第二章:Rebellion of Spirit――精霊の反乱


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 ――かつて。
 まだ世界に光はなく、闇だけがあった。
 世界は、永久の眠りについた夜だった。
 その、世界に――やがて、創造主が現れる。
 ディスティ――運命の名を持つその創造主は、世界に朝をもたらした。
 夜は明け、世界は動きだす。
 その世界の名は、プトネッド。
 創造主ディスティは、まず初めに天空の神と海の神を創った。天空の神と海の神は交じり合い、大地の神を産んだ。神々は、そうやって増えつづけていった。
 その神々は、創造主ディスティの元、集い、また時には争いもした。だが、ディスティは関与することはなく、ただ、世界を見守りつづけた。――続けているという。今でも。
 だが、一度だけ。たった一度だけ、創造主が自ら世界に手を下したことがある。
 大地の神が、初めに創った全大陸『ヒュージ』。
 そこに生命種――人間と呼ばれるものたちも含め――が産まれて、千年以上が過ぎた、ある時、創造主が怒りをあらわにした。
 神々にまで手を出そうとした人間に、そして、暴走を始めた神々に、怒りをあらわにしたのだ。
 創造主ディスティは、人間から大半の知恵を取り上げ、全大陸ヒュージ――巨大な、という意味を持つその大陸を、四つに分断したのだ。
 ディスティは人間達をこの四つの大陸に分断して住まわせ、それぞれの大陸に、ディスティが選出した四大神を『大陸を治める神』としてつけた。
 神々は、そこに住んだ人間達に、各々が持つ知識の欠片だけを分け与えたという。

 知識神プロメテウスが治めし、知識大陸ラフィス。
 光の女神アイテールが治めし、神聖大陸ユアファース。
 暗黒神エレボスが治めし、魔性大陸パンドラ。
 そして、月の女神ルナが治めし、魔導大陸――ルナ。
 
 それが、この大陸である。



――ラーディ・ロス著 『聖魔書』第一章『世界神話』より抜粋


 持っていたその本を一度閉じ、プレシアは深いため息をついた。
 世界は目覚めたという。だが、月の女神が治めるこの大陸は、未だに夜のままなのかもしれない、そんなことを、思う。
 ――コンコン。
「あ。はーい?」
 ふいに思考を遮って、玄関のノッカーの音が聞こえてきた。プレシアは本をその場に置くと、玄関へとむかった。


 不快感が、風となってまとわりつく。
 スピリット・フォレストと呼ばれるその島は、森が島になったというか――島が、森そのものというか、そんなような場所だった。
 そう広くはない。非常に小さな島だ。
 木漏れ日として降り注いでくる太陽の暑さにめまいすら覚える。大陸間における異常現象の一旦としての魔物の大量発生も、まぬがれてはいないようだった。
 幾度かの戦闘。そして、この暑さと、歩きなれない森の道。小さな島とはいえ、それらは疲労を蓄積させるのにそう多くの時間は要さなかった。
 初めは憎まれ口をたたいていたアンジェラやジークも、徐々に口数を少なくしていき、気づくとエリスたちはただ黙々と歩みを進めていた。
 そして、どれくらいがたったときだろうか――一本の巨木の前に、エリスたちはたどり着いた。


 太く、色の濃い幹は、それだけで年輪を思い起こさせる。力強く天に伸びた幾本もの太い枝。神々しさをもまとった、青々しい葉。蒼穹を背に、どうどうと立ち尽くしているその姿は、見上げるだけで、思わず息を呑んでしまいそうな美しさだった。
 鼻を強くくすぐる緑の匂いを吸い込んで、エリスはふぅとため息を漏らした。
「……すごい、ね」
「精霊樹――だな、こいつが」
 ジークの言葉に、アンジェラが首を傾げた。
「せいれいじゅ? ってなに?」
「精霊が宿る樹ってことさ。さっきプレシアのお嬢ちゃんに聞いただろ、あの伝説――昔話にも、出てきやがるよ。つまり、こいつが原因になっている可能性が、ある」
 ジークの言葉に、思わず他のメンバーと顔を見合わせた。
 軽く肩をすくめるゲイルと、無言のままのドゥール。エリスはその二人をみてから、ゆっくりとその精霊樹とやらに近づいた。――そのときだった。

 ざあっ

 音を立て、葉が強く揺らめいた。突風が吹き付ける。
「うわっ、な、なになになにっ!?」
 とっさに目を閉じ、後方へ下がる。小枝や葉っぱがぴしぴしと頬にあたった。それだけで、切り傷がうまれる。さらに数歩下がり――
 ふと、風がやんだ。
「……え、ええ……?」
「近づくなってことだろ。無防備だねぇ、お嬢ちゃん」
「……るっさいな」
 切れた頬の傷を手のひらでこすり上げ、毒づく。どうしようもない。と、右ポケットに入った重みに気がついて取り出した。つるつるとした手触りと、見慣れない形。プレシアがくれたオカリナだ。
「……これ、使ってみる?」
 迷信というかあまり当てにならない『お守り』だが、使ってみる価値はあるだろう。精霊を鎮める、と言っていた。
 それを掲げてみせる、と、ドゥールが細く唇を開いた。
「……吹けるのか?」
「……」
 思わず答えに窮する。エリスは楽器の類は全く無理だ。そもそも音感がないらしく、歌を歌っても外す。歌自体は好きで、どこが外れているか、とかは判るのだが、リズムがのらないし音程はとれないし、でモノにならないのだ。
「……誰か吹けない?」
 言って、周りを見渡す。初めに視線が合ったゲイルは、みるからに慌てた様子で、
「お、おれ!? 無理! 無理だよ! ちょ、調理器具を使ったカンカンとかなら、出来るかもしれないけど、えっと、楽器の類は、その」
「……ドゥールは?」
「出来たら、吹けるのかとか訊きはしない」
「……だよね。ジーク、は?」
「俺様が出来るように見えるのかい?」
 どうしろと言うのだ――諦めに肩を落として、最後の頼みの綱であるアンジェラに目をやる。
 彼女はあっけらかんとした口調で言った。
「私が出来るのは、せいぜいがリュートね。そんな特殊な楽器、出来るわけないじゃない」
「……」
 あっさりと否定され、エリスは嘆息をついた。
「……無意味な道具だったね」
「まったくだ」
 頷いたドゥールの声にかぶさるように、唐突にその声は聞こえてきた。

「――それ、あたしに貸してみな?」


 振り返る。一瞬、木漏れ日がまぶたを貫いた。陽光の下、少女がひとり立っていた。
 すらりと細く長い足。長身で、スタイルのいい体は美麗な防具に守られていた。木漏れ日を反射した銀絹糸の髪。年齢は、エリスよりニ三上だろう。色素に見放されたかのように白い陶磁の肌と、パーツの整った顔立ち。大きな目は銀青色の光を放っていた。
(うわぁ……)
 ――思わず、みとれて、エリスは内心で感嘆の声をあげていた。
 可愛いというよりも、美しいと称するのが正しいだろう。そんな少女だった。
 アンジェラも、確かに可愛い。だが、アンジェラの可愛さは、街で見かけても、そう違和感のない可愛らしさだ。しかしこの少女は――そこに居るだけで、周りの空気すら変えてしまいかねないような美しさだった。
「……あ、貴女は?」
 訊く。少女はその薄桃色の唇を少しだけ上げ、軽く笑んだ。鈴の音を転がすような声で、告げてくる。
「ミユナ。旅の魔導師だよ。――この間、この地区についたんだが、精霊が怒り狂ってやがる。――で気になってきたんだよ。それに、プレシア、だっけか。地区長さんとこの娘さん。彼女に頼まれたんだよ。ここに来ているはずの兄たちを手助けしてくれ、って。――あんたたちが、そうか?」
 美しい外見とは裏腹に、乱暴な口調でそこまで一気に述べた少女は、つと視線をゲイルに移した。この中で、金髪というプレシアにまだ似ている容姿を持っているのはゲイルだけだからだろう。視線を受け、彼は若干頬を赤らめながら頷いた。
「あ、ああ、うん。俺と、その、こいつがプレシアの兄だけど」
「やっぱりな。――で、そっちの赤い女の子。それ、あたしに貸してみな?」
 赤い女の子――と、その呼び名はあまり気に入らなかったが、そういうからには吹けるのだろう。エリスは半信半疑のまま、少女にオカリナを手渡そうとして、だが、隣からアンジェラにその手を捕まれた。
「無用心よ、エリス。確認とってからのほうがいいわ。預かり物なんだしね」
「……う、うん」
「――で? 吹けるわけ、貴女?」
 アンジェラがその問いを発した、そのときだった。
 ぐんっと、強烈な強さで、アンジェラが触れていた右手が引っ張られた。
「っ!?」
「きゃあっ!」
 アンジェラの甲高い悲鳴と同時に、引っ張られる力は急になくなった。思わずたたらを踏み、振り返る。
「――アンジェラ!」
 今度甲高い悲鳴を上げたのは、自分のほうだった。
 何が起きたのか、一瞬では判断できなかった。だが、目の前にある光景を事実とすると、こうなる。
 精霊樹が、枝を伸ばし、アンジェラを持ち上げた。
 ――枝に捕らえられたアンジェラは、蒼穹の中に溶け込むかと見えた。
「っ! いーから、貸せ!」
 悲鳴をあげるこちらの手から、少女――ミユナはオカリナを引っ手繰った。唇を、オカリナにつける。

 音が、流れた。
 懐かしい――ふと、そんな感想すら持ってしまうようなメロディアスな音色。そういえば、アンジェラが好きな音楽だったような気もする。
 緊迫した空気すら停滞するような、緩やかに伸びるオカリナの音色。ほんの一瞬、暑さすら忘れるかと思った。

 ざああっ……

 木々がざわめいた。精霊樹だけではなく、周りの木も、だ。精霊樹は、ざわざわとその枝と葉を揺らし――ゆっくりと、ゆっくりと――アンジェラの身体を地面に横たえた。
 オカリナの音色が、途切れる。
「! アンジェラ!」
 慌てて駆け寄る。真っ青な顔をしているアンジェラの隣に膝をつく。
「大丈夫? 怪我は、怪我はない?」
「……び、っくり、した……『見』損なった」
 呆然と呟くアンジェラの右手に、あかく残ったあと。――枝に捕まれたときに、つけたのだろう。
「ちと、みせてみな」
「……ジーク」
 エリス自身と同じようにアンジェラの隣にしゃがみこんだジークは、口の中で小さく呪文を唱えた。淡い光が満ちる。
「――終わりだ。まぁ。見た目はどうしようもねぇから許してくれ。でも痛みは和らいだろ」
「あ、ええ。……く、悔しいけど、礼を言ってあげるわよ」
 アンジェラが、拗ねたように口を突き出した。豪快に笑うジークに、ふぅと胸をなでおろす。何とか、大丈夫なのだろう。
 エリスはミユナに向かい合った。
「あの。――ありがとうございました、本当に」 
 頭を下げると、ミユナは笑いながら手を振った。
「気にすんな。好きでやったことだ。――それに、精霊の異常に関してはちと放っておける立場じゃなくってね。ま、あたし自身の都合もあったって訳だよ。さて、と。ついでといっちゃ何だが、精霊がおかしくなった原因、訊いてもいいか?」
「あ、ごめんなさい。……その、あたしたちも、何がなんだか。とりあえず、この樹がそれなのかな、とは思ったんですけど」
「あー。お前らが知ってるとは思ってねぇよ。あたしが訊くって言ったのは、こいつに、だ」
 ミユナはそう言って、精霊樹に無造作に近寄っていった。一瞬身構える。が、何も起きなかった。あっさりと精霊樹にたどり着いたミユナは、その美しい手を太い精霊樹の幹に当てた。
「……こ、いつ?」
 ドゥールの怪訝な声に、ジークが苦笑を漏らした。
「――おまえさん、あれか。特殊能力者?」
「そーなるのかな。実際別にどうってことはないし、あたしにとったら『普通』なんだけど。まぁ、ちぃとばかし、話をするだけさ」
(特殊、能力者……)
 また、だ。不快感が喉をつたってくる。何が、こうまで作用しているのだろうか。特殊能力者は決して多くはないはずだ。それなのに――この、人数。何かにだまされているような、何かに遊ばれているかのような不快感がある。
 ミユナは、何者なのだろうか。言葉は汚いが、アクセントは丁寧だ。西部ではないが、東部訛りでもない。――中部から北部、といったところだろう。色素の薄い容姿は、北部に多い。そう考えると、北部出身の人間ということになるが――
 そんな内心を抱えるあいだに、ミユナはつと目を閉じていて――ややあってゆっくりと目を開けた。蒼い光が反射する。
「――原因、判ったぜ」
「え……?」
「精霊と意思疎通をした、って言うのか……」
 ドゥールが戸惑いのような声をあげた。ミユナは頷いて、
「そういうことだ。何で出来るかとか、変だとか、言わないでくれよ。実際精霊ってのは目に見えないし話も聞けないし、ってなもんだってのはあたしも理解しちゃいる。けど、見えちまうし話もできちまうってんだから、そればっかは仕方ねぇだろ」
「……ま、特殊能力なんてそんなものよね」
 アンジェラが、軽く肩をすくめた。アンジェラの能力も、それに当てはまるからだろう。
「で? その精霊樹さんはなんとおっしゃって?」
 ジークの問いに、ミユナは軽く首を傾げた。その姿がとても画になる。
「や、よく判らないんだが。どーにも、自分の意思じゃなくて、操られていた? 守るべきものの力が、暴走を始めて、誰かを呼んでいた、とかそんなよーなことを」
「……はぁ?」
「いや、あたしもはぁ、だよ。えーと。後ろにあるって言って……」
 言いながら、ミユナは精霊樹の後ろにまわった。そして、声をあげる。
「お、あったあった。たぶんこれだ。――彫刻だな」
「!?」
 彫刻。その言葉に、エリスはアンジェラと顔を見合わせた。アンジェラの顔は、ひどく青ざめて、細い身体は震えてすらいた。とっさに、ミユナの傍へ走りよる。
 そして、そこにそれはあった。
 紅い月の、彫刻。細かい細工の施された、芸術品。
 ――旧神殿にあった、それと同じ物。

 紅。

 閃光のように、その色が満ちた。
「いやっ! エリスっ!」
 アンジェラの悲鳴が、遠く聞こえた。頭の奥で、何かが警鐘を鳴らしていた。遠く、アンジェラの声が、遠くに――
「エリスッ!」
 ――強い力で、腕を捕まれた。はっと意識が覚醒する。何が、どうなったのかは判らない。だが、隣にアンジェラがいる。それだけは知覚する。
「エリス、エリス、大丈夫? いやよ、しっかりしてよ!」
「……平気」
 内部からの震えを、自覚してはいた。ふいにとびそうになる意識を、必死にせき止めながら、その彫刻を見やる。
 紅い光が、まるで呼吸のように点滅をしている。――否。
「……月の、石が……!」
 自らのペンダントが、その原因だった。彫刻ではない。紅の月の石が、まるで呼吸でもするかのようにぴかり、ぴかりと光を放っている。
「……こっちも、だ」
 掠れた声に目をやると、ドゥールがひどく強張った顔で光それを手に持っていた。隣のゲイルの顔が、点滅にあわせて紅く染まっている。
「な、なんだ……!?」
 ミユナの声に促されるように、再び紅い光が満ちた。
 そして――見た。
 ――月の彫刻の上には、人影があった。
 裸身の、女性。
 金色の髪はくるぶしまで届き、エリスと同じ真紅の目は、ただ真っ直ぐにこちらに向けられていた。
 ――女神、ルナ。
 言われなくとも、それが判った。酷く重い頭の中で、それだけははっきりと判った。疑問が交差する。
 何故、頭を上げている。下げなければならない。
 何故、下げようとしている。そんな必要はない。
 臣下の礼を――
 臣下なんかではない――
 声を、聞かせてください。
 声なんて、聞きたくない。
「っ……!」
 人格が、分裂しそうだった。頭蓋にまで響く痛みに、たまらずその場にしゃがみこむ。
「エリスっ!」
 泣き声のようなアンジェラの言葉。それにすがりつくように、きつく、彼女の腕を握る。
 アンジェラがいる。傍にいる。それだけは、それだけは、事実だ。アンジェラの傍にいるのは、他のだれでもない、自分だ。――エリス、だ。

『汝、良くここまで来た』

 声。あがらおうとすればするほど、内臓すらも痛みを発している。強く握ったアンジェラの腕だけが、流されそうになる意識をせき止めてくれた。
『我が元へ来ることを拒まぬならば、汝、出会えよ』
 命令のような、あがらってはならないような、そんな声。ぐっ――とこみ上げてきた何かを、嘔吐した。体が震えている。アンジェラが、こちらの背をさすってくるのがわかったが、声も出せなかった。
『汝、恐れ無き魂を持つものならば、四竜に出会えよ』
 四竜――?
 疑問だけが、噴出してくる。
『我が意志を受け継ぎし四竜に出会えし時、
 汝が前の道、我が元へ続かん――』

 紅。

 再度、光が満ちた。まぶたを貫くその光が収まった時には、すでにそこに人影はなかった。
 体が、震えている。
「エ、エリス。エリス……」
「……だい、じょうぶ。なんとか……アンジェラ、あんたがこの間言ってた旧神殿の、って、あれ、だよね」
「……そう」
 ゆるりと首を上げ、アンジェラの顔を見る。紫色の双眸は、涙で揺らいでいた。それを、微苦笑で見て、告げる。
「大丈夫、だから」
「……ん」
 ようやっと落ち着いて、視線をあたりにむける。ジークが、驚いたような顔をしながら、それでもこちらを立たせてくれた。彼の巨躯にもたれかかるように立ち上がり、見ると、ドゥールも地面に四つんばいになって息を荒くしている。その背を、不安げなゲイルが撫でていた。
「……今の、女神ルナ、かい?」
「……たぶんね。ドゥール、大丈夫?」
 ゲイルの問いかけに、曖昧に頷いておく。ドゥールは嘔吐はしなかったようだが、それでもかなり衰弱した様子でふらふらと立ち上がった。小さく、身を震わせている。
「――寒い、のか?」
「少し……な。すぐ、治る」
 二人のやり取りに、小さな違和感を感じて、アンジェラと目を合わせた。だが、まだ意識が混乱しているらしいアンジェラは、その答えを見出せてはいないようで――ふと、ミユナが顎を上げた。
「……暑く、なくなったな。精霊が鎮まったらしい。もう、怒っちゃいねえよ」
 ジェリア・シティの異常気象は、いつのまにか収まっていたらしい。


 とにかく、エリスたちはその島を後にした。そのままそこにいるのは耐えられなかったのだ。
 舟に乗り、港へたどり着き、すぐにミユナがこう口火を切った。
「――さて、あたしはお別れだ」
「……いっちゃうの?」
 アンジェラが、きょとんとした声をあげた。涼やかな潮風が、彼女のウェーブの髪をなでていく。
「あたしにはあたしのやることがあるんでね。いつかまた逢うこともあるだろうよ」
「あの、ミユナさん。――本当に、ありがとうございました」
 エリスは、アンジェラに支えられながらもしっかりと頭を下げた。
「ミユナでいいよ。さんづけは、あんまり好きじゃない。――まぁ、あれだ。お前ら、ややこしーことになってるみたいだけど、通りすがりの人間に口出しはされたくないだろ。だから、ひとつだけ。……気をつけろよ」
「……ああ。助かった、俺からも、礼を言う」
 ドゥールの言葉に、ミユナはにこりと笑みを浮かべた。
「いいってことさ。そんじゃあな、プレシアちゃんと地区長さんにもよろしく伝えといてくれ」
 言うと、ミユナはすたすたと歩き出した。後ろ手に手を振って――ふと、こちらを向いてくる。
「――エリス」
「え……?」
 呼ばれるとは思わなかった。少し遠くなった所からのミユナの声に、数歩前に出る。
 ミユナは、その鈴の音のような声で、言った。
「もし、四竜に会いたくなったら。グレイージュ公国に来い。あそこに白竜がいるはずだ。――最も、それはお前が決めることだけどな」
 四竜――あの、女神の言った言葉だ。
 顔が強張るのを自覚した。ミユナはそれだけを言うと、またくるりと背を向けて歩き出した。
 石畳の街を、軽快な足取りで進んでいく。最後に、風に乗ってその声が聞こえてきた。
「――じゃ、達者でな」


 ジークと共に、エリスたちがプレシアの家に戻ると、少女は笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさい! ありがとう!」
「ありがとうは、こっちの台詞。ミユナと、これのおかげだったから」
 言いながら、預かっていたオカリナを手渡すと、プレシアはほっとしたように笑みを広げた。
「間に合ったんだ、ミユナさん」
「うん。――それから、伝言。よろしくって言ってた」
 そんな他愛もない会話が、心地よくさえ思えた。吐き気はとうに収まっていたので、そのせいかもしれない。
 ジークにじゃれついているプレシアを横目に、エリスたちはメルクーリに事情を――大まかにだが――説明し、報酬を受け取った。
「エリスちゃん」
 ふいに、ゲイルが声をかけてきた。
「何?」
「……その、体調悪いの、判っているし、無茶はさせたくないんだけど。今日、出発していいかな」
「……ゲイル、やめてよ。エリスはさっき、あんなだったのよ? ドゥールだってそうじゃない。いやよ、少しくらい休ませて」
 アンジェラの抗議に、エリスは苦笑して、
「アンジェラ。いいよ。大丈夫。――それに、ゲイルの考えてること、判るし」
 心配と不満が交じり合った視線を向けてくるアンジェラに、軽く肩をすくめてみせた。
「――このまま、いたら。迷惑かかるでしょう?」
 ダリードのこと、と、口には出さずに告げた。横目でプレシアを見る。聞こえてはいないらしい――ジークの腕にぶら下がって遊ぶのに夢中なようだった。
 アンジェラが、視線をさまよわせた。
「……判った、わよ」
「……ごめん。――プレシア、おれたち、もう行くよ」
 ゲイルがそう声をかけると、ジークと遊んでいたプレシアは、ふっと目を哀しげな色に染めた。
「……はやい」
「ごめん。――でも、行かなきゃいけないんだ。ラボの仕事なんだ」
 半分は嘘で、もう半分は真実――そんな台詞を吐くゲイルに、プレシアはこくんと頷いた。
「……ラボ、だと!?」
 ふいに、太い声が聞こえた。声を上げた主は――ジークだ。そのワイン色の目を見開き、ずいっとゲイルに近寄る。
「ジーク……?」
「ラボ……だと? ラボってのは、フォルム共和国のラボか。魔導技術開発研究所――か……? お前たち、ラボに関わりあいのある人間なのか――!?」
 ジークはゲイルの胸倉をつかみあげると、震える声でそう言った。
(な、んなの……?)
 また、だ。ラボ。その単語を訊くたびに、空気が苛立ちの色を帯びていく。
「ジーク……? おま、えは……ラボのことを、知っている、のか……?」
 戸惑いの声をあげるゲイルを、一度睨み据えると、ジークはゲイルの身体を乱暴に放った。長い、長い沈黙のあとに、かすれた低い声で呟いてくる。
「――知ってるなんてもんじゃねぇ。俺はあそこに……人生を狂わされたんだ」
 何がどうなっているのか、さっぱり判らない。だが、ジークの黒い顔に浮かぶ深い悲しみの色に、それ以上追求することは躊躇われた。アンジェラと視線を交わし、どうすることも出来なくてお互いに手を握る。
 長い沈黙があった。
 その沈黙のあと、ジークは懐から紙煙草を取り出した。ゆっくりと火をつけ、吸う。
 苛立ちを紛らわせるためだろう、か。時間をかけて、細い紫煙を吐き出すと、ややあって、告げた。
「……予定が変わったな」
「よ、てい?」
 思わず声に出すと、ジークの目が切なげな色を持ってこちらを見てきた。思わず、どきりとしてしまうような、そんな色だった。
「俺もこれっきりで離れるつもりだった。けどな……ラボに関わりあるらしいと聞いちゃ離れられんね。――悪いけど一緒に行動させてもらうぞ」
「……話が、見えないんだけど」
 アンジェラの言葉に、ゲイルの顔が歪んだ。
「……すまない、アンジェラちゃん、エリスちゃん。そのうち必ず話す。……だから、今は見逃して欲しい。――いい、かな」
 その言葉に、エリスはアンジェラと顔をまた見合わせ――嘆息と共に、小さく、頷いた。どうしようも、ない。
(また、変なことになったなぁ……)
 ジークが、加わることになるらしい。利害関係が一致しただけのパーティは、複雑な色を帯び始めた。
 ひとつだけ、判るのは。
 ――鍵は『ラボ』という単語にありそうだ、ということだった。


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