第三章:It is a wish to a star――願いかけた短冊


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 少しだけ距離をとって、彼の左隣に座る。
 剣は、腰から外して左に置いた。いつでも抜ける位置だと確かめて。
 包帯が巻かれた手のひらに、夜気を含んだ草露がくっつく。地面から手を離し、膝を抱え込む。
 家にいるときなら、眠るときはネグリジェを着ていた。けれどこの『旅』に出てからは、そんな余裕すらなく、いつもほぼ、上着を脱いだだけの格好だ。今日もそうだった。ただ、バンダナだけがない。それと、胸元のペンダント。
 ほんの少し、肌寒い。そう思えることが、どことなく不思議にすら思えた。ほんの数日前まで、あれほど暑い日々が続いていたというのに。
 ちらりと、エリスは隣に座るダリードの横顔を見た。深い褐色の肌色。澄みきった夜色の瞳。
(なんで……いいっていってくれたのかな)
 自分で提案したことながら、まさか呑んでくれるとは思わなかった。おかげで、何を言えばいいのか――実は、よく判っていない。訊きたい事はある。言いたいことも、ある。けれど、どう切り出すべきなのか。
 小さく吐息をつき、頭を上げる。きらきらと、星が瞬いていた。
 白く輝くおおきな一等星がひとつ。赤みがかった一等星がひとつ。ほかにも、強く瞬く星が四つほど見える。小さな星ぼしも、それこそ数え切れないほどにある。星雲――だろうか、縦にうっすらと光る大きな筋すらも見える。
「星、綺麗だね」
 我知らず、唇からそんな言葉が漏れていた。
 実際、美しかった。
 セイドゥールでは、これほど数多くの星は見られない。都会ということもあるだろう。街灯の灯りや、家々の灯り、空気の汚れ、それらが、星が瞬くのを邪魔している。そして、今宵は月もない。
 ただ、それだけなのに。
 何にも邪魔されない星の、なんと美しいことだろうか。
 星祭。たしかに、その名のとおりの夜だった。
「そういえば、星祭で祝う星って、どれなのかなぁ」
 確かジークが言うには、二つの星が出逢う日、だったはずだが、実際エリスはそれがどの星なのかは聞いていなかった。もしかしたら、昨晩眠った後に、星祭の中で説明されていたのかもしれないが、どちらにせよ、エリスには判らない。無論、ダリードとて、そうだろう。
 独り言に、答えがあるとは思ってもいなかった。望んでもいなかった。けれど、意外にも答えは返ってきた。
「――あれだ」
 淡白な少年声。ほんの少し驚いて、エリスは右隣を見やった。ダリードが、その褐色の指を空に向けている。彼の指先に視線を投じる。赤みがかった一等星。その指が、すっと空をすべり、夜空の中、どの星よりも強く輝く白い星に移動した。その二つが、そうということだろう。
 ちょうど、エリスの頭上よりほんのすこし左側に、白い星。ダリードよりほんの右側に、赤みがかった星がある。出逢う――ということだが、実際それほど近くもみえない。間に、それよりは少し輝きの弱い星がいくつかあるので、知っていなければ判りづらくもある。
「なんで、知ってるの?」
 疑問をそのまま口にすると、ダリードは伸ばしていた腕を下ろし、変わらぬ淡白な口調で答えてきた。
「昔、イヴという女に教えてもらったことがある」
「イ……ヴ」
 イヴ。ジークの、ワイン色の瞳を思い出した。あの、哀しみを含んだ瞳を。
 ラボで死んだといっていた、ゲイルたちの家族。ジークの、元彼女。
 別人という可能性は――少ない、だろう。どこにでもある名前ではある。西部ならともかく、東部では人気の高い名前だ。だったら、別人でもありえそうだが、そこに『ラボ』の名前が関わってくると、とたんに別人の可能性は低くなる。おそらくは、同一人物だろう。
 その名前に関しても、訊ねたいことはいくらでもあった。けれど、それは――今、この場では、訊いてはいけないことだろう。ジークのことを、少しでも思うならば、訊かないほうがいい。
 訊ねたい気持ちを飲み込んで、ゆっくりとダリードの横顔を視線でなぞった。真っ直ぐ前を見据えていた瞳が、ふいにこちらを向く。目が、あってしまい、エリスは知らずに唾を飲み込んだ。
「訊きたいことがあるんじゃなかったのか?」
「え、あ。……うん」
 小さく頷いて、ひとつ深く深呼吸をした。強く瞬く、出逢いの星を二つ視界に入れてから、口火をきる。
「なんで、あたしたちを狙うの?」
 端的といえば、この上なく端的だっただろう。だが、どうにも解せない疑問だった。
「ゲイルたちから、聞いたよ。ラボのことと……家族の、こと。あんたたちみんな、ラボってとこの人間なんでしょう?」
「――だった、だ」
「だった……って、今は違うの?」
「俺は違う」
 呟きのような声で、けれどしっかりと断言したダリードは、一度伸ばしていた足を引き寄せた。膝に顎を乗せるような形になってから、目を伏せて、告げる。
「俺はラボを抜け出した。だから、ゲイルたちが追ってきているんだろう。ラボは非公式の施設だから、内部の情報を握っている奴は、外に出すとまずい。始末されるのが、大前提になる。あいつらの、仕事だ」
「嘘……仕事、とか、は、聞いたけど。でも、それは、あたしたちを連れていくのがって事で、ダリードくんのことは、家族だから止めたいって……!」
「ラボの人間の言うことは、信じないほうがいい」
 裏返りかけたエリスの声を、ダリードはあっさりと遮った。吐き出しきれなかった言葉を息と共に飲み込み、ゆっくりと下を向く。
「ジークと、同じこというんだね」
 囁きが漏れる。漏れたが、木々の音にかき消され、ダリードの耳にまでは届かなかったらしい。
 そして、ふと気づく。
「ねぇ。……もしかして、今はぐらかした? あたし達を狙う理由、答えてないよね」
 そこで、言葉をきり見つめる。しばらく待っても、答えは返ってこなかった。髪をかきあげ、指の間に残った数本の赤毛を適当に捨て、エリスは続けた。
「何であたしとアンジェラが、そこに関わってくるの? おかしくない? あんたは……『ラボ』を抜け出した。だから、ゲイルたちがあんたを狙ってる。あんたと、あたしたちと。仕事の中身は違えど、同じ『仕事』だよね。ラボの。そこまではいいよ、そこまでは理解できる。けど」
 どんどん早口になっていっている。それを自覚しながら、けれど口は脳よりも早くまわっているのではないだろうかというほど、止まってくれなかった。言葉が、次々と溢れ出す。
「それが、あんたに何で関わってくるの? ラボを抜け出したあんたには、あたし達は関係ないんじゃないの? 殺したいの? それとも、月の石が目的だったの? だったら、なんで? どうして、月の石がいるの? そもそも、ラボと関わりあいを持ちたくないなら、あたし達に関わるのはリスクばかり負うことになるよね。デメリットばかりで、メリットがないんじゃないの? あんたのやってることって、何かおかしくない? なん――」
 ふと、言葉を途切れさせた。まだ続く言葉はあったはずだ。けれど、ふいにこちらの目を見据えてきた少年の瞳に射すくめられ、言葉は途切れてしまった。
「お前は、ラボのことを知らなさすぎる」
「え……?」
 疑問符を声に出すと、ダリードは再びこちらから視線を外した。
「あそこで、何が行われているのかは聞いたのか?」
「聞いた、けど」
 言葉を切って、再び顎を上げる。深く深呼吸すると、緑の匂いが濃く肺を占めた。混じりけのない星の煌きを見て、呟く。
 ラボで行っている『実験』。
「けど……なんか、実感沸かなくて」
「だろうな」
 本音を漏らしたエリスに、ダリードはあっさりと頷いた。頷いて、続けた。
「だが、事実だ。お前たちが、ゲイルたちについていったら、お前たちにも、ラボのガキどもにも、実験が待っていることになる」
「……待って」
 ふと、違和感を覚え、エリスは体ごとダリードに向き直った。
「待って。もしかして――」
 ダリードが、こちらを向いてきた。その深い夜空の色をした瞳を見つめ返し、告げた。
「もしかして、あんた、家族のことが……心配なの? それで、家族が『実験』にあわないですむように……『原因』となりえるあたし達を殺そうとしているの?」
 沈黙があった。無音のなかで、ただ木々のざわめきと葉ずれの音だけが響く。もっと静かならば――星ぼしの囁き声さえ、聞こえたかもしれない。
「……買いかぶりすぎだな」
 暫くしてから、ダリードが呟いた。
「俺は、命令に従う。ただ、それだけだ」
「命令? 誰の……?」
 エリスは、強張っていく顔を自覚しながら、それでも訊ねずにいられなかった。今、彼は、この少年は、自らの口で言ったはずなのだ。『ラボ』からは抜け出したと。だったら――『命令』とは――?
 彼にしたら、それは失言だったのだろうか。先ほどより長い沈黙があった。吹いた風に流される赤髪をそのままに、ただとくとくと心臓の音だけが刻む時間を長く過ごす。
「……間違ってる」
 ふいに、声が漏れた。フラッシュ・バックする過去の映像と、今の彼の姿。
 そう、過去の映像。
 昔――まだ、今よりもずっと子供で、何も判ってなかったころ、エリスは父親の言うことは絶対だと信じて疑わなかった。たとえそれが、愛情のない行動だったとしても、いつかは愛してくれるものだと信じていた。信じていたから、父親の『命令』には逆らえなかった。逆らうつもりすら起きなかった。
 けれど、今なら判る。判ることがある。それを――どうしても、伝えたくなった。
「間違ってる。……あんたたち、みんな間違ってるよ」
 膝で立ち上がり、数歩ダリードに近寄った。彼の目が、ほんの少し驚いたように開かれている。その顔が、少し先ほどよりも、近い。彼の目の中に、自分の姿がうつっていた。
「昔話になっちゃうけど。あたしも、前はそうだった。家を出る前まで、お父様のことは絶対だと思ってた。マグナータという名前で、騎士家系の名前で、それを汚す行動はしちゃいけないって。月の者っていう存在なら、自分がそれを望んでいなくても、まわりの期待に応えなきゃいけないって。でも、そんなの間違いなんだよ」
 気づくと、エリスは立ち上がり、彼の肩に手をかけていた。よくわからない衝動。焦りと、不安。そして、何故か――何故なのだろうか、自分でもよく判らないながらに、涙腺の緩みが自覚できた。
(ああ……そうか)
 ふいに、思い当たる。今自分は、このダリードという少年の姿に、自分自身を重ねて見ているのかもしれない。エリスはそう思った。そう思ったからこそ、言わずにいられなかったのかもしれない。
「命令とか、そんなの、無視しちゃえばいいんだよ。あんたも、ゲイルもドゥールも、みんなそう。おかしいじゃない! だって、ダリードくんの心も体も、ダリードくんのものなんだよ。あんたが、ダリードくんが、思うように使っていいんだ!」
 奇麗事だと、判ってはいた。そうでない状況も、そうできない状況もあることを、経験上エリスは知っていた。けれど、奇麗事でも、何でも、それがたとえ嘘でも、真実としての想いだけは、本当だった。
 自由になりたい。
 それは、エリスの、アンジェラの、願いだった。
 自由になりたい。
 それは――もしかしたら、彼らの――
「なんで……なんで、命令とか、そんなので、人を狙えるの」
 風が流れた。ダリードの短くきられた銀色の髪が、星と同じように煌いた。
「俺たちは、月の者だ。結局は、ルナの言いなりだ。大した差はない」
「違う!」
 間近にいるというのに、それは判っているのに、それでも大声で否定の言葉を吐いた。薄い彼の肩を揺さぶるように続ける。
「そんなのは嘘だ。あんたの力が何か、あたしには判らないよ。たぶん、消えたのがそうだよね。あの、炎の泥人形もそう? あたしの力は判らない。判りたくもないよ。気にならないって言ったら嘘になる、でも、判りたくないよ。あたしにある『力』が、そんなのが女神様のためでも……女神様が創ったものだとしても、でも」
 肩を大きく上下させ、エリスはひとつ息を吸った。つんと鼻の奥が痛んだ。
「でも。あたしは、あたしだ。あんたも、そうじゃない」
 ――マグナータの名前を捨てて、縛られるものがなくなったわけではなかった。けれど、今なら判る。たとえそうであったとしても、自分という存在は他のどこにもいない、ただ一個の存在だ。誰のためでもなく、そこにある存在。
「お前は、四竜に会いに行くのだろう」
 ダリードが、少しばかり目を伏せてから、そう告げた。こちらの手を払い、立ち上がる。
「それすらも、ルナの意思だ。お前は結局、口でどう言おうと、ルナの思惑通りに動いている」
 星空の下、少年と向かい合う。奥歯がかみ合い、ちりっと小さな音がした。ゆっくりと、口を開く。
「違う。……もし、そうだとしても。そんなの、変えられるはずだ。証明してあげるわよ。あたしが、四竜にあって、けど、あたしはあたしでいられることを、ルナのためじゃなかったってことを証明してあげるわよ!」
 声が、林の中に響いた。夜空の中、瞬く出逢いの二つの星にまで聞こえてしまっただろうか。でも、それよりも、目の前の少年に、届いて欲しかった。
 少しの沈黙は、葉ずれの音が占めた。
 そして、地面のすれる音と同時に、ダリードはこちらに背を向けた。
「――無駄だな」
 低い声。それを吐き出し、少年の背はゆっくりと遠ざかっていく。
「待って!」
 声が裏返った。それでも止まらない少年の背に、エリスは声を投げた。
「ストップ! あーもう! ダリードくんてば!」
 駆け寄り、その手をとった。ふいに、剣を地面に置きっ放しだった事に気づいて、無防備すぎだ、と心が訴えかけてきた。だが、その声を無視して、エリスは少年の前にまわりこんだ。
「短気は損気、だよ、ダリードくん。時間、あるんでしょ、べつに。もうちょっとくらい話したって、いいじゃない。月の石の代価としては、まだ少し足りないんだけど」
 言うと、彼は一度自らの手の中にあるエリスのそれを見下ろし、小さく息をついた。
「――変わった奴だな」
「良く言われるよ」
 小さく苦笑をし、エリスは空を見上げた。
 月のない夜空。
 馬鹿げているとは判ってはいた。けれど。
 後少しだけ、彼と話す時間が欲しい。
 ――そう、思わずにいられなかった。
 二つの出逢いの星が、強く瞬いていた。


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