第五章:Kiss is the color of blood――血色の口付け
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「ゲイル」
幾度目かになる呼びかけとともに、彼の横へ身を寄せた。ゲイルは、こちらの視線を避けるように身をよじったが、エリスはその彼の肩をぐっと引いた。
ふっと、その顔が月明かりに照らされて視界に飛び込んでくる。
白い肌。月光の中で輝く金色の髪。高い鼻と、碧色の瞳。整った顔立ちが、揺れていた。
――目元は、赤くはれている。
「……やっぱり、泣いてたんじゃない」
小さく、嘆息をつく。明らかに泣き腫らした後の目だった。
「ばれちゃうか」
ゲイルが苦笑して、目元を拭った。力のない笑みだった。
そのまま、彼は座るように促してくる、エリスは少し躊躇った後、ゆっくりと隣に腰をおろした。濡れた草葉が、何故か気持ち良く感じた。
身体をおろすと、再度疲労が身を苛んで来る。脳髄に鈍く響いて来る痛みを意識の隅に押しやり、隣のゲイルの顔を見上げた。
薄い笑みが、彼の顔を彩っている。どこか自嘲気味な、そんな笑みが。
ふと、目が合う。碧色の瞳の中に、情けない面立ちの自分を見つけ、エリスは羞恥を覚え顔をそむけた。
そむける直前に、ゲイルの顔に浮かんだ諦めきったようなそんな微笑が、酷く絵として網膜に残った。
風が、吹く。
見下ろしていた生命の湖に小波がたち、その中に映りこんでいた月が揺れた。
「やっぱり、ね」
ふと、ゲイルの柔らかい声が言葉を紡ぐ。
横目で盗み見るように彼の顔を伺う。彼は顔に浮かべた笑みはそのままに、水面下で揺れる月を見つめていた。
「あいつが悪いと思ってたんだ。それなら、仕方ないってね。……けれど、ラボのせいだったなんてね。……おれは、何をやってたのかな」
「ゲイル……」
「ごめん。エリスちゃんにこんなこと言っても仕方ないね。判ってるんだ。でも」
後半は、音にならなかった。くぐもった音に、顔を上げることが出来なかった。おそらくは、顔を覆っているのだろう。
「あいつはそれでも……弟だから……」
泣き出しそうな声に、苦い思いが膨れ上がる。
「ゲイル、その……」
「謝らないでくれよ」
ぴしゃりと遮られ、思わず息を呑む。さっと顔に血が昇った。ついさっき、ミユナに言われたばかりだ――それなのに、今自分は何を口走ろうとしていた?
思わず俯いたエリスの耳に、ゲイルの声が降って来る。
「エリスちゃんが謝る事じゃないからね。むしろおれは、君に感謝しているんだ」
その言葉に、エリスは自分の耳を疑った。呆然と、ゲイルの顔を見上げる。
「……え?」
口をついて出た音は、あまりに間が抜けていた。そう思ったのは、エリス自身だけではなく、ゲイルも同じだったらしい。彼は小さく苦笑の音を漏らした。
こちらの頭を、躊躇いがちになでてくる。久しぶりにバンダナをはずしていたためか――目覚めたときにはなかった。眠っている間にはずされたのだろう――、直に伝わってくるゲイルの体温が、くすぐったかった。
「――ありがとう」
「……な、に……いって……」
「初めてだったんだよ」
呆けたまま、口から漏れる呟きを遮り、ゲイルがぽんぽんと、こちらの頭を軽くたたいた。軽いその口調で、穏やかに目を細め、前を見ている。
「初めてだったんだよ。情けない話だけどね。……おれ、あいつが、ダリードが笑ったのを見るのなんて、初めてだったんだ」
ふいに、鮮やかによみがえってくる赤い色。
そして――笑みの浮かんだ、間近で見た、少年の顔。
血の味がまた、口中に蘇り、エリスは手で口を抑えた。その間にも、ゲイルは言葉を続けている。
「おれだけじゃないよ。たぶん、ドゥールも。……プレシアや他の皆も、見たことないんじゃないかな。あいつが笑うのなんてさ。十四年。十四年間だ、ずっと一緒に暮らしてきたのに……本当に、赤ん坊のころぐらいしか、笑ってないと思うよ。あいつ。そのころの記憶なんて、俺たちにはないから……初めて、見たってことになるんだ」
ゲイルが、小さく笑った。
「情けない家族だよ。笑顔すら、与えてあげられなかった。何も、出来なかった」
「……どうして?」
どこか、ぼんやりした意識の中で、自分の唇がそう動いたのをエリスは見ていた。――自分自身を見る、そんな違和感を覚えながら、ぼんやりと、ただ、そう訊ねていた。
「どうして、笑わなかったの?」
「さあ。なんでだろうね」
ゲイルは、こちらの頭から手を離すと、草を数本引きちぎった。自嘲気味な笑みを、月光が照らしている。
「どこか、壊れていくのかな。ラボにいると。……そういう、ことなのかもね」
「ゲイルも?」
「おれも、そうかも」
ふっ、と、ゲイルが笑いを漏らした。それから、今度は穏やかな――夕焼けと、夜の間のあの空のような、そんな表情をこちらに向けてきた。
「それは、ともかくさ。だから、ありがとう。……あいつの兄として、エリスちゃんにお礼を言うよ。たしかに、結果はこうなったけど――でも、あいつは、エリスちゃんに会えて幸せだったと思うから」
虫の音が、耳障りだった。膝頭を抱き寄せ、きつく顔をうずめる。
何度も、喉を上下させた。
「そうだ」
思い出したかのように、ゲイルが声をあげた。こつり、と頭に軽い衝撃を受ける。
「顔上げて、エリスちゃん。これ、渡したい」
言われるがままに、顔を上げる。苦笑を浮かべたゲイルが、手に何かを持っていた。疑問符を上げるエリスの手を取ると、彼はそのままそれを握らせてきた。
「あけてみて」
そう言われ、よく判らずに躊躇いながらではあったが、エリスは手を開いた。小さく指が震え、かけた爪がカチカチと音を鳴らしていた。
紅。
心臓が、跳ねたのを自覚する。
手のひらに収められていたのは、ほんの小さな石だった。
紅の――月の石。
「これ……!」
「ダリードの」
返ってきた返事は淡白だった。何を言えばいいのか判らず、エリスは両手でその石を包み込んだ。
星祭の夜に渡したのは、首から下がっている僅かな重みのそれだ。それとは違う。だが、同じ石が手のひらの中にある。
「エリスちゃんが、持っていてあげてくれないかな」
その言葉に、反射的に首を縦に振った。
「……大事に、するよ」
――彼が月の石を狙っていたその理由を、エリスはふいに話したくなった。
彼が死んでしまった今、もうそのことは言ってしまっても構わないのではないだろうかと、そう感じたのだ。もっと早くに話していれば、何かが違ったのかもしれない――そんな考えも浮かんだが、軽く頭をふって振り払った。
ゆっくりと言葉を選びながら、そのことを口にする。ゲイルの目は、初めは驚きに彩られていたが、徐々に納得へとその色彩を変えた。
「そう、だったのか」
「……もっと、早くに話してればよかったね。ごめん」
「いや」
彼は苦笑を浮かべたまま、首を振った。
「今だって、良く話してくれたと思うよ。それ以上に、良く逃げないでいてくれるね。今おれは、君の敵だよ」
今度は、エリスが苦笑を浮かべる番だった。揺れる水上の月をみながら、呟く。
「そうだね。何で隣でこんなこと話してるんだろ、あたし」
「怖くないのかい?」
「怖いよ」
即答した。ゲイルの顔を見上げ、告げる。
「怖いよ。これからどうなるか判らない。でも、なんでかな。あんた自身は怖くない」
ゲイルの苦笑が深くなった。つられるように、苦く笑う。
「なんでかな」
「おれに聞かれてもね。……いや、もしかしたら。エリスちゃんが感づいてるから、そう感じるのかもね」
エリスはよく判らずに、疑問符を浮かべて彼の顔を見上げた。一度目が合った碧色の瞳は、すと細められ、上を向く。月明かりが眩しかった。
「もう嫌だ。……もう、耐えられない」
絞り出すような声が、ゲイルの唇から漏れた。
「ゲイル……」
彼の頬を、月の雫が滑り落ちていった。
「家族を人質に取られた形だった。だから、仕方ないって割り切って、君たちまで狙って、それでも、守れるならいいと思ってた。でも、結局守れなかったよ。ぼくは……」
ゲイルがかぶりを振った。嗚咽とともに、言葉が零れ落ちる。
「もう、我慢できないんだ。あそこを……潰したい。ぼくたちは、ばらばらになるよ。それが怖かった。でも……もう、我慢の限界だ……っ」
実際には――後半の音はほとんど言葉には成り得ていなかったので、エリス自身の耳には微かなうめきとしか聞こえなかった。だが、それでも、はっきりと、ゲイルが何をいったのかは判った。
「それさ」
ゲイルから顔を逸らして、エリスは自分の膝頭を見下ろした。ズボンの下のかさぶたが、かゆい。
「あたしが考えてた、第三の選択肢」
剥がしたくてうずく右手の人差し指をおりこんで、息とともに吐き出した。驚いたように見下ろしてくるゲイルの視線を受けながら、エリスは手のひらの中の赤い石を見下ろしたまま、続けた。
「明日、アンジェラに話すよ。このこと。……確かに、ダリードは死んだ。あたしが殺したよ。でも、約束は……有効かな、まだ」
「やくそく……?」
反復してくるゲイルに、しかしさすがにそれは答えようがなかった。
(四竜に会っても、あたしはあたしでいられるって……そう、証明してみせるって……)
手の中には、月の石がある。四竜に会えば、女神ルナの思惑も判る。そして――そうして、全てをはっきりさせたい。そして、鎖を――断ち切りたい。彼が縛られていた、それを。彼と――その兄である、ゲイルや、ドゥールたちが縛られている、それを。そう、思ったのだ。
静かな沈黙が落ちた。どこかで、小石が崩れたのだろうか。静かな音とともに水面に波紋が広がり、ややあって、また水鏡のような状態へと戻る。
「あのさ。これ、見て?」
ふいに思い出し、エリスは胸元から一枚の紙を取り出して、それをゲイルへと渡した。
彼の目に、再度驚きが広がる。
「これ、エリスちゃんの短冊かい? ……そう言えば、どうしてあいつが持ってたんだ?」
「あたしのだけど、あたしのじゃないよ。裏、みて?」
言われたとおりに裏返すゲイルの手が、微かに震えていた。それを見てから、呟く。
「あの夜にね、話したときに。渡したんだ」
ゲイルの横顔が歪んでいた。泣き出しそうな笑みの形に。先ほどの自分も、これと似たような表情を浮かべていたことだろう――と、そんなことを思いながら、エリスはゆっくりと言葉を紡いだ。
「汚い字でしょ? ちょっと、笑っちゃったよ」
ペンにインクをつけることも、初めてだったわけではないだろうに――それなのに、その文字は奇妙なほどに震えて書かれていた。所々、力を入れすぎたのだろう、インクが跳ねて、黒く点となっている。
それでも、それは文字だった。
あの少年が、おそらく、生涯ではじめて書いた文字。
「エリスと……」
ゲイルが、それを言葉に出した。彼の柔らかいトーンの声が心地良く、エリスは目を閉じてそれを聞いた。
「エリスと一緒に……自由になる……ダリード・ズロデアフ」
あの夜のことを思い出しながら、呟く。
「教えたの。文字。――ていっても、全部あそこで見たものだけだし、おかげで文法、まちがちゃってるけどね」
「エリスちゃん……」
「ゲイル」
かすれそうになる声を、意識して音とする。呼びかけを遮り、エリスはゲイルの顔を見上げた。
「あたし、ダリードにキス、されたでしょ。あれ、ファースト・キス」
笑ってみせると、ゲイルの顔は戸惑いに転じた。ころころと変わる彼の表情が、なんとなく面白いと、どこかでそう思った。
「あたしん家、厳しかった……からさ。そういうスキンシップ、なかったんだよね。アンジェラの家みたいにお帰りだのお休みだのキスなんて、あるわけないって家庭でさ。だから、はじめてなの」
目を閉じ、石を左手に持ち、空いた右手を唇へと持っていった。
まだ、血の味が残っている。
「嫌じゃ、なかったんだよ。まだ残ってる気がするくらい。でも」
肩が少しだけ、振るえた。
「でも、同時に……ダリードを斬った時の感触も、嫌になるくらいはっきり残ってる。それが、どうしても悔しくて……」
鼻の奥が痛んだ。エリスは必死に何かを飲み下しながら、言葉を吐いた。
「あたしが、やったことだから。誰かに責任転嫁しようとしてるわけじゃない。殺した罪は罪として、受け止めなきゃいけないって、判ってる。でも、でもそれでも……それでも、そういう風に仕向けた何かに、ラボが関わっているんだとしたら、あたしはラボを許せない。許したくない」
ゲイルの――ダリードの兄の前で泣くことは出来ないと、そう思った。泣きたいのは、自分ではない。ゲイルだろう。緩んできた涙腺を、意志の力で必死に締めようとした。
「あいつのこと、何でこんなに気になってんのか判んない。ただの敵だと思ってたのに。なんでかな。なんでこんな風に……」
必死に閉めようとしたのだが――上手く行かなかった。
握り締めた月の石が、手のひらに、ほんの少しの痛みと現実感をくれた。だが、それは流れ出る何かを塞き止めるほどの力はなかった。
嗚咽が、零れる。
「ごめんなさ……あたしが、泣いていい立場じゃないのは、判ってる。のに、ごめ」
「いいよ」
柔らかな、遮り。
ふいに頭を抱き寄せられ、エリスはゲイルの肩に顔をうずめていた。
「いいよ。別に。……ただ、ぼくも、慰められるほどの精神状態じゃないから。肩、貸すけど、借りることになると思う」
エリスは、ただきつく、手の中の月の石を握り締めた。
「エリスちゃん」
ゲイルが、彼自身もまた、涙に濡れた声で囁いてきた。
「……好きに、なってくれてたのかな。弟のこと」
「……っ」
肯定するにも、否定するにも、材料が足りなさ過ぎた。答えを返すべき相手は、もうこの世には居ず、ただ、入れ物と化した身体だけが、すぐ近くで眠っているだけだった。
残されたものは、エリスの手の中にある月の石と、今はゲイルが持っている短冊。
あとは、いくつかの思い出。
そして、口中に残った血の味と、手のひらにまだ残っている、最期の感触。それだけだった。
答えられずに、嗚咽を漏らすエリスの頭を何度となく撫でながら、ゲイルはぽつりと言葉を漏らした。
「ありがとう」
頭上では、物言わぬ月が、ただ冷たく輝いているだけだった。
そして、夜明けが、訪れる。
翌朝になり、エリスは『第三の選択肢』をアンジェラに伝えた。アンジェラの返事はただ、淡白で、約束を――『エリスの決めたことに口出しはしない』というそれを守る、というだけだった。
ただ、彼女は謝りはしなかった。暴言とも取れる昨夜のあれを、謝ろうとはしなかった。
エリスも謝りはせず、ただ、彼女の手を握った。
アンジェラの細い指が、握り返してくれたことが、ただ嬉しかった。
ゲイルの考えを聞いたドゥールは、多少なりとも驚きの色は隠せないようだった。
だが、暫くの思案の後、ゆっくりと肯定の仕草を示してみせた。
ダリードと交わした約束を守りたいと、エリスがそうミユナに告げると、彼女の頬に浮かんだ苦笑の色は幾分か濃くなりはしたが、だが、何も言わずに、彼女もまた、次への道標を示してくれた。
「赤竜が、近いはずだ。――このまま、南に下ってストレイツァの端まで行けばいいさ」
ジークは、苦虫を噛み潰したような表情で、貫けるように青い空を見上げていた。
その顔に、感慨深い何かがよぎって見えたのは、エリスの気のせいだったのだろうか。
――安らぎの丘を、出る。
最後にもう一度だけ、即席の墓に黙祷を捧げ、エリスたちは歩き出した。
少し、行ったところで、ふいにドゥールが口を開いた。
「すまない」
何を言い出すのかとよく判らずに、エリスたちはきょとんと彼を見やった。
ドゥールは僅かに視線を落としたまま、早口で告げた。
「忘れ物をした。すぐ戻る」
身を翻し走っていくドゥールの背中から、暫く目が外れようとしなかった。
即席の墓のその前に、ドゥールは息を切らしもせずに走り付いた。
弟が埋まっているそれを見下ろし、噛み締めた葉の間から、ぽつりと彼は言葉を漏らした。
「……アザレル」
その言葉に、風がざわめいた。ややあって、ふいに人影が居た。――現れた、というよりは、その場に初めから居たかのように、立っていた。居なかったはずのその影は、当然のようにそこにたち、ドゥールの肩に手を置いていた。
「いい子ね、ドゥール」
美しい女だった。実入りの良い麦を思わせるかのような、柔らかい色の髪は大きく結わいである。ゆったりとした服は、見慣れない民族衣装のようなものだ。
ドゥールは、ふいに現れたその女を振り向きもせぬまま、ただ言葉を紡いだ。
「……あいつらを……殺さないでくれ」
「お仕置きは、しなくちゃいけないでしょう? 安心なさい、ゲイルは殺さないであげるわ。あの子にはまだ利用価値がありますから。ただ」
「他の奴にも手を出さないでくれ!」
悲鳴のように裏返ったその声に、ただ、女はくすりと笑みを漏らした。
「それは、貴方の家族? それとも、エリスさんたち? どちらを言っているのかしら?」
「……かぞくの、ほうだ」
「そう。判ったわ。いい子のあなたに免じて、殺しはしないであげましょう」
女は、赤く塗った爪先を、ドゥールの頬にはわせた。
「貴方が言うことを聞くのならね、ドゥール」
「……どう、すればいい」
「そのまま一緒に行動なさい。舞台は、わたくしが整えます」
とん、と、軽く背中を押され、ドゥールは数歩前に出た。彼が振り返ると、そこにはもう、誰もいなかった。
風にのって、声が聞こえてくる。
「お行きなさい、ドゥール。全ては、彼女の力が覚醒するための序曲に過ぎません。楽しみですわね、ドゥール?」
笑い声が、響く。
暫くその場に立ち尽くしていたドゥールは、きびすを返し走り出した。
帰ってきたドゥールは、いつも通りの無表情で――エリスは、何も判らなかった。