第一章:Encounter is full of a trap――出逢いの罠


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 違う。
 反射的に脳がそんな言葉をはじき出した。違う。
(違う――思い出せ。ラスタ・ミネアで会ったあの男は、なんて言ってた?)
 ゲイルの碧色の目を見据えながら、ばれないように記憶を辿る。
 ただ、殺すだけ。それが目的ではなかった――はずだ。

『とにかく、ペンダントを捕って来いと言っていた』

(――違う!)
 その言葉を思い出した瞬間、エリスは胸中で叫び声を上げていた。
 ゲイルの言っていることと、あの男が言ったことには決定的な矛盾があった。あの男はなんと言っていた? まずはペンダントだとそう言っていたではないか。殺す、殺さないは後だと。そう雇われたと言っていたではないか。
 ペンダント――月の石。月の者の証である、それ。とっさにペンダントに伸びそうになった左手を、ぎゅっとテーブルの下で握った。
 悟られるな。まだ、判らない。
 乾いた喉に、無理やり唾液を送り込む。
(どっち――? ダリードの目的は、本当はどっち? 殺すこと? ペンダント?)
 判らない。考えても、答えは出そうにない。何故ダリードが自分たちを狙うのか、その理由も判らないのだから、考えようもない。
 と、すれば。
(……どっち。ゲイルは判って言っている? あたしたちを試しているの? それとも本当に、そう思って言っているの?)
 ゲイルの顔を見据える。眉の位置。頬の筋肉。瞳の揺らぎ。呼吸。僅かでもいい。何らかの――ほんの少しでも、何らかの手掛かりを得ようと見据える。どこか、不自然なところはあるか――?
 薄い笑みを浮かべる口元は、どこか自嘲的ですらあった。
 温和とさえ言える碧の目は、どこか哀しげですらあった。
 顔色は、特に目立った変化もない。
 呼吸も、落ち着いている。
 完全なポーカーフェイスでもない限り――
(事実を言っている……つもり?)
 嘘をついているというようには、見えなかった。
 ふと、テーブルの下で、エリスの右手にアンジェラの手が触れた。視線は投げずに、僅かに手に力をこめる。同じ強さで、反応が返ってくる。なんとなく、理解する。
(アンジェラも、気づいた)
 ゲイルと、ラスタ・ミネアの男の言葉の矛盾に、だ。
 エリスはそのまま、視線をずらしてドゥールをみた。こちらは――
(……判んないな。こっちは本当に完全なポーカーフェイスってカンジ)
 引き締まった口元に、微動だにしない目元。感情を欠落させれば、こんな顔にもできるのだろうか。全く読めない。
(――賭け、だな)
 腹筋に力をこめ、一度だけきつくアンジェラの手を握った。驚いたような視線を右頬に受けるが、気づかないふりをして、エリスは口を開いた。
「ドゥール・バレイシス――だっけ?」
 ドゥールが肯定の証のように眉を上げた。汗の浮き出た左手を、テーブルクロスにこすりつけて続ける。
「あんた、月の者だって言ったよね。月の石――あれ、もう一度見せてくれない?」
「……何のつもりだ」
「別に。確認したいだけ。あの石は贋作で、あんたの魔法もトリックだって可能性もあるでしょ。あたしは、事実はあたし自身の目で見て決める。あんた達の言っていることの何分の一かでも真実があるかどうか、それで少しは判るでしょ」
 声が震えていないことを祈りながら言う。数秒、ドゥールと視線が交差した。睨みつける蛇のような目。呑まれないように、見つめ返す。
 しばらくして、ドゥールが懐に手を入れた。背筋に力がこもる。その懐から武器が出て来る可能性は高い。瞬間的な緊迫感。
 だが、そんなエリスの内心を知ってか知らずか、ドゥールはあっさりと出した月の石をためらいもなくこちらに放ってきた。受け取らなかったせいで――放り投げられたそれが、本当に月の石か、あるいはナイフか何かの武器か、一瞬では判断できなかったので受け取らなかったのだ――月の石はテーブルの上で一度跳ねた。転がり、目の前でとまる。
 アンジェラと繋いでいた手を離し、放り投げられたそれに触れる。
 月の石。エリスのそれのように、加工はされていない。ただ石のままの状態だ。
 紅の、中に紋様が見える小さな石。触れた人差し指から、ひんやりとした感触が伝わってくる。掲げて、窓から差し込む陽光に透かしてみる。きらりと光が反射した。形はほんの僅かエリスのとは違うが、だがどこといって奇妙な点はない。
 いや――この石そのものがすでに奇妙なものなのだから、そう言ってのけるのは適切ではないのだろうが。
「……本物だね」
 偽物ではないだろう――そう判断して、エリスは言葉を漏らした。隣から覗き込んでくるアンジェラの興味深げな視線。苦笑して、その石を手渡してやる。アンジェラはしげしげとそれを眺めていた。
「ひとつ――質問、いい?」
「……なんだ」
「この石。これ自体に、何らかの意味や特殊性はある?」
 それが判れば、ダリードの真意に少しでも近づけるかも、知れない。エリスは悟られないようにあえて軽い口調で言った。
「――女神の使者、月の者が持って生まれる石」
「それは判ってるわよ。それ以外に。例えば――この石自体に、何か力はある? 持ってるだけで大金持ちになります、とか。魔法が使えちゃいます、とか。あると嬉しいな、なんてね」
 軽い口調で言ったあと、小さく頬に笑みを浮かべてみせる。ドゥールの眉が、ほんの少し怪訝を示すように動いた。
(まずった、か――?)
「――あるわけがないだろう。少なくとも、俺は知らない」
「……そっか。ちぇ。ザンネン」
 本当にそれだけだと思わせるような動きで肩をすくめる。それ以上何かを言われないうちに、エリスはアンジェラの手から月の石を取り上げると、ドゥールのほうに放り投げた。
(月の石そのものに理由がないとすれば、狙う意味がさらに判らなくなる――本当に、売りさばくつもりとか、研究対象にするとか、そうでもない限り)
 ダリードの目的は、結局判らないままだ。
 だが、ダリードの言っているはずの『目的』と、ゲイルたちの認識しているダリードの『目的』に相違があるのは事実なのだろう。
 言うべきか、言わざるべきか――それもまた、賭けだ。
(……あたしあんまり賭けは得意じゃないんだけどなぁ)
 内心で嘆息を漏らし、エリスはテーブルの下にあった左手を上に出した。レース地のテーブルクロスの上で、両手を組む。掠れた生地の感触が、今現実にこの混乱した事態が起きているのだと訴えかけてきている。
(言わないほうがいい、かな)
 その情報が、たとえどんな形であれ、目の前の二人にはないとしたら、それはエリスたちに有利に働く可能性もある。今は言わないほうがいいだろう。こととしだいを見極めてからでも、遅くはない。
「それで――」
 ふと、アンジェラの鼻にかかったような声がした。横目で見やると、アンジェラもエリスと同じようにテーブルの上で手を組み、口を開いていた。
「ようするに。ダリードの目的が私たちを『殺す』ことだとして――理由は?」
「さあ――ね。それが、おれたちにもよく判らないんだ。……暴走している、としか表現できない。だから、言っただろ。おれたちの今の目的は、あいつを止めることだって」
 ゲイルの苦笑に、アンジェラが肩をすくめてこちらを見てきた。お手上げ、といったように。
「……まぁ、今は考えても答えはでそうにないわね。いいわ、許してあげる。つまり。私たちを助けたのは――あんた達の目的のためってことでいい?」
「そういうことになるね。君たちを殺されると『仕事』のほうに支障がでる――さっき言った『とある場所へ連れて行く』ってやつだね。それが出来なくなると、おれたちも困るから。けど……」
 ふと、ゲイルが口をつぐんだ。迷うような視線を天井に投げ、ややあって薄い唇を開く。
「――本心は、さっきも言ったとおり、ダリードを止めたい。やっぱり、こんな状態になっても、弟は弟で――家族だから。詳しいことはあまり言いたくないけれど、ね。それは真実だよ」
「……」
 思わず複雑に思いが揺れる。アンジェラも、そうらしい。紫色の瞳が戸惑いの光を浮かべていた。
 答えられずにいると、ドゥールが無造作に立ち上がった。テーブルの上にあった月の石を懐にしまい、無言のまま歩き出す。
「ちょっと!」
「――もう用はない」
 にべもなく言い切り、ドゥールはこちらに視線を投げてきた。
「説明は終わったはずだ。おまえ達を助けたのは、こちらの都合だ。それでいいだろう。今はおまえ達に手は出さない。――ダリードを追う」
「お、追うってたって……いきなり消えたじゃん、あいつ!」
「そう遠くには行っていない。すぐに追いつけるはずだ」
 ドゥールの言葉に、ゲイルも立ち上がった。チップをテーブルの上に置くと、軽く肩をすくめて、
「どこかでまた会うと思うけれど、そのときは――まぁ、よろしくね。お嬢ちゃんたち。……それじゃあ」
 あっさりと――そんな言葉だけを残して、ゲイルは背を向けて歩き出した。ドゥールと二人、出口へ向かう。
「……また、か」
 今度会ったときは――完全に、こちらを狙ってくるときだろう。殺される心配はないようだが、だからといって見逃せるわけもない。しかし、二人は強かった。今、不意打ちをかけたところで倒せる保証も、また会ったとき、この間と同じように逃げおおせる保証も、ない。
(――どうする)
 少しずつ、遠ざかって行く二つの背中。どうする。自問する。どうすればいい?
(……)
 ふと、脳裏にひとつの考えが閃いた。あまりにも馬鹿馬鹿しい――そう思わずにいられないような、閃き。だが。
「エリス」
 アンジェラの鋭い声。
「覚悟は決まってる?」
 その言葉に、思わず苦笑が漏れた。どうやら、アンジェラはエリスと同じことを考えついたらしい。
「あんたさえ良ければね」
 エリスの言葉に、アンジェラの頬が軽く歪んだ。
「私もさっきのエリスの言葉に乗ることにするわ」
「と、言うと?」
「――どんな手を使ってでも生き延びてやる」
 言うなり、アンジェラは椅子を蹴って立ち上がった。壮絶なその音に、室内の隅に控えていたウエイトレスが飛び上がったが、とりあえずチップを多めに置くことで勘弁願うことにする。
「ちょーっとストップ」
 アンジェラは言いながら二人の前に回りこんだ。エリスも付いていく。
「いくらなんでも、それはないんじゃないの? お二人さん?」
 回りこんで二人を見上げる。ゲイルもドゥールも、そろって、目を白黒させていた。呼び止められるとは考えていなかったらしい。エリスが肩をすくめていると、隣のアンジェラが大仰に腕を組み、嘆息を漏らしながら続けた。
「そうよねぇ。気になる台詞だけ残しておいてバイバイ? 今度あったらよろしく? ジョーダンきっつい!」
「え……え?」
 ゲイルの引きつった声を無視して、アンジェラはすらりと細い指を左右に揺らした。
「ダメよ。お兄さん方? あんまり人を甘く見ないほうがいいわ。特に女の子はね、計算高い生き物なのよ? 今度会ったら私たちを狙うような危険因子、放っておけるはずないじゃない? だからといってまぁ、勝ち目の薄い戦いをわざわざ吹っ掛けるほどお馬鹿でもないけれどね、私たち」
「――何が言いたい」
 ドゥールの低い声に、エリスは一度アンジェラと顔を見合わせた。小さく顎を引き、お互いに考えていることがそうだと確認しあう。
 それから、ゆっくりと告げた。
「提案があるの」
「……提案?」
「そう」
 一度頷く。
「あたしたちはダリードくんに命を狙われている。そして、あんたたちはダリードくんを止めるために追おうとしている」
「取引いたしましょ、お兄さんたち」
 アンジェラが言葉を引き継いだ。左手で髪をかきあげ、それからその手で唇を覆って僅かに笑う。
「私たちが囮になってあげるわ。ダリードくんは私たちを狙っているんだから、私たちと一緒にいればすぐに会えるんじゃない?」
 ゲイルの目が見開かれた。完全なポーカーフェイスだと思っていたドゥールの顔にも、ぎょっとした色がさしていた。それが、少しばかりの優越感すらうむ。エリスは頬をゆがめたまま、続けた。
「正直言って――今のあたし達じゃ、戦力的にあいつに勝てそうにもない。あんた達の力が欲しいの。あたし達は囮になる。あんた達はあたし達に力を貸す。悪くないと思わない?」
「これが私たちの提案よ。どう? ひとつ、のってみない?」
 アンジェラの軽い口調に、ドゥールが薄く唇を開いた。
「……悪くはないな、確かに。だが、その場合俺たちの『仕事』はどうなる?」
 エリスは一度アンジェラと顔を見合わせる。おそらくこの辺りも、同じ考えだろう。アンジェラが頷くのを確認してから、エリスは告げた。
「あたし達を連れて行くってやつよね。それは後の問題でしょ。それはそん時考える」
「……」
 絶句した――というのが一番表現としてあっているのだろう。ドゥールは目を見開いたまま、言葉を漏らさなかった。アンジェラが軽く笑う。
「無茶苦茶な、って思ってる? いいわ、別にそう思ってもらっても。じゃあこうしましょ? ダリードくんの関係がひと段落ついて、あんた達を信用できそうだと思ったら、無条件でついていってあげるわ。抵抗はしない。逆ならとっとと逃げるから。文句なしね」
「……け、けど」
 ゲイルの戸惑った声に、エリスは手のひらを向けた。
「何? 言いたいことあるんなら、言ってみれば?」
「……もし。おれ達が嘘をついていたら? 仕事なんてなくて、ただ君たちを狙っていただけだとしたら?」
「あんた嘘つくの下手そうだからそれはないと思うけど」
「……」
 アンジェラがけらけらと甲高い声で笑った。
「だから、言ってるでしょう。その時はその時よ。私たちの見る目がなかったってこと。あんた達を恨んだりはしないわ」
 と、笑い声を止めると、真面目な目で告げた。
「――私自身の見る目に支払う代価が、私自身だって言うなら、それくらいの覚悟はあるつもりよ」
「アンジェラと同意見」
 エリスも頷くと、もう一度二人を見上げた。
「さて。どーする? お兄さんたち?」
 沈黙がおちた。
 じっと、二人は動かずにこちらを見下ろしている。
 睨むように、挑むように見上げているうちに、だんだん首が痛くなってきた。身長差のせいだと思うと、少しばかり悲しくもあったが、とりあえずそのあたりは無視することにする。
 ややあって――ふと、ドゥールの頬に苦笑のような色がさした。
 静かな声が、告げた。
「……全く。最近のガキはちゃっかりしてやがる」
「――!」
 エリスは思わずアンジェラと顔を見合わせた。これは――
 低い苦笑の声に、もう一度二人を見ると、ゲイルが困ったような顔で頭をかいていた。
「……わかった。条件を呑もう。こっちとしても、悪くはないしね」
「じゃあ……」
「ああ」
 ゲイルはこくんとひとつ頷いて、それからやや迷う様子を見せた後左手を差し伸べてきた。
「――利害関係が一致した、ってことで。よろしく、エリスちゃん。アンジェラちゃん」
 なんともまぁ、奇妙なことになったものだ――自らの招いた結果であるとはいえ、エリスは内心で苦笑した。
 アンジェラと視線を交わしてから、差し伸べられた左手をゆっくりと握り返した。
 繊細に見えたが、所々皮膚が厚くなっている。戦う者の手だった。
 碧色の瞳を見上げ、エリスは唇を開く。
「――よろしく。ゲイル、ドゥール」

 その握手が、不思議な協定の証になった。


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