のそれ程度だ。これほどに広がる血の匂いを、僕は嗅いだことがない。だけど僕は知っていた。駆け出していた。
「圭一さん!」
 薫子さんの背後の叫び声はただの雑音でしかなかった。
 匂いの元がどこか、考えるまでもなかった。
 匂いの元がなにか、考えるまでもなかった。
 夏白雪の咲く場所だ。花穂だ。それは確かだ。

 そして、僕らは見た。

 紅に染まる夏白雪を。
 純白の花に抱かれ、紅に染まる花穂を。
 夏白雪のように、儚く枯れ行くように散った、君の姿を。
 僕は足を止めた。
 息を詰め、目を凝らし、見つめ、魅つめた。
 薫子さんの甲高い悲鳴が遠く聞こえたが、だけど僕の耳に微かに届いただけで僕の中にそれは入り込んでは来なかった。


 ああ――
 想った。
 ああ――なんと美しいのだろう――と。


 花穂は死んでいた。
 一面に咲く夏白雪の中で。
 咲き乱れる夏白雪の中で。
 壊れた懐中時計が夏白雪の中で蹲っている。
 花穂はその中で赤い華を咲かせていた。
 名の通り、花となっていた。それはとても美しく想えた。
 それは奇妙しい事なのだろうか。僕はともかく、少なくとも僕は人の死体を見た事がない。正確に言えば記憶に残ってはいない。だけど死体である以上それに恐ろしさを覚えて当然であることは理解できる。だが同時にその思考は滑稽であると言えた。
 何を恐れることがあるのか。
 何故ならそれは花穂なのだ。僕が望んだ、花穂の姿なのだ。美しいと想うのは当然であった。実際花穂はとても美しかった。
 僕は花穂の傍に膝をついた。夏白雪が足の下で折れるのを確かに感じながら。
 銀色の刃物が転がっていた。恐らくはこれで首を斬ったのだろう。意識は血の紅に染まっていったのだろうか。それとも夏白雪の眩しいほどの白さに染まっていったのだろうか。訊ねてはみたかったが、花穂はもうただの人形と化していた。
 それで良い、と思った。
 君が、この結末を選んだのなら。
 壊れゆく君こそ、美しいのだから。
 僕は花穂の頭を抱いた。土と花と女の血の香りが交じり合う髪に頬を寄せた。硬く冷たい肌だった。
 薫子さんのことを僕は忘れていた。
 ただ夢中で、花穂の体を抱きしめていた。壊れ散り行き命のない肉の器を。
 粘り気のある血液が僕の体を濡らす。鼻腔を壊しかねぬほどの血の香りを吸い込みながら、僕は永遠の眠りについた君に囁いた。
 綺麗だね。花穂。綺麗だね。
 壊れ物の美しさ。
 陶器や硝子細工のようなそれは、人という肉の器だというのに、花穂からはいつもひしひしと感じていた。
 すぐに壊れる。
 だから花穂、君は誰より綺麗なんだ。

 だけど僕は判らなかった。何故花穂が死を選んだのか。僕はもちろん知っていたが、けれど僕は知らなかった。
 眼を閉じた。
 紅に染まりながらも、穢れなき純白を見せ付ける夏白雪の色が瞼の裏を覆いつくした。
 白い世界で。
 僕は再び、花穂の声を聞いた。





「圭ちゃん」
 僕は圭一ではないよ、花穂。
「うん、知ってるよ。圭ちゃん」
 そっか。
「ねぇ、知りたい?」
 なにが。
「どうしてこうなったのか」
 僕は知っているよ、花穂。
「うん。だって圭ちゃんが望んだことだものね」
 そうだよ。
「でも、圭ちゃんは知らないよね」
 そうだね。僕は知らない。
「だからね、教えてあげるね、圭ちゃん」
 どうやって?
「圭ちゃんが教えてくれた魔法だよ」
 ああ――そうか。
 僕は微笑んだ。白い光は柔らかく微笑みを返してきた。
 そう。僕らには魔法がある。
 君の持っている、懐中時計の針に指をかけ。
 くるり。
 くるりと逆さに廻す。
「うん、そうだよ。圭ちゃん」


 時計の針がくるくる廻り
  明日の足音掻き消して
 昨日がも一度今日になる
  そんな魔法を教えよう


 ――そんな魔法を、教えよう――


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