序章:TheStartingDay――旅立ちの日


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 パズーの家、魔導医ジャックの診療所を出てすぐ、アンジェラはぐうっと伸びをした。
 そろそろ夕刻が街を覆いはじめている。どこからともなく、夕食の匂いが漂ってきているハイアシンス・カッレ(ヒヤシンス通り)を二人で進んでいた。パズーとカイリとはすでに別れている。
 遠くなだらかな山並みに、オレンジ色の太陽が沈もうとしていた。
 水の都セイドゥール・シティ。縦横無尽に運河が走り、入り組んだ街並みは、さながら水と人工物の迷路だ。エリス自身、この街で生まれ、十四年間暮らしてきたが、未だに『テリトリー』から外に出ると迷う。最もそれは、アンジェラ曰く『あんたが方向音痴すぎるのよ』。
 その街中にある水路が夕焼けで赤く染まると、セイドゥール・シティはとたんにオレンジの街へと変貌する。夕陽のせいだけではない。セイドゥール・シティの建物は、大概が赤い屋根瓦で、それがオレンジの街へ変わる拍車をかけているのだ。
 赤い屋根瓦と、水路に揺れるいくつもの夕陽。オレンジの街。
 キラキラとしたオレンジ色の水格子が、建物の壁面を模様付けている。水路を覗き込むアンジェラの顔も、だ。
 そのアンジェラが、こちらを向いて言って来た。
「さーあってと。ジャックさんの依頼も終わったし、お給料ももらったし。パズーとカイリは追い払ったし!」
「……いや、そういう言い方はないんじゃない?」
「あんたにはさっきのことも話したし!」
「……」
 思わず、沈黙する。アンジェラがちらりと意味ありげな視線でこちらを見てから、そばにある緑色のベンチをさした。
「座ろ。今日はもう、別に用事ないんでしょ?」
「……うん」
 エリスは促されるままベンチに腰掛けた。目の前にある水路を、いくつものゴンドラ(水路舟)が滑らかな動きで渡っていくのをみる。
 用事がないなんて、大嘘だ。今、言わなければならない。
 計画の実行日が今夜、だと。
 今、言わなければ。
 エリスはぎゅっと下唇を噛んだ。渇く喉に、湿った空気だけを送り込む。唾すら、もうでなかった。水路を行くゴンドラを目で追いながら、思い切って口を開く。
「……ごめん、ウソ。用事、ある」
 言ってしまってから、引き返せないことに気付いた。心臓が、ぎゅっとわしづかみにされるような痛み。
「……用事? 早く帰らないといけないの?」
「……ううん。夜中だから、今すぐ帰んなきゃいけないわけじゃないよ」
「夜中……?」
 アンジェラの声が、いつもとは違う弱々しい響きでその言葉を繰り返した。表情はわからない。隣に座っているアンジェラの気配が揺れているのは判ったが、振り向くことは出来なかった。見たくなかった。見ることは出来なかった。
「……エリス、あんたまさか」
「……」
 ひとつ、頷く。アンジェラが息を呑むのが判った。痛む胸をごまかそうと、ペンダントを握る。
「――今夜、出るつもり」 


 さらさらと、水の音がした。普段は意識しないと聞こえないはずのその音が、やけに耳障りだった。街の喧騒はまるで遠くて、別の世界の音のようだった。
 下唇を噛んだまま、エリスはただひたすらに前を見ていた。隣のアンジェラの顔を見られないばっかりに。
 下ってきた別のゴンドラから、手を振ってくる人影を見つける。顔見知りのゴンドリエーレ(ゴンドラ乗り)だ。エリスは緩みがちな表情筋に活を入れ、無理やり笑みを作って小さく手を振った。ゴンドラが、ゆっくりと視界から流れていく。
「……彼には、話してあるの?」
 アンジェラの声。表情筋に頑張ってもらった笑みは、もろくも崩れて微苦笑になった。微苦笑――いや、もしかしたら、他人が見れば泣き顔にも見えたかもしれない。
「まさか。……今、あんたに話したのがはじめて。他の誰にも言ってない」
「……そう」
 アンジェラの沈んだ声。ちらりと、アンジェラの顔を横目で見る。横顔は、水格子に揺らめいて、表情まではよく読み取れなかった。
「――急よね」
「……さっき、決めたから」
 嘘だ。もうずっと前から決めていた。けれど、言えなかった。ただそれだけだ。でも――こういうしか、ない。
「……そう」
「ジャックさんの依頼料もあるし。もうずいぶん資金も貯まった。……そろそろいいと思ったんだ」
 顎を上げて、空を見る。いつのまにか、夕陽は山裾に沈んでしまったらしい。藍色と紫とオレンジのグラデーションが、空をかたどっている。
「……エリス」
 アンジェラの強張った声に、エリスはもう一度視線をそちらに向けた。真っ直ぐな目が、こちらを見つめてきている。
「……本気で、するつもり?」
 アメジストの瞳に、困ったような自分の表情が写っていた。
 それでも、アンジェラは続ける。
「……本気でするつもりなの? 家出、なんて」
 家出。
 それが『計画』だった。そのためにずっと、資金集めをしていた。
 だからこそ、エリスはしっかりと頷く。
「する、よ。今夜、出る」
 アンジェラの瞳が、揺れた。
「……ずっと、決めていたことだし。それに……」
 限界だった。アンジェラの瞳から逃れるために、エリスは立ち上がって水路に数歩だけ近づいた。涙腺が緩みそうになっているのを自覚する。
(馬鹿だ。何であたしが泣く必要があるのよ)
 今夜の事を決めたのはエリス自身だ。自分で決めて自分で実行しようとしている、ただそれだけだ。なのになぜ、涙腺は緩みかけているのだろう。
「……それに、もう、潮時だと思った」
「……潮時?」
 頷く。水路に映った自分の顔があまりにも情けなく歪んでいるのを見て、苦笑がもれた。
「そう……」
 一度大きく深呼吸をして、エリスはアンジェラに向き直った。アンジェラの、いつもならキラキラと輝いている紫の瞳が、薄ぼんやりとしか光を宿していなかった。
「――今日、襲われたでしょ? この」
 と、胸元のペンダントを掲げてみせる。
「この、月の石が目的みたいだった。それに……その依頼をした奴は、もしかしたら……そいつも月の者かもしれない」
 アンジェラが俯いて肯定した。
「その可能性は否定しないわよ。あんたと同じ月の者――女神ルナの使者」
 魔導大陸ルナ。女神が治めしこの大陸で、女神の使者として時折産み落とされる存在があった。
 紅の月――俗にローズ・ムーンと呼ばれる月が、夜を飾るその時、月の石と呼ばれる一欠けらの赤い石を持って生まれてくる子供。
 月の者。それがエリスだった。
 ローズ・ムーン自体は珍しいことではない。それは自然現象としてある。月の高度が低いとき、ちょうど夕陽と同じように光の屈折率が関係して赤く見える。自然現象の関係で、それは夏に見える場合が多い。
 それだけなら問題はない。ローズ・ムーンの夜に生まれる子供は少なくない。
 だが、それに月の石が加わると話は全く伝説じみてくる。
 冬生まれのエリスが、紅の月の石を持って、ローズ・ムーンの、しかも満月の夜に生れ落ちたのは、それはそのまま彼女自身が月の者であることを意味した。
 そしてそれは、エリスにとって――苦痛以外の何ものでもなかった。
「……そう、ずっと言ってたでしょ。あたしは、月の者になんて生まれたくなかった」
 それは、アンジェラも同じだっただろう。魔女。特殊能力者。奇異な存在は、そのまま奇異な目で見られる。大人たちは重宝したが、子供はあからさまに疎外感を示した。どっちにしろ、嬉しい反応ではない。
 アンジェラから目を離し、再び水路に向き直った。
 エリスは、手持ち無沙汰になった手で、地面に落ちていた煉瓦の欠片を拾い上げる。それを、水面に向けて投げながら、続けた。
「けど……このままここにいたら、そう言う目から逃れられない」
 パシ、パシ……パシャン。
 二度水面を跳ねた煉瓦の欠片は、三度目で水路に沈んだ。藍色の水路が、水模様を立てる。
 ここに、ルナ信仰の国セイドゥールに居続けたならば、ルナの使者という人々の目から逃れることは出来ない。
 だから――出る。この街を。この国を。
「それに……あんた達にも迷惑かけるし、今日みたいにね」
「……」
 月の者だから襲われた。石を持っていたから襲われた。そして――それで、アンジェラを危険な目にあわせた。それは事実だった。
「……だから。もう、そんなのは嫌だから。あたしは、あたしのやりたいように、生きたいように、生きる」
 再び、振り返る。戸惑いも何も過ぎ去った、アンジェラの真っ直ぐな目を見つめ返す。
 そのアンジェラが、口を開いた。
「私のためでもあるって、そういいたいの? あんたの家出は、私を危険な目に合わせたくないから、そういいたいの? だったら言っておくわ。ありがた迷惑って言葉、覚えときなさい」
 その言葉に、エリスは思わず笑い声をもらした。
「あんたなら、絶対そういうと思った」
 アンジェラらしい、真っ直ぐな言葉。くつくつと笑い声が漏れた。
「――でも、違うよ。これは、あんたのためじゃない。あたしのためだ」
 そう言うと、アンジェラは無理やりだろう、頬に小さな笑みを浮かべてきた。
「……そ、勝手になさい」
「……ごめん。アンジェラ」
「謝る必要なんてないでしょ。私はあんたの彼女でも家族でもないんだから」
 どこか突き放すような言い方に、胸の痛みを覚える。そう仕向けたのは自分だ。
 けれど、言わずにはいられなかった。
「……家族、みたいなものだよ。姉妹って言うの? ……ずっと、一緒だった」
 アンジェラが生まれてから十三年。ずっと一緒に育ってきた。
 二人で怒られたこともある。二人で笑いあったことも幾度もある。喧嘩もしたし、何日も口を利かないことだってあった。それでも、ずっと一緒だった。はじめてのおつかいやら、学生時代の思い出やら、そう言ったものの隣には、必ずアンジェラがいた。
 血は繋がっていない。けれど、アンジェラはエリスにとって妹みたいな存在だった。
 その、アンジェラがくすりと笑った。いつもの、迷いのない真っ直ぐな笑み。
「馬鹿ねぇ、エリス。今さら言うこと? それ」
 照れているのかもしれない。いやもしかしたら、もっと違う意味があるのかもしれない。ともかくアンジェラは、そこで言葉を切ると、一度だけ視線をはずし、それから再びこちらを見つめてきて、言った。
「……エリス。私、止めないからね」
 それは、二人でいつか交わしたことのある『約束』だった。
 お互いの決めたことに、口出しはしない。そういう『約束』。
「……うん、ありがとう」
 エリスが言うと、アンジェラは柔らかな笑みを見せた。
「……ひとつだけ、言っておくわ。あんたは狙われている。それは確かよ。それに――」
 こくり、とアンジェラの喉が上下に動いたのを、エリスは見逃さなかった。言いにくいことを口にするときの、アンジェラの癖だ。
「それに、さっき言ったでしょ。ルナの話」
「……うん」
 再度、頷く。このハイアシンス・カッレを歩いている間に、アンジェラが話してくれた――というよりも、エリスが無理やり聞き出したに近いが――事だ。
「……なんだっけ。あたしが旧神殿で操られた、だっけ?」
 確認のために聞いてみる。にわかには信じがたいことだったからだ。
「そうよ。その月の石……ペンダントが紅く光ってた」
 見下ろす。それから、右手の人差し指で軽く紐を持ち上げてみた。紅の石が、小さく反射する。
 女神ルナの使者が、生まれたときに持っている石。
 エリスは小さな苦笑を漏らした。
 この国から逃げるのは、そういったものを捨てたいがためなのに。
「結局……逃げられないって感じだね」
「わかってんじゃん。……どっちにしろ、国を出たところで、この大陸からは出る事は出来ないんだし……この、封鎖世界。魔導大陸ルナからはね」
 アンジェラが、目を細めて顎を上げた。遠くを見るかのように。遠くにあるのはレイティディス山脈の姿だが、アンジェラの目はおそらく、それよりもずっと向こうを見据えている。
 この大陸の外側、ルナ大陸海域の最果てには――結界がある。
 アンジェラの目は、おそらくそれを見つめようとしているのだ。
「この大陸からは誰も出る事ができないし、他大陸から来る事も出来ない。女神が、大陸に結界をはっているから。そのことくらいは、あんただって知ってるでしょ?」
「……馬鹿にしないでよ。いくらなんでもそれ知らなかったら、あたしはなんなのよ」
「サボり魔」
「……いや、サボってはいたけどね。学校はね。って、そうじゃなくて」
 苦笑。確かに授業に関しては、よくエスケープしていたけれど、それ以前の問題だ。自国の国歌を歌えと言われて歌えない奴もまれだろうが、たとえそれが出来ない奴だったとしても、これくらいの『大陸の話』は常識として知っているだろう。
 女神の結界に阻まれし魔導大陸、ルナ。
「……まぁ、どっちにしろ。この国出ようと出まいと、ルナの手中から、この大陸からは出られないのよ、エリス?」
「判ってるよ」
「……それでも、家出、する?」
「――するよ」
 アンジェラの口から、細い息が漏れた。
 エリスはそれに気付いたが、気付かないふりをして、続ける。
「……あたしは、月の者でも、マグナータ家の……騎士家系の長女でもない。ただの、ひとりの、エリスって名前の……冒険者だ」
「……そ。もう、何も言わないわ」
 アンジェラが笑う。けれど、何も言わないといったその口で、続けた。
「エリス。出て行くなら、好きにすればいい。私は止めないし、止める権利もない。けどね……ちゃんと、街の奴らには挨拶していきなさいよ? パズーとか、カイリとか」
「……いや、迷惑かけたくないから、黙ってたんだけど」
 エリスが家を出たことが知れたとき、アンジェラやパズー、カイリたちは、仲が良かったということで詰問されるだろう。それを、アンジェラだけに留めたかったのだ。だからこそ、黙っていたのに――挨拶なんてすれば、一発でおじゃんだ。
 けれどアンジェラはあっけらかんと言ってのける。
「バレないように挨拶なさい。礼儀よ」
 かなりの難題のような気はする。
「……難しいんですけど」
「あんたなら出来るわよ」
 邪気のない笑顔に、エリスは思わず動いていた。手を伸ばし、アンジェラの細い体を抱きしめる。驚いたようにアンジェラの体は一度震えたが、何も言わず、抱き返してきた。
 暖かい体温が、気持ち良かった。
「……気を、つけなさいよ。無茶しすぎるの、あんたの悪い癖なんだから」
 抱きしめているアンジェラの体が、そう言葉を発した。エリスも、言った。
「あんたもね。……わがままばっかり、言うんじゃないわよ?」
 アンジェラの体が笑うように震えた。手を離し、向き直る。アンジェラの背後に、一番星が光っていた。
 瞬きすら惜しむように、エリスはそのアンジェラの姿を瞳に焼き付ける。
「……じゃあ、私は帰るわ。……もう、二度と……逢う事もないかもね」
「……あたしは、この街に戻るつもりはないから。そうかも、知れないわね」
 言葉が、途切れる。アンジェラが、細い手を出してきた。それを握り返しながら、緩みかける涙腺を閉めるのに、エリスは必死だった。
 アンジェラは、笑った。
「じゃあ、ね。……エリス」
「……ばいばい。アンジェラ」
 手を離すとき、少しお互いためらった。けれど、手のひらが離れ、親指が離れ、最後に人差し指が離れたとき、もうこれが最後なのだと実感した。
「……ばいばい」
 その言葉が、最後だった。
 アンジェラはエリスに背を向けて、ハイアシンス・カッレを東へ歩いて行った。アンジェラの家の方向に、だ。
 ゆるいウェーブの髪が、左右に揺れていた。
 アンジェラの背中は一度も振り返ることなく、宵闇色に染まり始めたセイドゥール・シティに消えていった。


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