第七章:Dear my best friend――約束の手紙


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 その場所は、よく知っていた。
 色煉瓦で造られた、幾何学模様の地面。深い緑の街灯と、同じ色のベンチ。広場の中央にはアグライア――裸身の童女の石像と、噴水がある。比較的大きな広場だ。
 セイドゥール・シティの入り口に程近く、カナーレ・ローダ(薔薇の運河)に隣接している広場。アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)。
 夏の高い陽射しを受け、噴水の水が煌いていた。
 視線をほんの少しアグライアの石像からはずすと、子供たちが陣を作って集まっているのが目に入る。
 中央にしゃがみ込んでいるのは、一人の少女だ。年の頃なら、まだ十に達するか否か、といった程度だろう。
 長い黒髪は、ふんわりとウェーブを描きながら背中まで伸びている。アメジストの輝きを持つ瞳は、僅かに湿り気を帯びていた。
 必死に唇をかみ、涙を堪えようとしているようだが、その努力はあまり物にはなっていない。幾筋かの雫が、少女の頬を伝って滑り落ちていく。
 少女を囲む子供たちのひとりが、つま先を蹴り上げる。少女は抵抗する術を持たずに、その場に倒れた。瞬間湧き上がる笑い声のなかに、子供たちが次々と言葉を吐いていく。
『化け物!』
『気持ちわるーい!』
『人間外は、どっかいっちまえ!』
 周りとは少し違うというだけで、子供は容赦なくそれを拒絶する。その身に宿った力が具現化すればするほど、子供はそれを異質なものとして排除しようとする。体内に入り込んだウイルスを駆逐する防衛器官と同じように。
 少女――アンジェラは、その対象だった。彼女だけではなかったが、だからといって気休めになるものでもない。少女の目に映る未来は、実際のところ良いものはほとんどなかったのだ。
 自身で操ることの出来ない先見の能力は、大抵が自らの危険や、身近な人間が危機に準じたとき――あるいは彼女自身の神経が過敏になっているときに発揮されるものだ。すると自然、少女の見る未来は不吉なものが多く、口に出せばそれが当たってしまう。その事を受け入れられるほど、子供の器というものは実は大きくもない。
 魔女。特殊能力者。
 大人たちは、特殊な能力者を崇め、子供たちはそれを排除しようとした。だが、本人が望んだ結果ではない。少なくとも、エリスとアンジェラにとってはそうだった。
 幼いアンジェラは、地面に倒れたまま必死に首を振っていた。震える唇が、否定の言葉を漏らす。
『私、魔女じゃない! 人間だもの!』
 その光景が、今のものではないと頭では理解していた。だが、感情に突き動かされ、エリスは足を前に踏み出した。
『なにやってんのよ!』
 ふいに、アグライア・カンポに幼い声が響く。一瞬息を呑んだエリスは、自らの喉に手を当てた。自分の声かと思ったのだ。知らずに声を張り上げていたのかと。
 そうではなかった。だが、確かにそれは、自分の声だった。ただし、今から四、五年前の。
 視線を子供たちの輪からはずし、広場の入り口へ移す。
 赤い少女がいた。小柄な体に、勝気な表情を貼り付けている。ポニー・テイルに結った髪も、真っ直ぐに前を見据える瞳も、身を包む衣装も、全てが真紅だ。
 赤という色彩が好きだったわけではない。むしろ逆だった。だが、好んで赤い衣装を身につけていたのは、自らに対する戒めのようなものだった。受け入れるしかない、その覚悟を持つための戒め。
 子供たちが一様に笑い声を上げた。
『血まみれ月の者だ!』
『神様の使者なんていわれて、いいきになってるんだろ!』
『血まみれ!』
 自身の顔が歪むのを感じた。だが、その言葉を浴びせられた当の幼いエリス本人は、表情に一片の揺らぎも見せない。昔は、こうだった。感情を表に出せば傷が深くなることを知っていた。だから、表に出すことをしなかった。
 血の色彩を纏った少女は、足早にアンジェラへ駆け寄った。倒れた親友を抱え起こし、子供のものとは思えないほどのきつい眼差しを投げる。
 殺気と称しても支障ないほどの空気をまとい、少女は口を開いた。
『アンジェラにまた何かしたら、今度は、容赦しないから』
「……物騒な子供よね」
 ふいに割り込んだ声に、エリスは目を瞬かせた。振り返る、と、そこには広場はなくただ闇だけがある。
 その闇の中に人影が浮かび上がった。
 細い体と、緩やかにウェーブした黒髪。紫の両の瞳。
「アンジェラ……」
 アンジェラはエリスの隣に並ぶと、細い指をこちらの手に絡ませてきた。握り返し、再度前を見る。
 アグライア・カンポは蜃気楼のように溶けて消えていった。
「二人して、同じこと思い出す必要ないと思わない?」
 アンジェラの呟きに、やや呆然とエリスも言葉を返す。
「これ……過去だよね」
「たぶんね。で、私とエリスは同じ事思い出してたみたいね。だから繋がった。そんな所だと思うけど」
 アンジェラの言葉の間に、アグライア・カンポも幼い二人も子供たちも、見えなくなっていた。地の感覚もなく、前後も左右も判らない闇の中に佇んでいる。隣を見ても、アンジェラの顔は見えなかった。
 だが、触れ合った指先の感触だけは、本物だ。
 僅かに冷えたその指だけは、現実味を帯びている。
 その闇の中で声が響く。
『アンジェラが悪いんじゃない。アンジェラは、悪くない。あたしが、守る』
『違うもん! エリスは、私が守るもん』
 繋がった手が、小さな笑いを伝えてきた。言葉には出さず、エリスも微苦笑を浮かべた。
 確かに、いつか、こんな言葉を交わしあった。
『じゃあ、ずっと一緒にいよう。一緒だったら、どっちも出来る』
『ずっと、一緒ね。約束よ、エリス』
 ずっと、一緒。
 その言葉を脳裏で反復したとき、エリスには視えた。
 闇の中で一本だけ揺れる赤い糸が。
 剣は抜かず、エリスは繋がっていないほうの手を伸ばした。糸を摘む。
 ぷつりと軽い音をたて、糸が切れた。


 急速な光の中へ、放り出される。
 今まで忘れていた重力が一気に圧し掛かってきたような疲労感に足元がぐらつく。が、倒れることはなく、エリスは足を引いて耐えた。眩暈も、胃の疼きも、早まる鼓動も、繋がった手のひらがあれば耐えられる気がした。
「エリス」
 囁き声に目を開ける。アンジェラが微笑を浮かべていた。
「大丈夫」
 答え、息を吐く。視線を上げると、そこは闇ではなく遺跡の中だった。炎のように揺らぐ灯りが、幾つか灯っている。
 周りには、呆然と立ち尽くしたゲイルたちの姿があった。ミユナに至っては、何故か涙を流している。
「皆……見た?」
「……ああ」
 低く答えたのはジークだった。下向き加減のその瞳は、陰りを見せている。
『見たのだな』
 響いたその聞き取りにくい肉声に、エリスたちは振り向いた。
 金色の瞳と、視線が絡み合う。
「……黒竜」
『ああ』
 白竜や赤竜に比べれば、ずっとスマートな体つきだった。とはいえ、その巨躯はやはりという他はないだろう。
 研ぎ澄まされた鋭利な刃物のような漆黒の体に、金色の瞳がぎらついている。
 エリスはその瞳を見つめ返し、唇を開いた。
「黒竜。あたしは、エリスと申します。今の映像は、貴方が?」
『ああ、俺の力だ。とはいえ、俺自身は』
「操られていましたよね」
 エリスが告げると、黒竜は裂けた口をにやりと歪めた。
『解いてくれたのは、君か。礼を言うよ。俺は黒竜のディアン。地と過去を司る存在。過去を見ただろう? 何か掴めたか?』
 未だ涙を止められないでいるらしいミユナを慰めていたゲイルが、顔を上げた。
「それって……?」
『俺の力は、ちっぽけなものだ。過去を少しだけ、思い出させてやる。その程度のちっぽけな、けど、でかい力だ』
 黒竜は、詩吟を詠むかのように続けた。
『過去は今を作っているパーツだ。君たちが歩んできた道だよ。思い出して、今その過去を掴んでいれば何かが見つかるはずだ。その時には判らなかったものが、今なら判ることもある』
「……ああ」
 低く頷いたのはドゥールだった。顔を見合わせ、エリスもアンジェラと頷きあった。


 黒竜がその場所にあった魔術陣を作動させてくれた。淡く光る魔術陣にのれば、ロジスタの居た場所へ戻ることが可能だという。黒竜に礼と別れを告げ、まずはゲイルが魔術陣にのった。
 姿が掻き消える。
 ジークがそれに続き、さらにミユナが続こうとして一瞬足を止めた。腫れた目元を拭い、戸惑った顔でドゥールを見据えている。
「どうしたのミユナ?」
「いや……」
 曖昧に言葉を濁すと、ミユナは首を左右に振った。息をつき、躊躇いがちに足を踏み出す。
 ――姿が消えた。
 ドゥールが振り返り、無言のままこちらを見つめる。
「……何?」
「何を見た」
 その言葉に、エリスは苦笑をもらした。
「約束を、ちょっとね」
「そうか」
 はぐらかすような答えに、だがそれ以上の追求はして来ず、ドゥールもゆっくりと足を踏み出した。魔術陣の光の中へ、姿が消える。
「さ、いこっか、アンジェラ」
「待って」
 歩き出そうとしたエリスの手を、アンジェラが引きとめた。
 アメジストの瞳が、静かにこちらを見据えていた。


 無意味に往復を重ねるのは、遺跡の傷みを早くするだけだ。それは判っていたが、だがじっとしていることも出来ず、ロジスタはうろうろとその場を往復していた。うろうろ――というよりも、おろおろと、の方がニュアンス的には近いかもしれないが。
「ロジスタくん」
 その声に顔を上げると、魔術陣のなかからゲイルが歩いてきた。ほうと大きく安堵の息をもらす。
「ゲイルさん!」
「遅くなった。ただいま」
 どこか間の抜けた口調でそう言葉をかわしてくるゲイルに続いて、ジークやミユナ、ドゥールの姿も現れる。
 ロジスタはその姿を見止め、笑顔を浮かべた。
「良かった。無事で。――と、あれ?」
「エリスさんとアンジェラさんのお姿が、見えませんわね」
 ふいに会話に割り込んできた柔らかい声音に、空気がさっと色を変えた。訳も判らず振り向いたロジスタの前に、一人の女性が立っていた。
 柔らかな麦色の髪と同色の瞳。紅を引いた唇は、笑みの形に歪んでいる。
「退がれ! ロジスタ!」
 裏返ったジークの叫びは、一瞬だけ遅かった。
 アザレルは緩やかに笑みを浮かべ、ロジスタに手のひらを向ける。
「関係のないお方は、今は少々邪魔ですね。おやすみなさい」
 パンッ――と、文字にすれば軽いような音が響いた。空気が破裂するような、高い音だ。だが、その音と同時に生まれた衝撃に、ロジスタの体は後方へ飛ばされた。
 悲鳴を上げる暇すらもなかったかのように、ころころと転がっていく。乱暴な子供の手によって投げられた、人形のような姿でロジスタの体は動きを止めた。
「てめっ……!」
 引きつった声をあげるミユナのすぐ後ろで、ドゥールの視線がアザレルのそれと交差した。


 アンジェラに引き止められ、エリスはきょとりと目を瞬かせた。
「なに?」
「ん……」
 俯いたアンジェラは、こちらの両手を取ると、自身の手で包み込んだ。揺れるような声音で、囁いてくる。
「エリス……」
「アンジェラ。何、どうしたのよ」
 問い掛けると、アンジェラが顔を上げた。春の穏やかな陽光のような笑みを、こちらに向けてくる。
「ねぇ、もう一回、約束しといていい?」
「アンジェラ?」
 こちらの声には答えず、笑みはそのままでアンジェラは続けた。
「ずっと、一緒ね」
「アンジェラ……」
 先ほど見た過去の約束だ。エリスは苦笑して、アンジェラの手を上から握りなおした。
「馬鹿。今さら言うことじゃないでしょ、そんなの」
 アンジェラの顔に、笑みが広がる。少しだけ眩しく見えて、エリスはアンジェラの手を握ったまま顔を背けた。ゆっくりと歩き出しながら、背で言葉を紡ぐ。
「そんな当たり前のこと、今さらでしょ」
「……うん」
 繋がって手のひらが熱かった。照れのせいなのかもしれない。
 それでも、顔に浮かんだ笑みだけはどうしようもなかった。
 アンジェラと共に、ゆっくりと歩を進める。
 淡く光る魔術陣に足を踏み入れ、エリスたちは目を閉じた。
 繋がりあった手を、強く感じあいながら。


 一瞬の浮遊感のすぐ後に、エリスは目を開く。
 最初に飛び込んできたのは、笑みを浮かべた女の顔だった。
「おかえりなさい。お待ちしていました」
「っ!?」
 咄嗟にアンジェラの手を引きながら後退した。だが、魔術陣はもう発動していない。二歩後ろに下がり、少しだけ間が出来た。エリスの口が、知らずに悲鳴をあげる。
「アザレル……!」
 その単語に、アンジェラが小さく悲鳴を上げた。
「じゃ、じゃあ、あいつがラボの……!」
 アザレルの顔に浮かんだ笑みがきつくなった。ふいに、かかとに違和感を覚え振り返る。
 ロジスタが壊れた人形のように横たわっていた。
「ロジスタく……!」
「あんた、何を……!」
 悲鳴を上げかけるアンジェラを背後に庇い、エリスは剣を引き抜いた。
 背中に、アンジェラの震えを感じる。
 ミユナとゲイル、ジークが駆け寄ってくる。しかし、その瞬間にアザレルの姿は溶けた。
 そして、悲鳴が上がる。
 甲高い声音がアンジェラのものだとすぐに判った。判りたくもなかったが、判ってしまった。
 慌てて振り返るその間すら、もどかしく思えた。
 アンジェラのすぐ後ろにその女はいた。
 アンジェラを後ろから抱きかかえるようにして、立っていた。
「――アンジェラ!」
 エリスの喉が悲鳴を上げた。先ほどまで感じていた僅かな疲労感など、意識のどこにも残ってはいなかった。蹴り上げた地面も、収縮する筋肉も、剣を握った手も、酷く緩慢にしか動かない気がした。いつも通り――いや、いつも以上の速さで、動いているはずなのに、一秒に満たない一瞬が、酷くもどかしい。
 そのもどかしい緩慢な時間の中で、アザレルの唇がゆっくりと割れ、言葉を紡ぐのが見えた。

「ドゥール」


 ――チッ――


 緩慢に流れていた時間が、急速に流れを元へと戻した。
 聞こえた音は、僅かな、服と何かの摩擦音だけだった。
 唐突に訪れた熱さに、何が起きたのか理解する暇もなかった。ただ、地面が迫り、それに顔が打ち付けられ、その頃になってようやく激痛が全身を駆け巡った。
「……!」
 悲鳴すら出なかった。指先が痺れ、視界が霞んでいく。熱源がどこかも判らなかった。
 ただ、床に広がっていく赤い色だけが視界を侵食していった。
 その中で、黒い靴が遠ざかっていく。顔を上げる。
 血のついた短刀を握ったドゥールが、アザレルの元へと歩いていった。アザレルと、アンジェラの元へと。
「いい子ね、ドゥール」
 ドゥールから短刀を受け取ったアザレルが、微笑む。アンジェラが何かを叫んでいるようだったが、聞こえてこなかった。
 誰も動かなかった。動けなかったのかもしれないが、誰も、動かなかった。
「ドゥー……」
 名前を呼ぼうとした。何が起きたのか判らずに、エリスは彼の名を呼ぼうとした。掠れた声しか漏れなかったが、だがその声は聞こえたようだった。ドゥールは、答えなかった。
 僅かに顔を伏せ、無言のまま佇んでいた。
 力の入らない手で、それでも前へと進みながらエリスは左右に強く首を振った。幼子が、いやいやをするような様子で、きつく首を振った。
 指を伸ばす。アンジェラに、届くはずだ。伸ばせば、届くはずなのだ。繋がりあっていなければ、ならないのだから。
 なのに。
「アンジェラさんは、時が来ました。けれど、エリスさん。貴女は今はまだ、もう少し時間が必要ですね。もう少し強くおなりなさい、エリスさん」
 そんな言葉など、聞きたくもなかった。ただ、どうにかして手を、アンジェラと繋ぎ合わなければならないのだ。
 約束を、今、交わしたところなのだから。
 それなのに。
 アンジェラが手を伸ばしてくるのが判った。エリスも手を伸ばした。動かない体を呪いながら、手をきつく伸ばした。
 指先すら、触れ合うことは叶わなかった。
 アザレルの、ドゥールの、そしてアンジェラの姿が、掻き消えた。
「……!」
 血の色に全身を染めた少女は、ただ吼えるだけしか出来なかった。


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