第六章:Azrael spins death――死を紡ぐ天使


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 剣の先が風を切る。
 女の顔が、笑みを浮かべたその顔が、近づく。斜線となる。
 剣を両手で構えたまま、下から凪いだ。全力で。
 急速に筋肉を動かしたためだろう、二の腕の傷口が開く違和感を覚える。しかし、エリスの脳にはその情報が入る隙間はなかった。
 ただ――斬る。
「斬っ!」
 喉を割った気合に、だが、手ごたえはなかった。
「……っ!?」
 タイミングとしては完璧だったはずだ。これ以上はなく。だが、手ごたえは何も感じず、切っ先は空を切るだけだった。
 力の行き場を失った剣が、手の中で暴れる。制御できず、体が反転した。無理やり剣をなだめ、引き寄せる。二の腕の包帯に、血が滲んだ。
 剣は動きを止めたが、バランスを崩し、エリスはその場に投げ出される。その衝撃が、熱くなっていた脳内に一陣の冷風を吹き込む役割をしてくれた。
「またお会いしましょう。もうすぐです。ラボで、お待ちしておりますわ」
 流れ聞こえてくるその声の主は、そこにはいなかった。
 まるで初めから、その場にいたあの女性は幻影だったとでも言わんばかりに、何もなかった。
 何もないその空間を睨みつける。
 きつく、睨みつける。
 当然のことながら、反応は返ってこず――それが、手のなかの剣の重みを増したような気がした。
「くそっ……」
 脱力感が襲ってくる。エリスは柄から離れた左手で、強く地面を殴りつけた。当然、整備などされていない洞窟の、粗悪な地面だ。ひっかかり、傷が生まれる。だが、再度殴りつけた。苛立ちが、胸中で渦を巻いていた。
「エリスちゃん」
 ゲイルが、そっと名を呼んで来た。支えられ、立ち上がる。脱力感など、今は相手にしていられない。たとえどうあれ、先に進まなければならない。アンジェラが待っている。
 おそらくは、ゲイルも同じなのだろう。兄――ドゥールが待っている、それがある。
 脱力感――あるいは、無力感と置き換えても構わないだろうその感触を引き摺り、エリスは歩き出した。桜春やミユナも、ついてくる。
「とにかく、進まなきゃ。前に」
「……ああ」
 低くミユナが頷く声を聞き、エリスは赤竜の間へ足を踏み入れた。


 眩しい。
 そして、熱い。
 やはり、という感想がまず脳裏に浮かんだ。白竜の間も同じだった。凍り付いていた――それと、似た様子。
 岩壁に阻まれた、その閉ざされた空間は、所々から炎を噴出していた。岩と岩の合間から、ちらちらと赤い舌が覗いているのだ。
 熱気に、息苦しささえ覚える。知らず噴きだす汗も、流れる前に蒸発してしまいそうだ。べたつく不快感を、額を拭うことで追いやる。
 その空間の最奥部――
 一段高くなっている、まさに『王者のための座』と言わんばかりの岩の上に、その姿はあった。
 燃え上がる真紅の翼。見るからに硬い鱗に覆われた、巨大な体躯。赤い身体の中にあって、ただ唯一、その両の瞳だけは、サファイアを埋め込んだかのような艶やかな青だった。
 赤竜。
 竜の両の眼が、エリスを捉えた。正面から見据えられ、ほんの一瞬身が竦む。
 咆哮が上がる。とたん、異臭が濃くなった。それだけではない、視界が揺れた。全身が、悲鳴を上げ、地に膝をつくことを要求してくる。吐き気が、それをさらに促してきた。
 毒をもつ咆哮。吐息だ。
 すぐ背後で、ミユナがうめく声がした。だが、エリスは体の悲鳴を無視し、剣を握りなおした。汗で滑りそうな感触を、必死に追い払う。
(大丈夫だ。出来る)
 ふと、胸中にそんな思いが浮かんだ。思い――いや、確信だ。根拠はない、だが、確実に成し遂げられるという確信。
 熱い空気を肺に送り込むと、早まっていた心臓が落ち着いてくれた。
 眩しさにくらむ目を、脱力感に緩む膝を叱咤した。目を凝らし、竜を見据える。
 既視感。
(――ある!)
 視た。あの時と――白竜のときと同じように、どこかから伸びている、赤い一本の糸。どこかは判らない、いや、空間から直接、生えている。
 エリスは強く地を蹴った。
 一歩、二歩、それだけで、大きく距離が縮む。竜の青い瞳が、迫ってきた。
 赤き竜が、口を開く――赤い炎が、吐き出される。
「危ない!」
 甲高い少女の声がした。次の瞬間、竜は僅かに衝撃を受けたかのように横に顔を逸らし、吐き出された炎は、エリスの耳のすぐ脇をかすめた。
 髪が数本焼き千切られたのだろう。焦げ臭い臭いがした。耳には火傷を負ったのかもしれない。だが、何も感じない。
 ただ、近づく。
 そして、懇親の力をこめて、エリスは剣を振り下ろした。
 赤い糸が、音もなく切れ、空中に解け消える。
「……ぐっ」
 うめく。急激な眩暈に、今度は体を立て直すことが出来なかった。頬にずるりと引きつる痛みを覚える。地面に、倒れこんだのだろう。どこかで、冷静にそう思った。
「エリスさん!」
 悲鳴とともに、小さな手が頬に触れた。知らず閉じていたまぶたを押し上げる。焦点があわない。再度閉じ、今度はゆっくりと開いた。
 幼い丸い黒瞳が、心配げに揺らぎながらこちらを見下ろしている。
「……大丈夫ネ?」
「……鈴<リン>ちゃん……今、横から助けてくれたの、あなた?」
 桜春が、小さく顎を引いて肯定の仕草を示した。竜の炎が直撃しなかったのは、桜春が横から何らかの衝撃を与えてくれたからということだ。
「ありがと……」
「そんなのは、構わないネ。どうしたネ? いきなり、倒れて」
 問われて、目を閉じる。どう答えればいいのか判らない。ただ、疲労しているとしか答えられない。だがその理由は自身では何か判らない。
 斬ったのは、赤い糸だけだ。
「エリス」
 声が聞こえた。ミユナが、こちらに手を差し伸べてくれている。その手に掴まり、ふらつきながらも立ち上がった。
「何を、斬ったんだ……?」
 ミユナが、囁くように訊いてきた。
(見えて、ない……?)
 体が震えた。ミユナの腕の中で支えられ立ち尽し、エリスは小さく首を左右に振った。
「判らない」
 あれが何なのか、判らないのだ。曖昧な答えは望まれてはいないはずだ。
 だが、結果は判っている。白竜と同じならば。
 意を決して、顔を上げる。
 まぶたを閉じていた赤竜が、そのまぶたを開けた。
 青いサファイアの眼が、エリスたちを見据える。
 そして、竜が口を開いた。
『――ええっ!? やだっ! アタシったら! 支配されてたわね!? ああん、もうっ!』
 あまりといえばあまりの言葉遣いに、じっと竜を見据えていたゲイルが呆けたように言葉を漏らした。
「……ハ、ハイテンションな竜だね」
 エリスもミユナも、そして桜春も、ただそろって頷くしか出来なかった。


『でぇ、ごめんなさいね。あなた達が、アタシを起こしてくれたのよね?』
 気さくな調子で言ってくる赤竜に、違和感を覚えるなというほうが無理だった。鱗に覆われた顔から表情を読み取るのも難しければ、その柔らかな口調で喋るたびに覗く尖った牙は、どうにも口調と外観を一致させてくれない。
 とはいえ、話を進めなければなんともならないのは判っていた。体の奥に鉛でも埋め込まれたかのような感覚を覚えながらも、エリスは唇をあけた。だが、疲労のためだろう、上手く言葉が紡げない。呼吸をするので精一杯なのだ。
 その様子を察したらしいゲイルが、代わりに言葉を紡いでくれた。
「おれたち、というよりもエリスちゃんが……かな。えっと、赤竜さま。貴女は支配されていたのですか?」
『そうよぅ、ごめんなさいねぇ。ルナ様ったら最近暴走気味で、どうしましょう。あ、アタシは赤竜のカサドラっていうの。あなたたちは?』
 ぺらぺらと喋る赤竜に、桜春がほっとしたような笑みを見せて手をあげた。
「おねえちゃん、楽しい竜様ネ! 桜春、おねえちゃんのこと好きネ!」
『あらぁ、うれしいっ』
 語尾に記号でも飛ばしそうな弾んだ口調で、赤竜が答える。エリスは、ミユナを見上げた。ミユナの顔に苦笑が浮かんでいる。多分、自分と似たような。
『って、あらぁ?』
 ふと、赤竜が首を傾げた。
 桜春を見据え、呟く。
『貴女……『ここ』の人、じゃないわよね?』
 その言葉に、つと桜春が一瞬言葉を詰まらせた。ややあって、笑う。
「秘密ネ」
『あら、残念。ま、いっか。で、あなた達何かご用? ジェイフェスおじ様には会ったみたいだし』
 その言葉に、エリスたちは顔を見合わせた。ゲイルが代表して頷く。
「はい。白竜ジェイフェス様にはお会いしました。判るのですか?」
『まぁ、ほら、一応四竜同士だからなんとなくね。ディアン兄様やファイ爺様にはまだ会ってないのね』
「えーっと……黒竜様と蒼竜様のことなら、まだ」
『あ、わかった!』
 赤竜は、唐突に声をあげた。首を伸ばし、鱗に覆われた、赤く禍々しい顔を突きつけてくる。ちらちらと、口の端から舌がのぞいていた。青い両の眼が、じろりと見据えてくる。
 笑っているつもり、なのかも知れないが、エリスとミユナは思わず身をそらしていた。本能的な恐怖だ。
『あなた達みんな特殊能力者だもんね。アタシの知識が欲しいんだ! 違う?』
 赤竜は、炎と知識を司る。エリスたちは顔を見合わせてから、曖昧に頷いた。確かに、目の前の姿は赤竜なのだが、知識――といわれると、どことなく違和を感じてしまったのだ。
 とはいえ、赤竜は満足そうに頷き返してくると、順番にこちらを見据えた。
『じゃ、まずはそっちの赤い髪の女の子。お名前と年齢は?』
 指名され、エリスはミユナの手を放して一歩前へ出た。やはり地面が多少揺れている気はしたが、何とか立てる。
「エリス……と申します。歳は……満で十四です」
『って、えらく疲れてる? 大丈夫?』
 どう答えていいものか判らず、とりあえず頷いておく。赤竜は、太い鉤爪で鱗で覆われた頬をかき、
『エリスさん、貴女、力がまだ覚醒し始めている段階でしかないみたいね』
「しはじめて……?」
『自覚はあるでしょ?』
 あっさりとそう言われ、エリスは思わず視線を落とした。ミユナとゲイルの視線が、痛い。
『大丈夫、落ち着いてアタシの話を覚えておいて。顔、上げてちょうだいな』
 再度言われて、何とか顔を上げる。赤竜は、太い牙を見せるように口を開いた。笑っているつもりなのかもしれない。
『あのね。大体特殊能力者が能力を開花させるのは、満にして十歳前後なの。貴女のように、満で十四にもなって覚醒していないってのは、例外的なことよ』
「例外……?」
『そう。大体そういう時ってのは、何らかの理由がある。一番大きな理由は――能力が強さ故に、封印も強い場合』
「どういう意味ですか」
 エリスはその言葉に眉根を寄せた。問い掛けた声が強張っていたのを自覚する。赤竜は躊躇うような素振りを見せてから、
『なんて言えばいいのかしら。早い話が、あなたの持つ特殊能力は、ルナ様が恐れる可能性すらある、強いものということなの』
「そんな馬鹿な!」
 反射的に、喉が悲鳴をついた。
 馬鹿げているとしか思えなかった。赤竜を見据え、エリスは愕然とした面持ちで立ち尽くす。
『落ち着いて。本当のことなのよ』
 どくどくと早まる鼓動の音が、耳にうるさい。
『月の者ってのは、この辺りが不安定なのよね。他の……そう、神族やなんかだと、能力は個別に決まっている。でも、月の者の能力は、個人により違っていて、何が覚醒するかは判らない。だから時々、貴女のような人が現れる。酷く強い能力を秘めた使者がね』
「……」
 唇を開いたが、何も言葉は出なかった。
『ああ、ごめんなさい。落ち着いてね。大丈夫、恐れないで。貴女の力がいくら強かろうと、持っているのは貴女自身。貴女がちゃんと貴女である限り、大丈夫よ』
「……あたしが、あたしである限り……」
『ええ』
 エリスは、そっとポケットに手を忍び込ませた。指先に、冷たい石の感触を覚える。細く息が漏れた。
「大丈夫、です。それは、約束したから」
『なら、平気よ。ただ、気をつけてね。四竜に会えば、貴女――だけじゃないけど。特殊能力者の力は望む望まないに限らず強まる傾向があるから』
「はい」
 赤竜を見据え頷く。彼女――でいいのだろう、多分――は大きく満足そうに頷いた。
『それから、そこのちっちゃい子』
「桜春ね!」
 ぴんと手をあげた桜春に、赤竜は再度頷きを返して、
『えっと、どうしましょ。あんまり言っちゃいけないかもしれないから、ヒントだけね』
 そう告げると、柔らかく詩吟を歌うかの様子で続けた。
『癒しの力は癒すだけじゃない。滅びの力は滅ぼすだけじゃない。癒しの前には哀しみがあるし、滅びの後には創造だってある。偏見はしないようにね』
「それは……魔族?」
『ええ。貴女が気付いているなら、そうでしょうね』
「……わかったネ」
『他の人たちも。今は判らないでしょうけど、覚えておいて』
 赤竜にそう言われ、エリスたちは曖昧に頷いた。
『で、そっちのお兄さん』
「あ、ゲイル・コルトナルです。えっと」
 慌てた様子で一歩前に出たゲイルを、赤竜は爪を前に示して押しとどめ、のんびりとした口調で告げた。
『ゲイルくんは……ちょっと変わってるわね。ルナ様の力ではないのに、似た波動を感じる。まぁ、何が欲しいのかわからないんだけど……こんなかんじかな。――完全な生物なんていない。四竜も、神も、もちろん人間も。完全なんかじゃないのよ。それだけね』
 言われた当の本人も、よく判らなかったのだろう。何故、それを言われるのか。だが、ゲイルはしばし言葉を吟味するように黙り込んだ後、頷いた。
「ありがとうございます」
『いいえ。それから、そっちの綺麗なお姉さん』
 ミユナが、躊躇った様子で前へ歩み出た。
「ミユナ・レイス・デュ・グレイージュと申します」
『ミユナさん、ね。……気付いているかどうか判らないし、言っていいのかも判らない。それは貴女自身が見つけるものかもしれない。だから、少しだけ。あのねミユナさん。貴女の力は貴女だけのものじゃない。ただの魔女としての能力じゃない。――貴女の中に流れる血が、そうさせるのよ』
 その言葉に、ミユナの顔色がさっと変化した。白い頬に、血の気がさす。
「それは……両親のことですか?」
『そう、ね。でもそれ以上は判らない。過去を観て思い出しなさい。そして未来を掴みなさい。ディアン兄様やファイ爺さまがお助けしてくれるはずよ。まぁ、そんなとこかな』
 ミユナは、しばらくの間赤竜を見据えていた。掴みかけた真実が、あまりに形になっていない曖昧なものだったことに、耐えるかのように。だがそれでも、ゆっくりとミユナは頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
『じゃ、頑張ってきなさいね。応援、しているわ』
 赤竜はそう言うと、ふと、思い出したように続けた。
『そうそ、最後に一つだけ。――全ての力の根本にあるのは人の、生物の思いよ。忘れないでね』
 全ての根本にあるのは人の、生物の思い――
 叶わなかった、願い事。叶えようとする約束。待っている親友。
 まぶたを閉じ、エリスは頷いた。
「……はい」


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